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クラスメイトのファーのシュシュに指を伸ばすと、フェイクファーとは思えないほど柔らかく温かな感触に頬が緩んだ。そして反対に彼女の肩はぴくりと強張る。
「びびった」
「ふふ。驚かせてごめんなさい。これとても可愛いわね」
ピンクとアイボリーのマーブルのような色合いのファーは、彼女のミルクティーのように淡く染められた髪に馴染んで優しい雰囲気がとても良く似合う。
「うさぎさんみたいだわ」
「でしょう。あたしも一目で気に入っちゃったんだよね」
嬉しそうに笑みを湛えるクラスメイトが飲む苺牛乳のブリックパックまでも、彼女の少し赤く染まった頬を可愛らしく引き立てていた。シュシュの柔らかな手触りと、彼女の笑顔が相俟ってまるでうさぎを抱いているような温かな心持になる。淡い色で教室を彩る彼女はとても愛らしくて綺麗。
「萌絵も、前髪すごくいいよ。なんかほら、正統派美少女って感じで」
「あらありがとう」
不思議だと思う。彼女等の言葉には聊かも心が騒がないのだ。社交辞令だとわかっているからなのだが、では何故、どうして黒川君の言葉に私はあれ程までに混乱してしまったのだろう。ああ、また思い出してしまった。みっともなく動揺してしまう自分に気付かれないよう、私はコーヒー豆乳のブリックパックを手元に引き寄せる。
「ちょ、ねえ。あれってさ、黒川、C組の女子に呼び出されたんじゃね?」
昼休みの喧騒に紛れる事無く耳に届いたクラスメイトの声に、反射的に顔を上げる。誰かの囃し立てるような野次が飛んでいた。その対象となった彼は顔をこちらに向ける。野次を往なしたまま微笑を湛えた唇に、伏せられた瞼がゆるりと開きレンズを隔てながらも確かに私を捕らえたのだ。そして目を細めた後廊下へと消えた。一瞬だけ見えた件の女子は、可愛いと有名な子だった。笑窪が愛らしいあの人気アイドルグループの誰それに似ているだとか、そんな風に言われているのを耳にした事がある。
掌の中のパックがぐしゃりと潰れ一瞬にして冷えてしまった指先を汚すそれは、まだ冷えているはずにも拘らず私の指を温く汚していった。
「ええ? マジで? 萌絵、大丈夫だよ。きっと大丈夫だよ。明らか告られに行ったみたいだけどさ、断りに行ったんだよ。ね、ほら泣かないで。ああ、もうっ」
「嘘、やだ、萌絵泣いてんの? くっそ、黒川、許さん!ってか何企んでんのあの鬼畜眼鏡!」
クラスメイト達が私の頬にハンカチを宛てたり、髪を撫でたりしていた。教室を出る間際に見せられた黒川君の笑顔がとても綺麗であったにも拘らず、私の心臓がずきずきと脈打つリズムを加速して、その痛みに瞑目しながらもクラスメイト達の言動を不思議に思い疑問を口に出してみる。
「泣いているの? 誰が?」
「あんたでしょ、萌絵」
「私? どうしてかしら」
「え? だって付き合ってるんでしょ?」
「私?え、誰が?」
何故かクラスメイト達は、私と黒川君がお付き合いをしていると誤解していたらしい。彼の名誉のために私は異論を唱えた。事実とは異なる認識を、可能な限り根気良く説き伏せてどうにか改めて貰ったのだ。
「だから私達はお友達なのよ」
最後にそう締め括ると、彼女達はまだどこか釈然としない表情を浮かべながらも納得してくれた。そして昼休みが終わる間際に私の手とスカートの惨状に気付いて、慌てて染み抜きを手伝ってくれたのだ。何て可愛くて優しい子達なのだろう。意外と抜けてるんだから、と言いながらも甲斐甲斐しく世話を焼くクラスメイト達を微笑ましく思いながらも、先程自分自身が発した言葉が、喉に閊えた小骨のように引っ掛かっていた。そう、彼は友達。私の大切なお友達だ。引き絞るように攣る体の奥の方に感じる息苦しさと、教室を出る間際に私を見て笑んだ黒川君が私の病を深刻化させている気がした。
「でも、黒川の事好きなんでしょ?」
「え?」
「友達だから好きとか、そういうのはナシだかんね! 恋愛の対象として、って事」
興味津津といった彼女達が私を見つめる中、猫騙しを受けた関取のように目をしぱたたかせる。何を問われたのかと考える私と、私の答えを待つ彼女達の妙な緊張感を含んだ空気の塊は無慈悲な予鈴によって分断された。
こい[こひ]【恋】1特定の異性に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること。恋愛。
電子辞書の液晶に映し出されたその文字の羅列を指でなぞる。そうしたところでその意味が解る訳では無いと知っているのに。漠然としたその文章が表す感情を私は知らない。物語で読んだ恋愛はもっと淡く優しく甘いもの。好きというだけで多幸感に包まれるようなふわふわとしたそんな気持ちだと漠然と理解していた。
左側の列、二つ前の席に座る黒川君の後ろ姿を見る。ペンを持ったまま頬杖をつくその指先に彼の綺麗な髪が乗っていた。少し前傾しているせいか背中がやけに大きく、ブレザー越しに少しだけ浮いて見える骨格が硬そうに見えて、そして私は急に思い知ってしまったのだ。彼は男の人だという事を。途端に喉がからからに渇き、動悸が暴走し始め、逆上せたように顔から耳まで熱くなり、呼吸すらままならずに体の奥から広がる疼痛に堪える為に眉間にぐっと力を入れた。
これ程の痛みや苦しみを伴うとは物語にも辞書にも書いてなどいなかった。黒川君に関する事象の全てが私の胸の中で暴虐の限りを尽くし、残るのは焼け野原だ。これは何だ。ミステリーだ。この感情に相応しい言葉を私は知らない。では体調にまで支障を来すような、これが恋だというのだろうか。これ程までにみっともない自分自身に気付いてしまう事が恋だというのだろうか。
「珈琲を飲みに行こう」
掃除用具を片付ける私の背中から聞き知った声が誘う。思わず揺れてしまった背中に彼は気が付いただろうか。
「これから?」
振り向く事に躊躇してしまい、そのまま掃除用具入れの扉を閉めながら答えた。
「そう、これから。ひょっとして、まだ調子が良くない?」
気遣わしげな雰囲気に変わった声に、反射的に振り向いて首を横に振ってから黒川君を仰ぎ見ると、彼は首を傾げて満足そうに完璧な微笑みを浮かべていた。
*
C組のあの可愛い子と、一体どんな話をしたのだろう。黒川君は、彼女にも美しい微笑みを見せて優しい声を掛けたのだろうか。もやもやと澱のように重く苦しい思考を搔き混ぜるようにカプチーノの中、スプーンを回した。今日選んだカップはアレクサンドラ。エレガントなティアラの描かれたカップも私のせいで台無しだ。
「元気がないね」
「心配してくれるの?」
黒川君が私を気に掛けてくれていると知った途端に、私の胸の中は弾む。見上げるとレンズ越しの彼の瞳に私が映っているようで、それだけで夢見心地になってしまう。
「当然だよ。大切な友人だもの。心配くらいさせて欲しいな」
彼の放った言葉は、私が自ら口にした同じ言葉の更に数倍の威力で私の何かを粉砕した。私達は友達なのだと言葉にした際に感じた違和感や息苦しさとは違う。ああ、私は彼を独り占めしたいのだ。私が黒川君を特別に思うように、彼の特別な何かになりたいのだと、気付いてしまった。そして気付いたと同時に黒川君は想像以上に遠くにいるのだと思い知り、私は茫然とカプチーノを見下ろした。