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泣キ虫エ降ル空

作者: 筐咲 月彦

ニコニコ動画内の『泣キ虫カレシ』というボカロ曲をモチーフにしております。キャラクターのイメージや台詞の極一部を使っているだけですので問題ないはずと思いつつ……曲を知っていて、もし「これは二次創作だ」とおっしゃる方はご連絡下さいまし!

 私は、遥かな場所からやってきた。

 遥か遠く、とも言えない。私自身が言うものでもないのだが、遠くという言葉は比較を含む表現なので、私が生じた場所までをここで何か喩えようにも無理がある。だから、遥かな場所、とだけ言おう。

 そしてその場所から、途轍もない速さでやってきた。瞬く間に、と言ってしまうことも出来る。この表現は、私がひと時にどれほど進んだか、速さだけでなく時の短さも巧く表しているかもしれない。そう、私はここに瞬く間にやってきた。私を観測すべき対象たちが文字通り瞬いている間に、ここに居なかった私はここに現れ、同時にここに居た私はどこかまた、遥かな場所へ行くだろう。

 もしくは全く別の何かになっているかもしれない。私は私で、同時に私では無い。

 それは名であり、区別であり、分類であり。ただただ、あえて私がわざわざそこに当てはまっているだけのことではあるが、それでもやはり私は私だ。

 私は熱で。

 私は波で。

 私は粒で。

 私は、私は光だ。

 分厚い雲を通り抜け、氷の粒たちに挨拶をしながら絡め取られ吸われこそげ落とされながらも、細く、淡く、たどり着いた光。

 雨粒の一滴を光らせ、水溜りに傘の裏を映し、靄にとろりと白を注ぐ。黒を演出し、街にヴェールを掛ける。

 私は光。輝くもの。

 雲が切れれば雨以上に降り注ごう。

 全てのものを区別無く、差別無く揺ぎ無く満遍なく照らそう。私は神では無いが、神にも等しく、ただそこに在る。

 私は、色を生むもの。

 光だ。



「――これで終わりね」

 そんな言葉が聞こえた。雨音と共に。

 私が聞いたわけではない。私には聞く耳も無ければ、聞いたと認識する脳も無い。私はどこにでも存在するし、ここにも存在した。そんな言葉が聞こえた場所に私が居た、というのが正しい。

 それを言ったのは人間で、女で、若かった。

 それを言われたのはやはり人間で、男で、女と同じ年頃だった。おそらくは、恋人同士なのか。

「……」

 男はその言葉に、泣きそうな表情を作る。いや、もう既に泣いていたようで、更に顔を歪ませる。

『これで終わりね』と女は言った。例えば幸せなデートがこれで終わりなのか、何かゲームや賭けでもしていてそれが終わりなのか、店の軒先での雨宿りがこれで終わりなのかもしれないが。

 けれど男の表情から察するに、何が終わりなのかは明らかだった。

 駅近くのカフェ、その雨よけの下に店の看板と植木鉢と一緒に、二人。傘を、男の方だけが腕に下げている。もしかすると女の方もバッグの中には折りたたみ傘があるのかもしれないが、ここに来たのは二人で一つの傘。

 しとしとと静かに、霧のように降る雨の中。駅から出てきたところなのか、これからどちらかが駅に入るのか。

 どちらにしろ――別れ話。

 ぽろり、ぽろりと。軒先から滴る雨粒ほどでは無いが、涙が落ちる。

「ほら、泣かないの」

 女が言いながら、涙を指で拭ってやる。

 困ったように。でも優しげに。

 その言葉に、男はきつく目を瞑る。

 ぽろり、とひと際大きな粒が目尻から零れた。

 男は泣き、女は優しく笑う。

 男が泣き、女が困ったようにそれを見守る。

 そんな見ているだけで泣きたくなるような、困ったように笑いたくなるような光景を、私は見ている。見るでもなく、見ている。この場所で、そして別の場所でも、私は見ていた。



 “あの場所”とは別だが、そこに居るのもやはり私だ。別の私であり、同じ私だ。

 偶然にも……とは言うまい。私はどこにでも在るのだから、世界中を巡れば同じ状況だってあるだろうし、国を絞ったところで似た状況くらい見付かって当然だ。

 似た状況。

 違う。似ている訳では無いし、むしろ全く違う。誰が見ても違うと言うだろう。

 だが、それでも重なるものが。

「ほら、泣かないの」

 言葉。そして。

 優しげで、困ったような、その笑顔。

「たかしくん、そろそろ泣き止もうよ。ね?」

 丁寧に言い聞かす。その言葉遣いは、子供を相手にし慣れたものだ。

 言ったのは保母さんで、場所は幼稚園で、言われたのは男の子。

 泣いているのは、男の子。

「う、うぅ、あう」

「ほら、みんなお外で遊んでるよ? たかしくんも昨日みたいに砂場で遊ぼう!」

 彼女は、なだめて透かして、どうにか少年を泣き止まそうとする。

「じゃあ先生と中で遊ぼっか。積み木する? それともパズル? それとも絵本読むかな?」

「ぐず、う、う……」

 保母さんに背を向けぐじぐじと鼻をすすり目を擦り、声もあげないのに、それでも泣き止む気は無いようだった。なかなかに強情な子だ。

 困ったようにまた笑いながら、もしかすると面倒臭いと思いながらなのかもしれないが、女は声を掛け続ける。

「ねぇ、たかしくん。なんで泣いてるか教えて? 先生、教えてくれたら良い事教えてあげるよ!」

 少年は泣き止む気配は無い。“良い事”がなんなのかは分からないが、きっと彼は泣き止まないだろう。

 私には人間の気持ちは分からない。けれど、どこにでも居た私は様々な人の言葉を知っている。知っているという言い方もおかしいが、そこに居たというそれだけで私は全てを把握し、残している。

 私は光であり、そして歴史でもあるのかもしれない。

 そして、私に残されたものに照らして(不思議な文言だが、私に相応しい)みれば。

 ――きっと彼は、ただ、先生にそばに居て欲しいのだろう。



 そんな光景を遠くで見ながら、私はここに在る。

 女の笑顔と男の涙が、幼稚園での光景に重なる。

 どうだろう。彼の涙にはあの子供のような純粋な打算はあるのだろうか?

 あるかもしれないし、ないかもしれない。でもきっと男はそれなりの年齢だし、我慢しようとはしたんだろう。でも堪えきれずに涙が零れて。離れて欲しくないと思いながらもその為の行動は取れず、かと思えば、思わぬ涙をむしろ情けなく思ってしまったりもしているのだろう。

 そして女は、その全てを見抜いている。その上で涙を拭ってやるのだ。別れ話をしているのに、優しさを見せる。その気持ちはどこにあるのか。

 男は隠せずに泣き、女は隠して笑う。

 雨が強くなってきた。

 跳ねた水滴が二人の足元を濡らし、それを避けてそれぞれが内に寄る。

 必然、距離は近くなり、そして雨音もざぁざぁと耳を打つから、お互いに耳元で囁くように言葉を掛け合う。――それは、恋人のようで。

 いや、恋人なのだろう。まだ恋人のはずだ。それでも、今まさに別れ話をしているようには見えない二人で。私のどこかがざりざりと擦れる。

 私は光だ。私は神にも等しくどこにでも在り、全てを知っている。そして私は、神と同じく、何も出来ない。

 濡れた二人を乾かすことすら、雲たちの動き次第。暖め、せめて風邪をひかぬようにと願っても風向き次第。私は何も出来ない。雨は二人を近付けたのに、私は。

 何かをしてやりたい、と思ってしまう。

 もちろん、何が正解かなど分からない。過去をどれだけ知っていても、人の気持ちまでは読み取りきれず、ましてや未来のことなど。何かをしてやりたくても、何をしたら良いかなど分かるわけもない。

 けれど、私には心がある。心と言ってしまって良いものかは難しいが、歴史の全てを知っていれば、人間が失敗し嘆く姿を永く見てくれば、忠告したくもなる。

 知識の集積は何を生むか。いつしか私は、人間の失敗をではなく、何も出来ない自分をもどかしく感じるようになった。

 私は、何も出来ない。

「大丈夫」

 彼はそんなことを呟いた。

 何が大丈夫なものか、と私は思う。女だって同じ事を感じただろう。

 それでも彼は、無理やりに作った笑顔で言うのだ。

「大丈夫だよ」

 言いながら手を伸ばす。すぐそこにある、女の黒髪へと。

 頭頂部に掌を当て、すとんと落ちた髪のラインに合わせて動かす。男の指先が、湿気で絡んだ部分を梳る。

 ゆっくりと。二度、三度。言葉とは裏腹な瞳で見つめながら。

「大丈夫」

 くしゃり、と。女の顔が歪む。何か言おうと口を開き、閉じ、開き、ためらい……やはり閉じた。

 撫でるほどに男の瞳の色が深まっていく。

 季節は夏だが、冷たい雨だ。時折手を振って水滴を飛ばしながらも撫で続ける男。熱が微かに伝わり、離れがたくさせることだろう。

 撫でられるほどに女の表情が崩れ、縮まり、折り畳まれ、潰れていく。忘れたい想い出の詰まった写真のように、丸められ、転がって。

 ふ、と。ある瞬間、緩み始める。

 何がきっかけかなど分からないが、握りつぶされた写真を広げていくように音を立てながら、歪んだまま折り目を残したままに――口元が小さく綻ぶ。

 くしゃり、と。



 とある、山の中。

 下生えは薄いが、手入れをされてのことではない。おそらくは猪かなにか、野生の草食動物が生息し、木々の隙間にようやっと育つ植物を食い荒らすのだろう。

 青々とした針葉樹の森。風もよく吹き抜け、避暑には程よいに違いない。

 そしておそらくは、まさしく夏の遊び場にしている子供が二人。

 ではなく。一人と、一人。

「おーい、ちさぁ~」

「……」

 少女を呼ぶ青年。茂みに隠れる少女。兄妹か、幼馴染か。

 一見すれば、かくれんぼ。

「ちさぁ、出て来いよ~。どこに居るんだよぉ~」

「……ぐす」

 が、呼びかける声に含まれる焦りと心配、それに少女の目じりの涙と縮こまった体育座りから察するに事情は違うらしい。

 喧嘩をしたか、それとも叱られて拗ねたか。きっと青年に非は無いのだ。それでも呼びかけに応える気は無いらしい少女は、小学校低学年といったところか。反抗期でも無いだろうが、それでもこの年頃は不条理なものだ。

 感情に任せて。理性など放り投げ。心配など気にも留めず。

 気に入らなければ怒り、悲しければ泣き、話したくなければ山に逃げ、顔も見たくなければ茂みに隠れる。素直で真っ直ぐなだけなのだが、身長も年齢も少女の倍ほどに見える青年を含め、大人にはそれが理解出来ない。

「こっちじゃ無いのかなぁ。ちさ~、帰ってスイカ食おうぜ~、なぁ~……」

 などと言いながら青年が離れていくのを、ぎゅうっと膝を抱えて少女は見送る。

 少なくとも、スイカごときで揺らぐような弱い意志ではないらしい。

「ぐずっ……えふっ」

 軽く咳き込む少女。

 青年が完全に視界から消えるのを待って、土の付いた手で目をごしごしと拭きながら茂みから這い出る。右目の横が大きく汚れたが、気付きもしない。

 しばらくその場で立ち尽くす。動く気力も無いのか、それともまさか青年が戻ってくるのをどこか期待しているとでもいうのか。

 やがて気持ちが落ち着いたようで――もしくは、待つのを諦めたのか――おもむろに歩き出す少女。鼻をすすりながらも、青年が去ったのと完全に逆方向へ。それは山の奥で、少女の行ったことのない方向で、空に近づくのにむしろ薄暗くなっていくような領域だった。

 けれど少女の足は止まらず。奥へ、奥へ……。

 そして辿り着いたのは、木々の隙間。

 暗がりの中、ぽかりと開けた白茶けた場所。古木が周りを巻き込んで倒れ、自然の摂理に従い等間隔で隙間なく育った森のシェルターが、ほんの少しだけ解れたらしい。

 光が(私が)、雨が。降り注ぎ、穴を穿ち、流れ込む。

 辺りは薄暗がりで下生えの緑すらなく、土と木の皮の茶色ばかりの空間だったが……おもむろに、紅があった。

「……」

 少女の口もぽかりと開いた。泣くのも忘れ、足元の悪さも全身の気だるさも僅かな間、忘れた。

 ゆっくりと近づく。

 ――紅い花。

 背が高く、大げさに花弁の開いた花と濃い色の葉。色も派手で、あまりこの地域では見ないような、一言で言えば南国の花といった風情だった。後ろにある背の低い茂みと共に、一株だけが狭い光の下で育っている。

 その根元に立てば見上げるほどで、葉も少女の顔ほどに大きく、二輪の紅を深緑が遮る。

 私は光。つまりは、色だ。

 紅で、深緑で、白で、茶色で、少女のワンピースの薄黄色でもある。

 風が走り抜け葉を揺らせば、ちらちらと白の私と緑の私とが入り混じって頭上から少女の頬を照らす。私はただ降り注ぐだけだけれど、何かに当たって跳ねる度に、少女の目に届くのは別の色だ。

 息をつきながら見つめる少女。どこかまだ、ぼんやりと遠くを見ているような表情で。

 きっと、悲しみが抜けきらずに。

 この“光景”ではまだ足りないのか、と私も悩ましく思う。私では、と。

 その時、ひと際強い風が森をざわつかせた。

 ざ、ざ、ざ、と草葉を揺らし木々さえも天辺近くでは左右に動くほどの風。少女も眉根をひそめ、軽くよろけながら背を向ける。

 二輪の花も共に風に煽られそっぽを向く。葉も、根元から折れそうなほどに曲がりばたばたと音を立てる。

 とはいえそれも二、三秒のこと。すぐに弱まり、木の揺れから順に収まっていく。夏の植物はどれも強くしなやかで、人間がよろけるほどでも葉の一枚も飛ぶ様子はない。どれもが平然と元の位置に戻っていく。

 ふ、と少女の頭に何かが触れる。

「……う?」

 不思議そうな声を漏らす少女。

 きつく瞼を閉じていたが、悲しみを湛えた眼をゆっくりと見開き、見上げれば。

 目に飛び込むのは――視界いっぱいに、深緑。

 葉の色だ。風が収まり少しだけ位置を変えて戻ってきた葉が、少女の頭にちょうど触れるくらいの位置をさらさらと揺れていた。

「はっぱだ」

 目の前全部を覆われながら、ぼんやりと呟いた。

「はっぱ、おっきいな」

 まだ拙い少女の言葉は、どこか現実感がなく。

「くさいや。 へへ」

 近くで嗅ぐ葉の匂いは、色と同じく濃かったのかもしれない。

 時折、先ほどよりも柔い風が吹き抜け、花と葉が揺れては少女の髪に触れる。

 撫でるように、するりと。押さえるように、とふとふと。

 すると少女は、くすぐったそうに首をすくめる。首をすくめながらも、葉の感触を楽しむように背伸びをして頭を擦り付ける。

 いつの間にだろう、どこからだろう。撫でられる子猫のように、彼女の表情は緩んでいた。

 くすくすと笑う。笑いながら髪の両端を押さえる。葉が頭を撫でるごとにきゃいきゃいとはしゃぐ。跳ねる。身体を揺する。笑う。

 悲しみはどこへ行ったのか。もしかすると、二酸化炭素を吸うように植物は、悲しみすらも糧にするのか。私は光だ。私は色だ。だけれども、こんなにも艶やかな紅をこの花に与えたのは誰だというのだ。

「…………」

 少女が何かを呟く。

 花を見つめながら。二輪の内の高い方を見ながら。

 少女の倍ほどの位置にある花を見上げながら。

 小さく、小さく、何かを呟いた。

「…………ゃん……んね」

 葉は、それに応えるように揺れる。

 少女が笑って。風が吹きぬけ。私はまた、遥かな場所へ――。



 くしゃり、と。

 女は笑った。

 子供のような笑顔だった。

「くふ、ん、ふふふ」

 私はそれを見ながら、どこかの私が歯噛みするのを感じた。

『また、何も出来なかった』

 あぁ、そうだ。私はいつだって降り注ぐだけで、そこに在るだけで、何も出来ない。

 もちろん私が無ければ世界に色は無く、視界も無く、そもそも目という器官が発達することも無かっただろう。だがそういう問題ではなく、例えば人間が花の色に感動したとしてもその主体は花だということだ。壮大な景色を目の当たりにしても、“光”に心動かされるわけではない。極端なことを言えば、太陽ですらも私と同一ではないのだから。

 私が何か行動するわけではなくとも、せめて観測する側が“光”と認識してくれたら。

 そんな風に思っても、やはり私は当たり前の存在でありすぎる。

「んふっふ~」

 笑う女の目じりに僅かに残る雫を光らせたところで、私が何か出来ているわけでは無いのだ。

 ――雨が弱まってきた。

 霧のように、音で言えばさらさらと、静止画のように降る雨。

 周りはとても静かで、不思議としばらく人通りも無い。

 何かが始まりそうな、何かが終わりそうな気配。

 何か感じたのか、ふと男は空を見た。遠くに青空が見え、「あぁ」と小さく声を漏らして、諦めたように撫で続けていた手を止める。

「んん……」

 女が不満げな声を上げ男を見やるが、男の手はそのまま離れていった。男の視線を追って、女も気付く。終わりが、近いことを。

 しばらく二人は、近付いてくる光をぼんやりと眺めていた。

 何を思うのか。違うことか、同じことか。悲しみか、喜びか、思い出か、未来か、勇気か、願いか。

 私には分からないけれど、少しでも時間がゆっくりと流れれば良いと思った。

 けれども、そんなことすらも、ままならなくて。

 私はただ降り注ぐばかりで。

 雲が流れ行くほどに、近付いてしまう。壁のような、世界の境のような光の群れが、二人へと近付いてくる。

「ん……こほん」

 仕切りなおすように女が空咳をし、男がそれにひくりと反応する。

「もう、そろそろ、行こうかな」

「…………うん」

 たっぷりと間を取って、未練気に男が頷く。

 あぁ、終わってしまう。

 私はなんとも言えない気持ちになる。そう、いつだってこんな気持ちで人間を見てきた。

 上手くいかないことだってあって当然だけれど、破局というのはすべてを“失敗”にしてしまう。良い思い出があろうと、別れても大切に思えても、結論として“失敗”になってしまう。

 失敗を多く見てきた私としては、成功するコツは失敗しないことだ、などと言っても仕方ないことも知っているが、それでもそこで途切れてしまうのがもどかしい。

 こんなとき、何かをしてやりたいと思うのだ。

「元気でね」

「…………うん」

 軽く言う女に、男は返事をするのがやっとだ。

「やだなぁ、『そっちも元気で』くらい言いなさいよ!」

 吹っ切ったように明るく、笑顔で言ってみせる。

 が、男の方はそうもいかない。

「…………うん。元気、で」

 震える声で、沈んだ様子で、なんとか別れの言葉を搾り出す。それでも素直に言うのは、諦めているからだろうし、別れを汚したくないからだろう。男である以上は、小さなプライドも抱えているに違いない。

 その姿に気圧されたか、僅かに口ごもる女。だが、無理やりに強く返す。

「ふ、ふん。当たり前でしょ! もう行くからね!」

 ついに男に背を向け、一歩を踏み出す。

「あ、傘は……」

「いらない。もう止みそうだから」

 そっけなく返す女に、言葉を詰まらせる。最後の優しさすら拒絶されてしまった。

 もう、光の壁が辿り着くまでもなく女は軒先から出ようとしている。

「じゃあね」

「……」

 男は何も言えない。背を向けた女に、決別の合図を返せない。

 返すまでもなく終わりは近い。けれどもそれでも、自分の言葉が最期の合図になるのが怖いのだ。

「じゃあねってば!」

「……」

 そんなところが、別れる原因だったのかもしれない。こちらを向かないままに女が語気を荒くする。

 もう既に、男はとめどなく泣いている。女にばれないようにと、なんとか声だけは飲み込みながら。

 それに気付かないわけも無い。泣いていることにも、ばれないようにしていることにも。

 戸惑い、躊躇い、振り向こうかという迷いも見せながらも。

「……ふん。じゃあね、ばいばい」

「……」

 女はそのまま、最後通牒を告げた。

 あぁ、終わってしまう。いや、終わってしまった。

 女は微かな霧雨の中に歩き出した。もう既に空気が湿っているだけと変わりはしないが、服と髪が不快に濡れるのだろう、乱暴に髪を振り両手で撫で付ける。男の手の感触を消すかのように、俯きながら、足を進めながら、何度も。

 二歩、三歩、四歩。

 何かをしてやりたい。何も出来ない。

 何度となく、大きなものから小さなものまで、無限といえるほど感じてきた無力感。今この瞬間にも、別の場所のあらゆる私が感じているもの。

 私は、神にも等しくどこにでも在る。

 地上の生物にとって不可欠な熱であり、栄養であり、一つの世界だ。

 それでも、こんなにも、何も出来ない。

 何かをしてやりたい。何も出来ない。男に、女に。

 もし何かを出来たとしても、何をすれば良いかなど分からない。未来も知らないし、感情を読めない私が何も出来ないのは当然だ。でも、それでも。

 何かをしてやりたい。何も出来ない。

 出来たとしても、歩く女を乾かし暖めてやることか。けれどもそれはまるで、男のことを忘れる手伝いをするようで。――いや。

 五歩。いつの間にか近づいていた光の壁の先端が、女のつま先に触れる。

 そうだ。そうだった。

 私は光だ。熱だ。波だ。粒だ。それに、色だ。

 上空では風が強く、雲の動きが早い。数メートルほどは瞬く間に移動する。雲がどいた場所からは私が、やはり瞬く間に降り注ぐ。

 つま先に触れた私がすぐに顔に達し、女は六歩目を踏み降ろしながら伏せていた顔をあげる。

 私が、顔を上げさせた。世界は輝いているだろう。光に溢れているだろう。赤や、黄色や、緑や、様々な色に満ち満ちているだろう。それを見せてやれた。そのまま水平を通り過ぎ、ゆるりと女の視線は上空へと。

 女のつま先から顔までが瞬くほどなら、男に到達するのも変わらない。涙目を照らされ、男も顔をあげる。赤や黄色や緑だけでなく、橙や、青や、藍色や紫に輝く世界。

 軽く目を覆いながら、女が、男が、同時に空を見る。

 私は光だ。私は色だ。空中の水滴に触れ、私は反射し分解され、ただ白ではなく様々な色となり観測者に届く。女に、男に届く。

『あ……』

 私は光だ。

 ――私は虹だ。

 二人は少し離れた場所で停止し、同じように青天を見上げていた。

 感動させたい訳ではない。これで別れ話が振り出しに戻ることも無いだろう。泣かせたいのでも笑わせたいのでも無い。

 ただ、もしかすると言い残した言葉が無いかと。澱のように、沈んで数年の間消えない言葉を、心の内に残してはいないかと。俯いたままでは呼吸もし難い。顔を上げて。喉を開いて、溜め息を付けば……新しい空気が取り込まれれば、それを吐くときに言葉になりはしないかと。

 そんな風に虹は、私は、精一杯に輝く。

 僅かに雲の残る空に、けれどもほとんどの雲を風が浚った空に。少しの白に、沢山の青に、大きく弧を描く。多くの人が私を見ているのを感じる。それぞれがそれぞれに、何かを思うだろう。私には分からないけれど、それでもせめて、何も出来ない私だけれどせめて、私がここに在ることを感じて欲しい。貴方の傍に在ることを。

 男が視線を下げる。

 女も視線を下げる。

 男は女を視界に捕らえ。

 女はただ俯き、足元の水溜りに青を見る。

 男は目を拭い、大きく息を吸い込む。

 女の足元の水溜りに、一つ、二つと波紋が走る。

 男は未だ震える喉を、それでも張って、女に届くようにと。

 女は水が跳ねるのを気にもかけず歩き出し、小さく、男に届かぬように願いながら。

 男は言った。

 女は言った。



「ありがとう」「ごめんね」



 奇跡のように、どこにでも在る。

 私は虹だ。

 私は光だ。

 ――貴方は人だ。

手っ取り早くオリジナリティを出すには主体を人間以外にすることかなぁ、と試しに書いた実験作。なので、地の文がどうにもフワッフワしてます。

全体のテーマも後付けですし、前書きで書いた『泣キ虫カレシ』をモチーフに、というのもついでみたいなものです。あんまり読み込まれるとボロが出そう。

そのうち書き直したら全然違う小説になるのかも?

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