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二話同時投稿です。
辞書で引いた恋という感情は理解し難い漠然とした文章で曖昧に表現されていたが、知らぬ内に私は確かに黒川君に特別に惹かれていたのだ。そうかこれが恋なのか。わたしの恋は欲するばかりのエゴイスティックで身勝手な、淡くも優しくも甘くもないみっともない感情だったのか。
「萌絵さん、君は、本当に可愛いね」
「嘘、嘘よ。黒川君だけはそんな事言わないと思っていたのに」
「心外だな。僕は本当に萌絵さんが可愛いと思うよ。堪らなく」
黒川君は気休めのような褒め方はしない、公平な目と言葉を持っていると思っていたのに、信じていたのに。酷い人、そして何故か楽しそうなその笑顔は堪らなく魅力的で、魅力的過ぎてとろけて溢れてしまう。私の何かが、いや違う何かではない。これは紛れもなく恋だった。
「私、もしかしたら、病気の正体が何であるのか解ってしまったかもしれないわ」
「そのようだね」
「……どうして? 黒川君にはそれも解ってしまうの?」
黒川君は何も言わずに微笑みを浮かべたまま私を見つめている。その優しい眼差しは私を包み、そしてじわりじわりと優しく締めつけた。
博識な黒川君には何でもお見通しなのだろうか。大切な友人である私を気に掛けてくれているのだという、その成果だというのだろうか。純粋に私を友人として思ってくれている黒川君に、私はそれ以上に全く意味合いの異なる関係性を求めている。もしかしてこれは黒川君に対する裏切り行為ではないのかと思い至り、愕然としてしまった。
「わ、私……どうしよう……ごめんなさい…」
ぽとぽとと大粒の涙がスカートに染みを作る。それを見ていたら今日のお昼の出来事が再び脳裏で再生された。私は無意識に両手を組み顎の前にそれを持ち上げていた。赦免の姿勢は誰に決められたものでもなく自然とこうなってしまうのだろうか。私は神に告白する懺悔者のように涙ながらに訴えた。口にするのは謝罪の言葉であるにも拘らず、本当に告白したいのはあの子のものにならないでという懇願だった。私という女はなんて醜く卑しいのだろう。それでも、とせめぎ合う感情が溶解し、水分となって溢れ出る。
黒川君は、そんな私に目を見開いて見つめていた。彼が驚愕する様子など初めて見たが、そんな表情も綺麗だった。彼の瞳は思っていた以上に大きく開くのだと、私はその新たに発見した黒川君を脳裏に焼き付けながらも、すんと鼻を啜る。
「驚いた……萌絵さんは、そんな風に、いや泣き顔がとても、とても綺麗だ」
それはとても小さな呟きだったけれど、私の鼓膜を確実に振動させた。今こそ気絶してしまいたかった。
今日は黒川君がプシュケを選んでいた。彼の指が、いつもうっとり眺めていたそのまっすぐで細長い指先がするりとカップを撫でる。カップに描かれたプラチナゴールドのリボンに傾いた陽の光が集まって、黒川君の爪の先にきらきらと残像を絡ませていた。
「泣かせるのは、それは最小限に留めたいと思っていたんだ」
指先がふわりと動いて私の眦へと伸ばされた。ひやりとして滑らかな感触が私の温い雫を下から受け止める。
「君を形成する大事な要素だと、思っていたけれど……そうだな、やはり認識を改めた方が良い」
「何を、何を言っているのか全く分からないわ」
難解な黒川君の言葉はやはり全く意味を成さず、それでもそんな意地悪さえも甘いものとして受け入れて、更に気に掛けて欲しいだなんて。
「例えば、どんな美術品や芸術と言われるものに対してそれに完全なる美を見出すことは素人には可能だろうか」
「解説や何かに由来するということ?」
「知識やその背景、作者のキャラクターとか、そういった事にも依るだろうね」
私の瞼から頬に滑らされた指の背が、ゆっくりと上下に撫でる。それに甘えるように擦り寄ってしまう事は罪なのだろうか。
「侘びとか寂びとか、茶器や水墨画や染物なんかも、欧米人だけではなく日本人にだって理解し難い物だよきっと」
「興味が無ければそうでしょうね」
「食べ物や嗜好品の好みもね」
「主観だもの」
「そう、主観だ。つまり美に対しての基準は決して定量的なものではないんだ。他人の好みなんてものは周囲がどれ程類推しようが、それを100%断定できるものではなく、それは傾向把握でしかない」
頬を撫でていた指がテーブルの上の私の指をそっと持ち上げる。大きな手。私とは全然違う直線的で大きくて硬くて厚い、でも柔らかく暖かな手で。
「万人が美しいと思う物は皆無だという事?」
「そうじゃない。僕はそれを断言できる程世の中を知っている訳じゃないから」
「じゃあつまり?」
「そう、これが最も肝心な事。つまり、君は、萌絵さんは十分魅力的で綺麗だ」
私はその言葉に小さく息を飲む。思わず引いてしまった左手はしかし、黒川君の右手に取られたまま。そのまま指を絡ませるように握られた。
「君が戦っている相手は、他人の目でも誰かの持つ美しさでも無く、君自身が持つ美意識だ」
「……そんなこと」
「無い? そうかな? じゃあどうして、どうして周囲の賛辞を受け入れようとしないの? 僕が正直な感想を言ってもそれを受け入れようとしてくれないの? 君の中の美意識では、君の持っている美しさがまだその基準に到達していないから、君と同じ、若しくはそれに近似した感想じゃなければ受け入れられないんだろう」
「そう、なのかしら」
「どうだろうね」
責めるような雰囲気から一転、ふふ、と黒川君は笑いながら私の手の甲をするりと撫でて、冷たくなったおしぼりを差し出した。
「塩分は、乾燥を促すよね? 擦らない程度に拭いた方が良い」
「ありがとう」
そっとおしぼりを押し宛てると、その冷たさが心地よくて思わずほうと息を吐く。そもそもどうしてこれほど目許が熱いのかと考えると、黒川君の前で泣いてしまったからだと思い至り、途端に居たたまれずに恥ずかしさのあまりおしぼりを目に宛てたまま私は小さく唸って下を向いた。
「どうしたの?」
「今更ながらに恥ずかしくて」
「泣いてしまった事が?」
「……そう」
「とても綺麗だったよ」
私は下を向いたまま、テーブルにこつんと額をぶつけてしまった。
*
黒川君の2歩分くらい後ろを歩く。追いかけるようにしてその位置を保ちながらこっそりと黒川君を見つめる。真っ直ぐに伸びた背中に、ポケットに秘められた左手に手を伸ばそうとしてしまう、私の右手の異常反応を諌めながら。
「そうだ。友人として、一つ報告を忘れていたよ」
「……なあに?」
「C組の女子、昼間のあれは丁重にお断りした」
友人として、何と応えるのが正解なのか。私には解らない。けれど、ただ思うままに安心のままに緩めてしまった頬で、口許で、そうとだけ返事をした。私は黒川君の友人。彼の恋人になる事は出来ない。
私が黒川君に抱く感情が、他の綺麗なものに対するそれとは全く異なるもの、つまり恋なのだと気付いてしまった以上、もう戻れないのだ。気付かずに知らずにいた昨日までとは世界の色がまるで違って見えた。私自身も。知らなかった私とはもう違う、昨日までの私には戻る事が出来ないのだ。