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二話同時投稿です。
11月にもなると夜は早い。夕陽は西の空を染めてはいるがやがて濃藍が全てを覆い尽くすのだろう。惜しむように橙と藍の境目にある白む緑を眺めながら、私達はゆっくりゆっくりと歩いていた。
「綺麗だわ」
「ああ、空気の明度が上がっている気がするね」
「刹那的な感傷も加わるの。黄昏れるとはよく言ったものね」
「そういったものも好き?」
「そうね。それから、退廃的な美しさにも魅かれる事があるわ」
「君は自分の事以外には実に感覚的に物事を捉えるね。そしてとても寛容だ」
まただ。また黒川君は謎めいた事を言う。それは決まって私に関する事だという事に最近気付いた。これは一体何のメタファーなのだろうかと、私は首を傾げる。すると黒川君も同じように首を傾げてそのまま横から私を覗くように見下ろし、とても楽しそうな微笑みを湛えていた。
「意地悪を、されているのかしら」
「どうしてそう思うの?」
「だって、だってわざとに私にわからない言葉を使っているように感じるんだもの」
「うん、順調だね」
成績優秀者である黒川君の用いる言葉は益々に難解になって行く。賢いのなら、賢くない者の為に易しい言葉を用いるべきだわ。だってあなた沢山の事を知っているのでしょう、という甚だ自分勝手な感情に自己嫌悪し、その恥知らずな八つ当たりとしか言えない気持ちに情けなくて居た堪れなくなる。不偏で全ての本質を見抜いてしまいそうな黒川君のその清らかな瞳の前に醜態を晒す事が堪え切れずに思わず胸を押さえた。息が苦しい。疾走する心音が騒音をたてるせいで耳鳴りさえ感じる。
「……黒川君、私死んでしまうのかしら。とても苦しいわ。やっぱりお医者さんに診て貰った方が良いのかしら」
「その病気が原因で死ぬ人はいないよ。二次的な症状を引き起こして結果命を落とす例は決して少なくは無いようだけれど」
「黒川君には私の病気がわかるの」
「うん、恐らくは。それにその病気は医学ではどうにかするのは難しい」
「難病なのね」
「そうとも言えるし、そうではないとも言えるだろう」
「どうしたら良いの? 私まだ死にたくはない。もっと黒川君と色々なお話がしたいわ」
「それは、……それは君自身がうまく向き合うしかない病気なんだよ」
「……治らないのね」
「どうかな。君次第、或いは僕次第とも言える。ところで萌絵さん」
「なあに? 黒川君」
「萌絵さんは、本当に可愛いね」
私の心臓は今度こそごとりと大きな音を立てて、本来あるべき定位置から少しずれてしまったに違いない。
*
公平で公正な目で自分を評価してもらう為にはどうしたら良いのだろう。何をしても何を身につけても紋切り型の言葉を並べて褒める両親は全くの問題外だ。クラスメイト達も同様だ。突出したいという願望があるのに、埋没することに安寧を得るという女子高生の習性故か、コミカルな物にもマカロンの色にも同じ可愛いという形容詞を使う傾向がある。他者に対し直接的に欠点を指摘する事はせずに、対象者が不在になればぽつりぽつりとそれを列挙し始める私達の行動様式。そのコミュニティーの中で、公正に客観的意見を語ってくれるような友人を、残念ながら私は持っていない。
現在の自分を冷静に見つめ、改善すべき点を洗い出して対策を立てる事が出来たなら、私はもう少しは綺麗になる事が出来るかもしれないのに、残念ながら私のこの目は前方のみを切り取るばかりで私の360°を客観的に眺める事は出来ない。そうなると必然的に他者の目に頼るしかないのだが、頼りにできそうな人物は一人しか思い浮かばなかった。
『泣かないで』
鏡の前に立ち、前髪を持ち上げて今日彼が触れた額を眺めてみた。良かった、先週まで2つあったニキビが綺麗に消えている事に安心する。黒川君の優しい声を思い出しながら掌の感触を再現するように額を撫でてみるが、それは想像とはあまりにも違う手触りで呼吸困難になってしまいそうな程胸が苦しくなった。
『本当に可愛いね』
そう言った彼に、どこがどのように可愛く見えるのか教えて欲しいのだと言える冷静さが私にはなかった。思い出した今も心臓が物騒な音を立てている。どうしたら良いのだろう。喉や頭が熱くて苦しくて重い。私は一体なんという病気なのだろう。
「……助けて、黒川君」
私の小さなSOSは、浴室の壁に反響してブーメランのように私の肌に吸収された。中心から滲むように曇り始めた鏡をかりりと爪で引掻く。関節があるのかないのかわからないようなのっぺりとした指が、ほのかに桜色に染まっていた。
浴室を出てから化粧水をたっぷりとたたき込んで、そうしてスキンケアを済ませると安心から私は少しだけ心の平穏を取り戻した。雫を落とす髪の毛をタオルで念入りに押さえ、思い通りにならない猫毛のくせに多いそれをドライヤーで乾かしてから右サイドに流していた前髪を真っ直ぐに梳き下ろしてみる。憎たらしい丸い鼻先を嘲弄するように擽る毛先のせいで、くしゃみが2回出てしまい、鼻に皺を寄せて威嚇して見せた。
しばらく持ち上げたり額を露出させてみたりして、私は鋏を手に取る。一つ呼吸を置いて正面を見ると、鏡の中にあるのはまるで断罪の為に用意された審問の場のようだ。そう、私は今この忌々しい前髪を断罪するのだ。瞼を閉じて深呼吸してから、厳かな心持で鋏を握り直した。
しょきしょきと刑に処される髪の毛を見下ろしては鏡を確認する。失敗は決して赦されないのだ。息を殺し、狂信者のように瞬きもせずに私はそれをやり遂げた。肌に貼り付いた髪を払い正面を見据えると、そこには目新しくはあるものの、つり目が却って際立ってしまっている私が鏡の世界に立っていた。
*
今日も昨日と変わらない一日だ。何も変化は無い。そして誰も私に注目してはいけない。私は可能な限りスカートの襞を揺らさないよう、誰の視界にも動くものとして捕らえられないようにそれはそれは慎重に脚を運ぶ。いつもと変わらず教室の後ろのドアから入り、止まる事無く席に着く。いつもと同じ教室、変わらないクラスメイト達。交わされる挨拶にも淀み無く応える。そして私は彼らの風景。それは言わば浦島太郎のわかめの役だ。演じ切って見せよう。決意を胸に唾を飲み込むと、喉の中心がごきゅと鳴った。
「おはよう。萌絵、前髪似合うじゃん」
「おはよう。ありがとう」
私は早々に自分が大根役者である事を思い知る。しかし私は知っているのだ。彼女のこの似合うは社交辞令である事を。だから私は幸いにして心が揺らぐ事が無かった。引き続きわかめを演じると、小さな失敗を流した事が功を奏したのかその後には毎日の慣習が崩れる事は無かった。
「おはよう。萌絵さん」
「おはよう。黒川君」
何も変わらない繰り返されたルーティンの筈だったのだ。そこまでは。
「前髪を切ったんだね」
「……ええ、切らなきゃ良かった。……今とても後悔しているわ」
何という事だろう。黒川君が私の前髪が短くなったという事実について指摘しただけで、途端に哀しくなる。失敗したのだと改めて思い知った私は時差式の後悔に苛まれた。
「どうして? とても良く似合っているのに」
「目が強調されているって自分でもわかるの。きついから、目つきが。何だか意地悪そうでしょう?」
黒川君は少し目を開いてからことりと首を傾げた。艶のある長い前髪が揺れて綺麗。
「萌絵さん、そんな風には見えないよ。君の目は猫のようだと思うけれど、きついという印象は受けた事が無いよ。それに確かに今日は大きな目がぱっちりして見える。うん、似合っている」
「そう、なのかしら」
「うん、間違い無く可愛いと思う」
「……あ、ありがとう」
果たしてわかめは打ち上げられてしまったらしい。私は熱を集めたようにじりじりと焦げる頬を手で押さえ、掠れて消えかけた声でやっと答えた。ちらりと見上げると黒川君はとろりと微笑んでいて、まるで柔らかく温かい、例えばそう彼の指先で撫でられているような眼差しに混乱してしまう。そしてその混乱の果てに机に突っ伏してしまった頭上でふふという息遣いが聞こえた。
動悸、息切れ、めまい、のぼせ。ああ、胸が苦しい。