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第一話 雪深き国に生まれて ※挿絵

挿絵(By みてみん)


「あ……あ……」


 まだあどけなさの残る少女は、青年の背に手を回し、艶めいた声をあげた。

 青年がその白い首筋に唇を滑らせると、少女は全身を駆け巡る喜びに身をよじった。

 恍惚とした表情を浮かべて目を閉じる少女を、床に積まれた藁の上にゆっくりと押し倒し、青年は荒い息を吐きながら自分の腰紐を素早く解いた。

 そして着物を肩からすべり落とした彼は、横たわる少女の体の上に乗しかかった。


覇夜斗はやと覇夜斗はやとどこなの?」


 その時、彼らがいる小屋の外から、弱々しい女の声が聞こえた。

 この小屋は吹雪に見舞われた猟師らが身を寄せるため建てられたもので、山の中腹にある。

 滅多に人が、なおのこと女がひとりで訪れるような場所ではない。

 声の主は少し離れた場所にいるらしく、あまりに小さなその声は、高揚している少女の耳にはまったく入っていなかった。

 だが、自分の名を呼ぶその微かな声に気が付いた青年は、小さく舌打ちをして少女から体を離し、のっそりと身を起こした。


「悪いな。お楽しみはまた今度だ」


 言葉とは裏腹に、悪びれた様子もなく彼はそう言い、丈の短い着物を羽織り直すと、腰紐をきつく締めた。

 襟元の乱れた少女は、藁の上で上半身を起こし、呆然とした表情で彼を見つめていた。

 そんな少女に振り返ることなく、彼は戸口のそばに立てかけていた弓を手に取り、矢筒やづつを肩に担ぐと、立て付けの悪い戸を押開き、白銀の世界へと踏み出した。


挿絵(By みてみん)




覇夜斗はやと、どこへ行っていたの?」


「兎を追っていたんだが、疲れたからそこの小屋で休んでたんだよ」


 雪景色の中に姿を現した覇夜斗はやとは、今にも屋根に積もった雪に押し潰されそうな小屋を指差してそう言った。

 雪の森に兎を追いに来たというのは本当だった。

 だがあの小屋にいた理由は、森の入口付近で出会った先ほどの少女とまぐわうためだった。

 今日初めて会ったあの少女は、一目で彼に魅了され、誘われるままにあそこまで付いて来たのだ。

 しかしそんなことを知るはずのない女は、ほっと息をつき、瞳に涙を滲ませた。


「黙ってどこかへ行かないで。あなたまでいなくなったら私……」


「大丈夫だよ。母さん。俺はどこにも行かない」


 微笑みながら母の顔を見ると、その唇は寒さで小さく震えていた。


「体が弱いんだから、そんな薄着で出歩くなよ。ほら」


 覇夜斗はやとは呆れたようにため息をつき、母に背を向けて腰を落とした。

 その広い背中に遠慮勝ちに母が身を寄せると、彼は細い体を背負って立ち上がった。


「みろよ。こんなに体が冷えきってるじゃないか」


 ゆっくりと歩き始めた彼は、自分の肩から垂れ下がる手に触れ、少し怒ったようにつぶやいた。

 そして、雪のように白いその手を自分の懐へと押し込んだ。


「あったかい……」


 母はそう言って、幸せそうな笑みを浮かべ、息子の首筋に頬を寄せた。


「本当にあなたは、あのお方に日に日に似ていくわ」


 覇夜斗はやとは、またこの話が始まったかと苦笑した。

 だが、思い出を語っている時だけが唯一、母が幸福感に浸れることを知る彼は、黙って頷きながら話を聞き続けた。


「艶やかで豊かな黒髪、鋭くも慈しみ溢れる瞳。本当にあのお方は素敵な方だったのよ」


 母は頭頂部できつくひとつに束ねられた覇夜斗はやとの髪に手を触れ、彼の見たことのない父親の事を語り始めた。

 幼い頃から幾度となく繰り返し聞かされてきた父親は、かなりの美丈夫であったらしい。

 どうやら覇夜斗はやとはそんな父の血を色濃く引き継いだようなのだ。

 そのため、母は彼が成長と共に愛しい人に似てくる事が嬉しくてたまらないらしかった。




 ここよりはるか西にある出雲国の王子であったその男は、遠征の帰りこの地で大雪に見舞われ帰路を阻まれた。

 倭国最大の勢力を誇る邪馬台国とは一線を置く出雲国は、北海道きたのわたつみち(日本海航路)沿岸諸国を従える倭国第三の大国で、覇夜斗はやとらの暮らすこの国もその配下にある。

 そんな統治国の王子が、雪が収まるまで身を寄せたのが、覇夜斗はやとの祖父が宮司を務めるやしろであったのだ。

 そこで王子は、やしろのひとり娘であった母を見初め、側女そばめとした。

 滞在中、彼らの間には甘い時間が続いたが、やがて春が訪れ、男は故郷を目指し、旅立っていった。


「いつかきっと迎えに来る」


 男が残したこの言葉を信じ、待ち続けていた母が己の体に異変を感じたのは、それから間もなくのことであった。

 覇夜斗はやとが生まれる少し前、前王が亡くなり、王子であるその男が王に即位したと噂で聞いたが、以来、男からの連絡は一切途絶えたまま今日に至る。

 それでも母は、必ず彼が迎えに来てくれると信じて疑わないのだ。

 そんな母に、覇夜斗はやとは成長して事情がわかってくるにつれ、哀れみのような感情を抱くようになっていった。




 ひとしきり話をして満足した母は、いつしか眠ったらしく、息子の背で寝息を立てていた。

 どこまでも続く白だけが支配する世界に、ぎゅっぎゅっと、覇夜斗はやとが踏みしめる雪の音だけが響く。

 やがて、雪原の向こうにこんもりとした森が見えてきた。

 あの森の中に、彼らの暮らすやしろがある。


「なんだ?」


 思わず口から出た覇夜斗はやとの声に、母も目を覚ました。

 参道の入口付近を、重厚な鎧を身に着けた男達が取り囲んでいるのが見えたのだ。

 彼らの兜や鎧は青黒く鈍く輝き、覇夜斗はやとたちが日頃見慣れている銅製のものとは、明らかに違う素材でできていた。


「あの方だわ。あの方が迎えに来てくださったのよ!」


 母はそう叫んで覇夜斗はやとの背から飛び降り、膝まである雪に足をとられながら、兵士らしき男らに向かって必死に歩き始めた。


覇夜斗はやと、あの鉄の鎧は出雲の兵よ。お父様が私たちを迎えに来てくださったのよ!」


「待てよ、母さん!」


 慌てて後を追う覇夜斗はやとに振り返りもせずに、母は前方だけを見据えて歩みを進めていった。




 ふたりが拝殿へ入ると、白い装束に身を包んだ祖父が、祭壇を背に鎧を身につけた男達と対峙して座っていた。

 覇夜斗はやとらを目にした祖父が、はっと顔を上げると、男達も一斉に体をねじって彼らの姿を見上げた。

 立派な口ひげや、参道で見た兵らとは異なる鎧兜の繊細な装飾から、彼らがそれなりの地位の者であることが感じとれた。


「おお、このお方が。その面立ち、間違いない」


 彼らの視線は、先に室内へ飛び込んできた母ではなく、後に続く覇夜斗はやとの方へと向けられていた。


「ああ、やはり、私たちを迎えに来て下さったのですね」


 男達の反応に、母は確信したのか、喜びに瞳を輝かせた。


「で、王はご一緒ではないのですか?」


 母は嬉々とした表情でそう言い、きょろきょろと周りを見回した。

 目を見開き、訊ねる母に、男達は顔を見合わせ、互いに横に首を振り合うと、大きくため息をついた。

 そして、顔の半分が髭に覆われた中年の男が、噛み締めるように言った。


「王は……みまかられました」


 その瞬間、母の顔から色が消えた。


「う……そ……」


 母は両手で口元を覆い、左右に首を何度も振った。

 覇夜斗はやとは、今にも倒れそうな母の肩を背後から抱いて支えた。


「王にはお妃様との間に男の御子がいらっしゃいませぬ。そのため、唯一の落しだねであるあなた様をお迎えにあがりました。出雲国王となっていただくために」


 呆然と立ち尽くす母の肩を抱く覇夜斗はやとの周りを、数人の兵が一斉に取り囲んだ。

 覇夜斗はやとは、彼らの視線から、有無を言わさぬ空気を感じていた。


「十九年も放っておいて、いきなり勝手なものだな」


 鋭い眼光を巡らせる覇夜斗はやとに、兵らは一瞬ひるんだように見えた。


「どうする? 母さん。俺たちに選択の余地は無いようだけど」


 問いかける覇夜斗はやとに、母は未だ愛する人を亡くした衝撃から立ち直れない様子で、泣きながら首を何度も小さく振っていた。

 母に意識が向いていたその一瞬の隙に、覇夜斗はやとの体は兵らに羽交い締めにされた。


覇夜斗はやと!」


「なんのつもりだ!」


 母の体も、別の兵らによって取り押さえられ、母と子は無理矢理引き離された。

 泣き叫ぶ母との間に、髭の男が入ってきた。

 冷めた目で母を一瞥した男は、覇夜斗はやとの顔を睨むように見上げた。


「大国出雲の王となられるお方が、このような名もないやしろの出生では統治に支障がある。本日をもって、あなた方には親子の縁を切っていただかなくてはなりませぬ」


「なんだと?」


 男に食ってかかろうとする覇夜斗はやとの体を、兵らが締め上げるようにして留めた。

 両腕を抑えられながらも顔を突き出す覇夜斗はやとの耳元に、男が顔を寄せて小声で言った。


「あなた様の態度次第では、この国の民に他国並みの重いえきちからを課してもよろしいのですよ?」


 覇夜斗はやとの顔が憎悪に歪んだ。

 出雲の支配下にある国々は、毎年一定のえきちからを課せられている。

 そんな中、冬の間深い雪に包まれるこの国では、作物の穫れ高も少ないため、他の諸国よりちからが軽減されているのだ。

 また、屋根に積もる雪をおろし、生活路を確保するためにも男手が必要なため、えきにおいても冬期は優遇されている。

 それを厳しくするということは、彼らに死ねと言っていることに等しいのだ。


「多くの民の生活を守るために、小さな犠牲はつきものなのですよ。あなたにも、いずれおわかりいただけるでしょう」


 髭の男は少しせつな気な顔をしてそう言った。





「……わかった」


 しばらくの時が過ぎ、覇夜斗はやとは髭の男を睨みつけながら言った。


「だから、母を放せ」


 覇夜斗はやとの言葉に頷いた髭の男は、振り返り、母の体を抑えている兵士に目で合図を送った。

 同時に、覇夜斗はやとの動きを抑えていた兵らの腕も、彼の体から離れていった。


覇夜斗はやと!」


 解放され、息子のそばへ駆け寄ろうとする母の行く手を、十字に組まれた槍の柄が阻んだ。

 絶望感に襲われ、その場に座り込んだ母は、両手で顔を覆い、嗚咽を漏らし始めた。


「爺さん、母さんを頼む。王になったら、俺に逆らう者はいなくなるはずだ。そうなったら必ず迎えに来る」


 泣き崩れる母の背中を抱いた祖父は、覇夜斗はやとを見上げ、大きく頷いた。

 それを見て覇夜斗はやとは、再び髭の男の方へ向き直り、鋭い視線を向けた。


「もう、抵抗はしない。お前達と共に出雲へ行こう。ただ、その前に着替えさせてくれ。雪で濡れているんだ」


 髭の男は、しばし真意を探るように覇夜斗はやとの瞳をじっと見つめた。


「わかりました。こちらでお待ちしております」


 にやりと笑った男は、そばにいた兵に手を振った。

 覇夜斗はやとが戸口へ向かって歩き始めると、その兵士が音もなく後を追ってきた。

 見張りを付けられたことに、忌々しさを感じ、覇夜斗はやとは小さく舌打ちしながら、自分の部屋へと向かって行った。




 自室へ入った覇夜斗はやとは、腰紐に差し込んだ小刀を手に取り、鞘から剣身を引き抜いた。

 見張りは、戸口の外で、彼が妙な動きをしないか、耳をそばだてているはずだ。

 見張りの様子を伺いながら、彼は小刀を握る手を頭上へと持ち上げた。

 ぶつりと小さな音がして、髪を束ねていた紐が切り落とされ、豊かな黒髪が肩を覆った。




 見張りの兵士は、中の様子が気になり、戸口に背を付け、肩越しにそっと室内に目を向けた。

 その瞬間、覇夜斗はやとが近付いて来るのが見えて、思わず彼はその場で深く頭を下げた。


「……え?」


 青年が通り過ぎたのを確認し、頭を上げた兵士は、その後ろ姿を目にして、驚きの声を上げた。

 しばし呆然と立ち尽くしていた兵士は、我を取り戻すと、拝殿へと続く回廊を闊歩していく青年の後を慌てて追って行った。





 拝殿に現れた覇夜斗はやとの姿を見て、室内の誰もが目を見開き、息を呑んだ。


「これはまた、なぜそのようなお姿に?」


 髭の男は、苦笑しながら、長身の青年の全身に視線を走らせた。

 だが、彼の表情に、覇夜斗はやとへ対する嫌悪感は感じられなかった。


「私にとっては、これが正装だ」


 腰まである長い髪を自然のままに下ろし、全身を白い装束で包んだ覇夜斗はやとは、顎を上げて男を見下すように見た。


「なるほど」


 髭の男は、今度は面白そうに声をあげて笑った。

 下ろした髪と、白一色の裾の長い着物は、神に仕える者としての姿だった。

 いずれ、このやしろを継ぐ予定であった彼は、宮司となるべく、これまで修行を続けてきていたのだ。

 だから、彼にとっての正装は、まさしくこの姿であったのだ。

 だが、この姿がこれから王となる者に相応しくないことは、誰の目から見ても明らかであった。


「王になっても、この姿でいさせてもらう。何と言われようと、これだけは譲らぬ」


 これは、覇夜斗はやとの抵抗の表れだった。

 王になることは了承しても、決して言いなりにはならない。

 彼はそんな意志をこの姿に込めたのだ。

 腕を組んでふてぶてし気な笑みを浮かべる青年に、髭の男は膝を落とし、頭を下げた。


「御意」


 床に視線を落としてそう答えながら、髭の男はにやりと笑った。


(これから面白いことになりそうだ)


 この型破りな若者が、これから王となって、どのような国づくりをしていくのか。

 彼は単純に最後まで見届けたいと思ったのだった。






 兵士らに囲まれるようにして、覇夜斗はやとは雪に覆われた山道を歩いていた。

 一年の半分近くが白く染まるこの国で、彼は生まれ育った。

 そして今日、彼は生まれて初めてこの国を後にする。


 山あいを抜け、しばらく歩いて行くと、遠くに波の音が聞こえてきた。

 さらに歩みを進め、雪化粧を纏った木々の間を抜けると、一気に視界が開け、目の前に黒い海原が広がった。


 崖沿いに続く一本道を、一行は雪混じりの風に逆らうように歩いて行く。

 先を急ぐ彼らの足元では、轟音と共に黒い波が繰り返し打ち寄せ、水しぶきを上げていた。

 そんな中、覇夜斗はやとは、吹き荒れる風に長い髪を弄ばれながら、黙々と歩き続けた。


「待ってろ、母さん。あんたを散々泣かせた男の国を、手中に収めて帰ってきてやる」


 唇を噛み締め、波と風の音に紛れて覇夜斗はやとはそうつぶやいた。


 しかし、この日が母との永遠の別れの日になろうとは、この時の彼は思ってもいなかったのだった。

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