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Voi che sapete  作者: まどか
7/9

 昨夜はまるで眠れずに、ぼんやりとする意識のまま私はいつもより少し早い時間に登校した。中庭の植え込みに咲くシクラメンの少し横。黒くしっとりとした土を指先で掘る。小まめに植え替えが成されているここであれば、一年中花が咲くここならば、きっと相応しい。セレモニーを決行する場所はここしかないと思い至った。


 指の付け根まで埋まるほどの深さ、小さく掘った穴を前に居住まいを正した私は一心に黒川君を想った。彼の綺麗な微笑み、少し潤みがちな綺麗な黒目、落ち着いたテノールに、耳に心地よい鼻濁音。博識なところと、優しい指先の温度、時に辛辣な物言いや男子の中では時折粗野な言葉も使う男の子らしさ。背中に隆起した筋肉の二つの畝、私より頭一つ分くらい高い位置から覗き込むように首を傾げる角度や私の名を呼ぶ綺麗な発声。黒川君を構成する様々な要素を想い浮かべながら、尽きる事無く溢れるそれに、私は知らないうちに長い間彼に想いを寄せていたのかもしれないと気付いた。昨日今日という時間では無い、気付かぬうちに育まれた想いのままに細く長くそっとそっと息を吹きかけた。私の吐息は自ら掘った墓穴に吸い込まれて沁み込んでいく。そして少しの間瞑目し、丁寧に丁寧に埋め戻し、私の初恋を葬った。


 私が黒川君から得て植えた種は、芽吹いて震えてそして死んだ。私が殺したのだ。シクラメンのように淡くも鮮やかな色彩を遺して。植えられた花の白と赤のグラデーションが綺麗な花弁をそっと撫でると、ベルベッドのような肌触りからひやりとした温度と湿度を受け取って、そして黒川君の指先を想う。飽きるという言葉を知らない私の涙が雫となって、冷たくも温かい土を叩き色濃く変えた。


 予鈴が鳴り響く。時刻は8時25分、SHRが始まる。



*



 鈍色の空は重く垂れ込める。中庭に居座ったままどれくらい経つのだろう。鉛のように重い左腕を掲げて時計を覗き込むと、ニクソンのパディントンの針は11時を超えたところにいる。大きな長方形のそれは去年買った物だった。黒川君の白い手首の骨に引っ掛かるように回ったマットな黒いステンレスがとても素敵で、ショップに見に行くとそれはニクソンのライドというシリーズである事を知った。その隣に飾られた同じニクソンのレディース用の時計を買って帰ったあの日、私はもう既に彼に恋をしていたのかもしれない。


 私は夢遊病患者のようにゆらりと体を起してから、再び花壇に近付いてシクラメンを見下ろす。墓石の替わりに置いた丸い石をどかして指を差しこんだ。指先でそっと土を掻き出しながら、黒川君に掛ける謝罪の言葉を探していた。殺せるわけがないのだ。この想いをそんな風に、簡単に殺せるわけがなかったのだ。大切な友人として扱ってくれる黒川君に裏切ってごめんなさいと誠心誠意謝ろう。そしてこの想いが薄らぐまで、そうあろうと努力するから、お願いだから私を切り捨てるような事はしないで欲しいと。惨めでもみっともなくても。例えそれが、私自身が赦されたいが為の、それだけの行為だとしても。



*



 相も変わらず私は黒川君を眺めていた。あの日、珍しく授業をサボり泣き暮れた日から数日を経ても、私の胸の中で黒川君の占める割合はどんどん膨れて行くばかりだ。謝罪のタイミングを逃し、それどころか気持ちは薄れる事無く色濃くなるばかり。それでも私の眼球は主である私の意思など黙殺して忙しなく黒川君を網膜へと投射していた。


 リズム良く朗読される英語のセンテンス。ネイティブの発音とは言い難いながらそれなりに流暢な教師の声に、揺れる黒い髪の毛。私の左側の列、二つ前の席に座る黒川君がこくりこくりと小舟を漕いでいる。珍しい。どんな顔をして寝ているのだろう。密度の濃い彼の睫毛が描く繊細な曲線を想像しながら、ほうと息を吐くと胸の奥が軋む気がした。西日の差す午後の授業は教室をカンガルーのお腹の中のように優しく包んでいた。



*



「――……」

「……ん、……」

「……萌絵さん、起きた?」


 耳の横に感じた違和感に身動ぐと、黒川君の声が存外近くに聞こえて思わず椅子を鳴らして体を起こした。薄暗い中に浮かぶ黒川君の微笑みが、私を覗き込んでいてその鼻先には私の髪の毛が一束。ここが何処で私は一体どうしてしまったというのだろう。


「首は痛くない? 随分とぐっすり眠っていたようだったから」


 何事も無かったかのように私の髪の毛をするりと落とした黒川君が、少しだけ楽しそうに笑みを浮かべ、首を傾げて前の席に腰を掛けたまま私の机に両腕を置いた。


「何を言っているの? ……眠っていたのは黒川君で、私はそれを見ていただ、け……」


 はい、と私の目の前に掲げられた黒川君のスマートフォンのロック画面には大きなゴシック体の数字で17:24と表示されていた。


「大変だわ。今度は時間が盗まれちゃったみたい」

「ふふ。今日ばかりは僕もそうだった。萌絵さんは存外頑張り屋さんだったから」


 え、と尋ねた私の鼻先に、黒川君の鼻が触れる。ひやりとしたその温度に私の瞳孔は極限まで引き絞られていただろう。私の前髪に黒川君の前髪が重なる感触。呼吸法も忘れ近過ぎる目を逸らす事も出来ず、薄暗い中慣れてきた視界に浮かぶ白い肌と眼鏡に掛かる彼の髪越しに、私の瞳はまた主を無視して定まらない焦点を合わせようとしていた。


「そして僕は存外堪え性が無かった。……ごめんね、萌絵さん。僕は1つだけ嘘を吐いていたんだ」

「……う、そ?」

「そう。さて、どれが嘘だったと思う」


 唇の表面を撫でる彼の吐息と、黒川君が私に嘘を吐いていたという事実はどちらの方が衝撃的なのだろうか。もう私の脳はそれだけで飽和状態となり、瞳は既に涙の池となった。


「答えて」


 解らないわ、そう答えたいのに、見開いた瞳の代わりに喉がひくりと動くだけ。堪らずに顔を横に振る。実際には微かに動かしただけ、黒川君の鼻に自分のそれを擦りつけてしまっただけだった。私はもう既に自分の声すら思い出せない。


 黒川君は今どんな表情を浮かべているのだろう。怖い顔をしているのだろうか、しかしそれもきっと綺麗なのだろう。近過ぎて見る事が出来ない、それが少しだけ悔しい。黒川君へ感じてしまった恐怖心をすり替えるように思考を巡らせるが、残念ながらそれは失敗に終わる。いつだって優しく私を受け入れてくれる彼が現に今こうして追い詰めてくるのだ。私は黒川君に嘘を吐かせるような事を、こんな暴挙に出る程に彼を怒らせるような事を知らぬ内にしたのだろうか。それとも黒川君は私の裏切りを知ったのだろうか。では何故、彼の声は何故こんなにも甘く優しくキャラメルのような濃厚な甘さを含んで聴こえるのだろうか。


「……ごめ、な……さい」

「降参?」


 幾筋かの彼の前髪が私の髪を掬って離れて行く。それが酷く寂しくて手を伸ばしてしまいそうになってから、初めて感覚が無くなる程に両手を握りしめていた事に気付いた。同時に大きくて熱い、少しだけ汗ばんだ手が私の両手を包む。


「……黒川君は、怒って、いるのね」

「どうしてそう思うの?」

「私が、……私が……」

「うん」

「……黒川君の、友人としての厚意を」

「うん」

「……裏切ってしまった、から」


 言ってしまった。吐き出してしまった。私の握ったままの手は更に硬く冷たく、食い込む爪が齎す痛覚よりも体の中心が軋んで目の奥に更に熱が集まる。暗い教室の中、それでもその暗さに慣れてしまった目が映すであろう物を見る事が怖くて、ぎゅっと目を閉じた。裁かれる、というよりも斬首を待つような厳かな心持で私は首を垂れた。黒川君による断頭であるのなら、それもまた運命として受け入れられる気すらしていた。


「そう、それが嘘だった」



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