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Voi che sapete  作者: まどか
8/9

三話同時投稿です。

 閉じた目を再び開くと、握られた手を滑る彼の指が私の握り込んだ指先を潜って再びするりと上がる。私と黒川君の指が組まれるよう握り合う形で納められる様をじっと眺めながら、黒川君の言う事が全く理解できず、それでも何故か私は逃げられないと悟っていた。


「私は嘘は吐いていないわ」

「嘘を吐いたのは僕だってば」

「どれが嘘だというの?」

「僕は、萌絵さんを、友人だなんて、思った事は、無い」


 私の手を包む手が一層温度を上げてその力を強めた。



*



 無響だ。空間として無限であるのか狭隘であるのか、上であるのか下であるのか、何もかもが解らなくなる。五感の全てが頼りにならない。確かな事は、ここに存在しているのは黒川君と私だけであり、私の心臓は停止へのプレリュードを奏でているという事だった。


 区切られて強調された文節が胸の中で弾けて呪印のように刻まれる。触れ合って絡まった手指からは熱過ぎるのか冷た過ぎるのか解らない、そんな行き過ぎた温度がじわりと私の心臓を拘束して行った。無響であるこの空間に私の心音だけが響いている。


「僕も君と同じ病気に罹っている」


 呼吸が出来ない。


「君が君自身の症状に気付くずっと、ずっと前から」

「……黒川君」

「そして僕のその病は、症状は、君を苛むものよりも更に」

「黒川君」

「更に、醜くて、卑しくて、身勝手で」

「黒川君!」

「そして愛おしい。僕は君が、萌絵さんの事が、好きだ。大好きだよ」


 神はすべからくサディストだ。


 想像も及ばなかった顛末に、私は混乱を極め、彼の嘘を理解したと同時に私が無意識の内に彼を裏切っていたわけではなかったのだという安堵と、私という人間を黒川君が好きだという理解不能なこの状況に、幸福よりも先に深い悲哀にも似た何か、衝撃、痛み。ショック症状で死に至る事があるというのなら、私は今死んでしまったのだろう。見た事も無い顔で、私を見つめる黒川君に、私はきっと酷くみっともない醜態を晒しているに違いない。


 ああ神様、あなたは何て酷い人。


「僕にとって、萌絵さんは、特別で、大切で、可愛い、世界で一番大好きな、女の子」


 眼鏡のレンズも、長い前髪も、フィルターとしての役目を放棄してしまったかのように、確かな熱を持った強い視線が私を捕らえた。常には完璧な笑みは、今は少しだけ歪で、寄せられた眉根は苦し気に強張り、黒川君の完璧な微笑みを凌駕する程にその様は鮮麗。


「黒川君……私は、ユダではなかった?」

「萌絵さんは何一つ裏切っていない」

「私は、綺麗じゃないのよ」

「萌絵さんの綺麗なところや可愛いところを、僕が一つ一つ具体的に教えてあげる」

「ねえ、黒川君、苦しいの。痛いの。心臓が、止まってしまう」

「大丈夫、僕もだよ。止まる時は一緒に」

「ねえ、ねえ、黒川君、大好きよ」

「うん」


 繋がれたままの私達の手、左手の指に柔らかい唇が触れる。薄い彼の唇は甘さを以って、再び私の心臓を雁字搦めに拘束した。


「君が、僕を、綺麗だと言う度に苦しかった」

「どうして?」

「僕は、それ程良い見目をしている訳ではないし、それから、君に対して凡そ綺麗だと言える感情を、衝動を抱いている訳では無いから」

「そんな事」

「あるんだ。だから少しずつ、嫌われたくないから少しずつそれを萌絵さんに晒してきたつもりだった」


 苦しそうに、痛みに耐えるかのように歪められた表情を浮かべたまま、握り合った手を解いた黒川君が前髪を掻き上げた。

 露わになる額、少しずれたレンズを飛び越えて見上げるように私を見つめる彼の仕草に、眼差しに、悪寒に似た感触が背筋を駆け上がり私のお腹はきゅっと縮んだ。


「多分、きっと、それを含めて黒川君は素敵だから」

「そう、君はそう言って笑った。とても可愛い笑顔を浮かべて、嬉しそうに笑ったんだ」


 大きな手がそっと私の頬を撫でた。それだけで私まで綺麗になれそうな気がして、喜びと心地良さに掌に懐く様に頬を寄せる。


「だから僕は自分の事を少し好きになる事が出来た。そして堪えられなくなったのは僕の方だった。だから萌絵さんを少し、……意地悪をする心算ではなかったんだけれど、僕の言葉に驚いたり泣く事を我慢していたり、動揺する君がとても可愛くて、もっと見たくて、」


 黒川君の独白は私には酷く難しいものだった。難解な文章は結論すら理解できない。それでも彼が私の事を本当に好きだと想っていてくれている事だけは解った。何故これまで気付かずにいられたのだろうかと不思議な程に。


「触れたい。君に。手に触れて、引き寄せて、肩を抱いたり抱きしめたり、キスをしたり、あわよくばその先も、……いつだってそんな事ばかり考えていた。今も、だけれど。僕の胸の中は萌絵さんで溢れているだなんて思いもしなかっただろう?」


 頬にあった掌がするりと顎へと滑り、私の唇を黒川君の親指が柔く押した。


「……黒川君」


 黒川君の瞳の端に星がきらりと光って見えた。それ程までに獰猛な視線に、腰が竦んでしまう。困った事に、その未知な感覚を私は嫌だとは思わなかった。獲物を仕留める時の獣のような目、私はそれをじっと眺めていた。普段は廉潔な空気を纏った黒川君が、豹変してまで私を求めていると知ってしまった。心臓がちくちくする。そしてもっとちくちくして欲しいとすら。


「嫌じゃないの。嬉しいの。はしたない? みっともないと思う? でも、本当なのよ。ただ少しだけ追いつけないの。体も心も少し置いてけぼりにされたみたいに。だからお願い黒川君。必ず、そう待たせずに追いつくから、もう少しだけ、待っていて」


 拙い言葉を列挙して必死に言い募る唇に重ねられた親指に、私の声が、吐息が掛かる。舐めたら甘いだろうかと思ってしまうその衝動は、黒川君が抱える衝動と同じ種類のものだと良いと思った。


「できるだけ早くお願いしたいな。萌絵さんは、本当に可愛い。……とても可愛いよ。でも、目に毒だ」


 じっと見ていた私の両目を大きくて少しだけ汗ばんだ、黒川君の手が覆った。薄暗い教室に慣れたはずの目が再び闇を手に入れた。


「黒川君?」

「しっ」


 唇にあったはずの親指のぬくもりは、全く違う温度を持った柔らかな感触に取って代わった。ああ、キスをしている。そう思うと少しだけ自分の唇が好きになれそうな気がした。



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