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私が黒川君に興味を持ったのは入学早々のことだった。そして今のように仲良くなったのはその年の学祭の準備をしている頃、クラスメイト達に合わせながらも少し距離を取っている私と同じ処にいた黒川君がぽそりと呟いた一言が切欠だった。
ありがちなメイド喫茶というクラスの催し物が確定し、全員でその準備に取り掛かっていた時の事だ。私は皆から少し離れたところに担任から借用したノートパソコンを置きメニュー表を作成していた。メイド服は、高校生というお年頃な女子のあざとさを具現化したような物だ。そこに見え隠れする計略とそこはかとなく漂う異性を意識した匂いを少しだけ煩わしく思いつつも、同じくらいの分量で自己の変身願望が擽られて複雑な心持であった。
「女子の右習えなあの思想は、一見すると民主主義のようだけれど、どうかするとファシズムのような弾圧になりかねないね」
画面を後ろから覗き込んだ黒川君が、重い溜息を吐き出した後にお疲れ様とブリックパックのコーヒー牛乳を差し出したので、私はそれを受け取った。伸ばした指先が少し震えてしまったのは、それまで観賞しているだけだった彼からの初めてのプレゼントに緊張してしまったせいだ。
「皆が皆そうだというのは少し乱暴ではあるけれど、確かにあの情熱はこのご時世ですもの、再生エネルギーとして活用できそうな勢いを持っている気さえするわね」
画面から目を離して、時に意見を対立させながらもリーダーシップを発揮し情熱的に作業をまとめ仕切っている教室の女の子達を眺める。対する男子は飽きてしまったのだろうか、少々休憩が必要かもしれない。多少感情的になってしまってはいるけれど、女の子達は皆きらきらと笑顔が綺麗。だらけつつある男子に向かい膨らんだ頬も愛らしいくて可愛いらしくて眩しくて、でも少しだけ羨ましく思い目を背けた醜い私の手元には少しだけ汗をかいたコーヒー牛乳。ハンカチを取り出して水分を拭うようにそれに巻いてストローを差す。
「いただきます」
「どうぞ。召し上がれ」
念の為にこれは保存しておこうか、そう言って私の横から綺麗な白い手を伸ばしパッドを撫でる中指はゆっくりと動くせいか酷く艶めかしく見えた。その動きに釘付けになる私が飲んでいたのはコーヒー牛乳であるはずなのに、くらりと酔ってしまいそうだ。お酒を飲んだこともなければ酩酊したこともないが、きっとこんな気分に違いないと私は確信していた。
「それでも、萌絵さんのメイドさんはとても可愛らしいだろうね」
「そんなものよりも、黒川君のバトラー姿の方がきっと素敵よ」
「残念だね、今回男子は皆裏方だ」
「そうね、残念。でもきっと似合うわ」
「それではお嬢様、ゴミはわたくしがお預かり致します」
胸に掌を宛てて恭しく腰を折る黒川君に、飲み干し潰れてしまったブリックパックを手渡す私の指先は再び震えてしまっていた。
*
クラスメイトや街行く女性達を眺めるのが好きだ。美醜と言えばブスやら可愛い、不細工や美人など、主観に依る勝手な形容はいくらでもできるのだろう。しかし、本当に不美人な女性など居るのだろうかと、私は常々思う。目に映る女の子達は皆一つ以上の魅力を持っていた。鈴の転がるような笑い声や、笑顔から覗く八重歯、好きな事に取り組む時の真剣なまなざしの美しさや、輝くような髪、桜色をした素敵な爪に、美しいラインの脹脛。奥二重から伸びる黒く長く豊かな睫毛や陶磁器のような項、薄い肩のラインが描く儚さ。どれも皆、私の目には美しく見えてうっとりとしてしまう。そして残念な事に何一つ私は持ち得ないものだ。
「君は綺麗なものが好きだと言うけれど、綺麗なものを見つける事がとても上手だよね」
「不思議な事を言うのね」
「そう? 僕は萌絵さんの眼がどんな沢山の綺麗なものを見つけているのか想像する事があるよ」
「黒川君には、私は一体どんな風に見えているのかしら」
「それは、僕がどんな言葉を連ねたところで、きっと今の萌絵さんには理解できないよ」
思いがけずにぴしゃりと言い放たれて、私は暫し目をしぱたかせ、馬鹿な事を聞かなければよかったという後悔から意気消沈してしまう。こうして放課後にお気に入りの喫茶店で珈琲を一緒に飲める程度に仲良くなる事が出来たのに。相変わらず薄らと湛えられた黒川君の微笑みが急に冷たく感じられて、私は彼によって目の前にはっきりと線を引かれ分断されてしまった気がした。ウェッジウッドのプシュケというシリーズのカップの内側に描かれたプラチナゴールドのリボンに縋るようにして眼差しを向けるも、絡むリボンより複雑に縺れてしまった私の心を慰めてはくれなかった。
「それでも良いと思うけれどね」
「え?」
「ねえ、萌絵さん、早く気付いて」
「……何を?」
困惑したまま私は再び首を傾げる。黒川君の言っている事が一つも理解できない。同じ言語を操っているにも拘らず全く意味を解せずにいる私に、黒川君はただ至極楽しそうに美しく笑んで見せた。ああ、綺麗な人。
「陽が落ちる時間が大分早くなってきたね。そろそろ暗くなりそうだ。送って行くよ」
「……ええ、ありがとう」
「今日は特別に良い物を見せてもらったから僕がご馳走するよ」
そう言って私が取り出したお財布に、黒川君は真っ直ぐ伸びる指を添えて押し留めてしまった。行き処の無くなってしまった視線をカウンターに並ぶウェッジウッドのコレクションに向ける。それはいつ見ても壮観で美しいコレクションではあったけれど、今の私には何故か平面的で情緒に欠けるものとして映った。綺麗な黒川君が、綺麗な物を見つける事が上手だと言ってくれた私の目は、無価値だ。
*
ねぇ見て彼に買ってもらったの、とポール&ジョーの新色の口紅を見せるクラスメイトに、皆色めき立った。オレンジ色のそれは安っぽい蛍光灯の光を浴びて宝物のように燦然と輝いていた。色白の彼女が一度それを塗ったなら、まるでそうある事が当然のように魅力的な唇を作るのだろう。彼女は誰かの手によって自分のためにあるかのような色と出会い、そしてそれを当然の如く身に纏うのだ。
「ねえ、どう? 似合ってる?」
「ええ、とても素敵」
目の前で鏡を覗き込みながら大事に丁寧に唇に乗せられたオレンジ色は、彼女を美しく輝かせていた。はにかんでいる彼女の姿は、まるで天使のようだ。
「良く似合っているわ。彼に見せてきたら?」
私達の前で消費されてしまうには実に惜しい。私が彼女に促すと、彼女は真珠のように輝く小さな歯を覗かせて笑う。ああ、とても綺麗。
花弁のように染まる頬も、匂い立つような笑顔もとても美しくて、足早に教室を出て行くその足音でさえキラキラとした残像を残していた。
「可愛いわね」
「……何さ、単なる惚気じゃない」
見送りながら呟けば、一緒にいたクラスメイトの一人がぼそりと明確な悪意を持って言葉を発した。おやおやそれは僻みというものだろう。そう思い声の主を見上げると、その子は一人の男子生徒に視線を注いでいた。その横顔にはまるで未亡人のような憔悴が浮かべられ、微かに歪んだ目許に落ちる睫毛の影が憂いを帯びていてそれはそれは美しい横顔だった。
「あなたとても美人だったのね」
何故今まで気付かなかったのだろう。綺麗な横顔、そう言って思わず彼女の頬に触れると、驚いた様子で頬を染める。
「可愛い」
「っもう!萌絵といると毒気を抜かれるよ」
「あら、毒があっても綺麗な物は綺麗だわ」
「そういうところ!」
照れて大きな声を出した彼女が恥ずかしそうに俯いてしまう。私はそんな様子にまた素敵よと声をかけた。