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昨日のお昼休み、クラスメイトの唇を魅力的に変身させたオレンジ色は、彼女の為にある色であり私の為にある色ではない。私が同じ口紅を塗ったとしても、それはきっと滑稽に映るのだろう。私の色は一体どんな色だろうか。そもそもそんな色は存在するのだろうか。私は鏡に映る褪せたように薄い色の唇を眺めて一つ溜息を吐いた。鏡の中にいる私の姿は、他人の目を通す私の姿と異なる。人間は左右対称ではないのだから、鏡像と実像の印象は絶妙なバランスで違いを持つのだろう。鏡を見て良かれとメイクで補正をしても、実際それが私に相応しく美しく見せるためのメイクかどうかは、自分の目では確認できないのだ。今日も思うようにうまくまとまらない髪の毛に、せめてもの措置として丁寧にブラシをかけた。いつになったら私は綺麗になれるのだろか。綺麗な物を傍に置いても、それらが持つ美しさが私に伝染してくれる事は無かった。全く以て哀しい現実である。
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4時間目は自転車安全講習会だからグラウンドに集まるように、SHRで担任が言っていた事を思い出し、ざわつくクラスメイト達に紛れて私も席を立った。何やら朝から耳鳴りと鈍い頭痛が続いていて気が向かなかったが、仕方がないと廊下に出ようとした私の肩が後ろに引かれる。
「大丈夫? なんだかふらついているけれど」
「……黒川君、」
見上げると黒川君が長めの前髪の奥から私を覗くように見下ろしていた。心配を滲ませたような声に申し訳なくて瞬きを数度繰り返す。
「貧血かな、顔色もあまり良くないね」
ああ、そんな酷い。綺麗な人に自分の醜さを指摘される事ほど惨めなものは無い。私が憧れるのは黒川君のように白く輝く肌と、クラスメイトのように淡く色づく頬や唇だ。それとは程遠い実情を私が一番理解しているつもりなのに、改めてそうではないのだと指摘されてしまうと絶望で足許からずぶずぶと床に沈んでしまうような感覚に苛まれる。
「……そんな、」
どんな対策を立てたとしても、私は醜いのだという現実に目の前が暗くなった。
「萌絵さん?」
瞼が落ちる瞬間に視界に飛び込んできたのは、驚いたように目を見開く黒川君で、そんな顔も綺麗だなんて、なんて狡いと羨ましくもうっとり思った。
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揺り籠のように揺れる、これは小舟だろうか。私は横たわり空を眺めている。何処までも高く透き通るような蒼穹に両腕を伸ばしてみると、短い指と丸くて小さい不格好な爪が見えた。遠くで小鳥が囀る。青い鳥なら良いと思った。この空よりももっと深く濃い瑠璃色の小鳥を想像しながら目を閉じてみる。ちゃぷりちゃぷりと水のぶつかる音がする。ああ、やはりこれは小舟なのだ。私は今きっと湖に浮いているのだ。古ぼけた小舟に、白雪姫のように横たわっているのだ。それが私というだけでお伽噺から残念な主人公のコメディーになってしまうけれど。
酷く哀しくなって瞬きをすると、眩しい白い光とアルコール臭が私の感覚を刺激した。
「目が覚めた?」
私が横たわっていたのは小舟ではなく保健室の簡素なベッドだった。引かれたカーテンの横に置かれたパイプ椅子に腰をかけた黒川君が私を覗き込みながら額を撫でてくれた。
「泣かないで」
蟀谷を伝う温い温度を黒川君の指先が辿る。どうぞと手渡されたスポーツドリンクを両手で受け取ってゆっくりと嚥下した。酷く甘い。
「夢を見ていたの」
「うん」
「小舟と青い鳥と白雪姫の残念で哀しい夢」
「また難解な……」
薄汚れた天井と、糊の効き過ぎた肌触りの悪いシーツに強制的に清潔さを押しつけられながら、そもそもどうして私は此処にいるのかと思い首を傾げた。人工的に作られた居心地の悪い空間に掛けられた丸い時計を見ると、その針先は正中を逸れて既に正午を過ぎていた。
「……大変、黒川君。私、記憶が盗まれたわ」
「そうじゃない。そうじゃないよ、萌絵さん。君は倒れたんだ。恐らく貧血だろうって校医が言っていたよ」
食べようと言いながら、購買のサンドウィッチをビニールから取りだした黒川君が、ハムとチーズのそれを私の手に乗せる。
「私、このサンドウィッチ、とても好きなの。美味しいのよ」
「知っているよ」
「ベッドの上に座ったまま食事をするなんて、なんだか遠足みたいね」
「そんな遠足なら、きっと希望者が殺到してしまうだろうね」
私達は悪戯が成功した者同士のように、笑いながら同じサンドウィッチを分け合った。
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その後、午後からは体調に問題は無かった。少し休んで昼食も摂って体調も落ち着いたにも拘らず、黒川君は送るよと半ば強引についてきた。美しい人に気を遣わせてしまい心底申し訳なく思うと同時に、何て面倒見が良く優しい人なのだろうか、綺麗な人はその心根まで綺麗なのだと感嘆する。帰り際、クラスメイトが良かったね、と耳打ちしてきた。日頃から美しい黒川君の事を私が眺めている事を知っているせいか、更にその美しさを感じる時間を長く持てるという事に対し彼女も喜んでいてくれているのだ。それなのに、私ときたらそんな彼女のオレンジ色の唇を羨んでしまっていたのだから、なんて醜いのだろうと気分が沈んでしまう。そうだ、だから私は綺麗になれないのだ。
「まさかと思うけれど、無理なダイエットなんかしていないよね?」
並んで歩きながら、黒川君が私を横から覗き込むようにして言った。
「そんな事はしていないけれど、ちょっと寝不足気味だったかもしれないわ」
「そう、なら良いけれど。僕は女の人を初めて持ち上げたけれど、萌絵さんがあまりにも軽くて、骨格とか全ての作りが小さくて驚いたよ」
「黒川君が運んでくれたの?」
「そう、こうしてね」
バッグを肩に掛け直し、両手を上に向けて前に出して見せる黒川君に、私は驚いて脚を止めてしまった。
「物語のヒロインのようだわ」
「ふふ、そうだね、所謂お姫様抱っこだ」
「悔しい、覚えていたかった」
「でも君が倒れていなければ抱える事も無かったよ」
「それもそうね」
私達は再び歩き出す。黒川君がゆっくりと歩いてくれるから、私は彼と歩く時も周囲を眺める事が出来る。彼の家がどこにあるのかという話は聞いた事が無いが、時折こうして送ってくれる。然程遠くは無いのだと言っていたからきっとそうなのだろう。駅からの道を、私はなるべくゆっくりと歩いた。塀の上にいた猫があふと一つ欠伸をした。
「ねえ、萌絵さん」
「なあに? 黒川君」
「君を運んだのが、例えば違う男だったらどう感じる?」
「ちょっと困るわね」
「結局は僕だった訳だけれど、困った?」
「体の重みを知られた事については恥ずかしいとは思うけれど、嬉しいと思ったわ。どうして?」
私の答えに黒川君は何故か微笑む。彼の微笑みは完璧だ。目の細め方、唇の引き上がる角度も。私もつられるように微笑んだが、黒川君の美しさには到底及ばない。




