『帰郷』 二
二
その日の事は、今でも鮮明に思い出せる。
良く晴れた日だった。昨日までは真夏では珍しく空が雲で覆われ、じめじめとしてお世辞にも気持が良いとは言えない天気だったが、今日の空にあるのは、自分の瞳のような色をした小さな雲だけだ。
月は窓際の色褪せた椅子に座り、足をぶらぶらと揺らす。
いっしょにツアーに参加していた子は、もう父さんや母さんが迎えに来たので、月は今一人だった。窓から見える変わりばえのしない駐車場を見るのにも飽きてきたので、旅行鞄の中にごそごそと手を入れる。
取り出したのは四つの袋。
お金を持っていくのは禁止されていたので、月が考えて用意したお土産達だった。
一つ目は、くるくると渦を巻く小さな貝殻。白くてきらきら光っているのを砂浜で見つけた。母さんへのお土産。
二つ目は、ひよこみたいな形の石。海から拾い上げた時はもっと黄色っぽかったけれど、今はちょっと灰色がかっていてひよこにはみえない。父さんへのお土産。
三つ目は、穴の開いた木。でも触るとつるつるして木じゃないみたい。三つ開いている穴が笑った顔のよう。おじいちゃんへのお土産。
四つ目は、ひらぺったい貝殻。お味噌汁に入っている者に似ているが、色はもっと綺麗な紫。明日華さんへのお土産。
一緒に旅行に行ったお姉さんがそれを小さな袋へ入れてくれた。
「よろこんでくれるかな」
早く話したい事がいっぱいあった。始めて見た海の事、マッチを使わずに火をつけた事、砂浜でバーベキューをしていてサンダルに砂が入ってしまい困った事。
でも父さんと母さんはまだ来ない。だから月は一人で座っている。少し前まで一緒にいたお姉さんも誰かに呼ばれて行ってしまった。
がたん、と扉が開く音につられて首を巡らす。
「おじいちゃん?」
何でだろう、と思った。母さんと父さんが来なくて、後から会いに行くはずのおじいちゃんが来た。
おじいちゃんは目が合うと、走ってきて行き成り月を抱きしめた。凄い力だったので、ごつごつとした腕が痛くて顔をしかめる。
「おじいちゃん?」
もう一度、呼ぶ。
「月、月・・・・・・あのな、月」
不思議だった。
何でおじいちゃんがいるの?何で顔が真っ赤なの?何で、怒ったみたいに泣いているの?
本当に、不思議だった。
ぱっちりと目を開け、天井を見つめる。
マンションのいつもの真っ白の天井と違って、木が剥き出しになったそれは色々な模様が浮かび上がっている。馬みたいな物、鳥みたいな物、何だかよくわからないけれど、幽霊のような物。
もぞもぞと布団に潜り込み、幽霊から隠れるように頭から布団を被って畳の緑色をした縁を見つめる。
(ねむれない)
とにかくいつもと違うのだ。
いつもはこの『おじいちゃんの家』に泊まる時は、父さんと母さんと一緒だった。
まず、仏壇に手を合わせてから、母さんが床が土でできた台所に立って、ご飯を作り、父さんはおじいちゃんと縁側か炬燵で話をする。たまに将棋を指す事もある。ご飯ができる頃に、母さんそっくりの明日華さんがやって来る。
明日華さんは母さんの妹だから本当は叔母さんと言うらしいが、一度そうやって呼んだら、頬をむにっとつかまれて、
「今までどうりに、明日華さんって呼んでね」
と言われたのでそう呼んでいる。
そして皆で円い机に座ってご飯を食べて、畳の部屋に三人分の布団を敷いて、離れにあるお風呂に入って、浴衣を着て寝るのだ。
それが今日は、いつもの同じなのは浴衣を着て布団で寝ている事だけ。
母さんも父さんもいない、明日華さんもいない。
早く一杯話したい事があるのに。
「かえっちゃえ」
むくりと起き上がって小声で言う。夜に外を歩くのは何となく怖いし後ろめたかったが、今のままはもっと嫌だ。
よくわからないけれど、何かが普通じゃない。それが嫌。
そのまま浴衣で外に出るのは変な気がしたので、先程まで来ていた服をもう一度着る。
出来るだけ小さく障子を開けて、左右を覗ってから忍び足で歩いて行く。止められるのが嫌で、おじいちゃんには声をかけなかった。
からからと戸を開け、門をくぐって走り出す。
緑の葉を被さるように広げた桜並木を通り過ぎ、銀杏の木を右へ。よく吠える犬のいる家の横の小道を曲がり、ポストが見えるまで真直ぐ進む。
母さんと考えた道標を口の中で唱えながら、月は走る。
「『うさぎのおきものの家を左に行けば、月のマンションの青いやねが見える』!」
暗くて青くは見えなかったが、マンションはわかった。流れる汗を手で拭いて、足に力を込める。
マンションの前まで着て足が止まった。
――――――パトカーがいる、知らない大人が何人もそこにいる。
それがなぜだかとっても怖くて嫌で、体の中で何かがぐるぐる回り出すように感じた。
大人達に見つからないよう、隠れながら急いで階段を駆け上がる。
(早く、早くっ)
早く逢いたかった。逢ってこのぐるぐるを止めて欲しかった。昼におじいちゃんがしてくれたように抱きしめて欲しかった。
夢中で階段を走って昇り、なぜだか張ってある黄色いテープを無視して潜り抜け、玄関の前に立つ。
黒
そこにあったのは、『お帰り』の言葉でもなく、頭を撫でてくれる温かい手でもなく
一面の残酷なほど焼け爛れた黒い世界
「いや・・・・・・いやぁっ!!」
無意識に後ずさる。体が勝手に崩れ、その場にぺたんと座り込んだ。
どこかで壊れた笛みたいな声がする。それが自分ののどから発せられていると理解したのは、後ろから抱きしめてくれた人の声が聞えた時。
「月!!何でこんな所にっ」
叱りつけるように、困惑したように言って、その人は月の身体を強く抱きしめた。
一瞬再び黒が視界に入ったので、月は身を硬く強ばらせた。だがそれが艶々と光る髪だとわかると、その人の硬い布地の服に、頬を押し付けた。
(この黒は違う、あの怖い黒じゃなくて――――――)
「母さぁん」
泣いていないのが不思議なような声色でそう呼ぶと、その人は顔を覗き込んでくる。
「月?」
綺麗な顔を、驚きと不安に染めて。
「どうやら今の月は、私を今日華だと思い込んでるみたいなのよ」
苦い顔で明日華は声を潜めた。
「無理もないじゃろうな、あれをみちまったのなら」
同じぐらい苦い顔をして初老の男が答えた。禿げ上がった頭髪に太い眉、力強い眼をしたこの老人の名は永井勝太。今日華と明日華の父であり、月の祖父その人だった。
「かえって良かったかもしれん。まだあんなに幼いんだ。本当の事を知らせるのは酷だろう」
明日華は沈痛そのものの表情できつく唇を噛み締めていた。
「でもこのままじゃ現実から逃げ続ける事になるわ。月をそんな子にしたくないはずよ」
今日華だってそう思うはずだわ、と明日華は顔を歪めて続けた。
「確かにこのままで良いとはわしも思わん」
目をふせ、湯飲みを干してから続けた。
「だが曲がる事を知らぬ木は直ぐに折れる。時には逃げも必要だ、様子をみて少しづつ話してきゃいい」
「母さん・・・・・・?」
半分寝たまま月は呟き、自分の声で眼を開けた。ぼんやりとあたりを見回し、見慣れない天井と壁と畳を見つめてから立ち上がる。再び暫しの間佇んでから、祖父の家にいる事を思い出した。
(いつごろだろう?)
自分の布団を部屋の隅によせ、月は時計を探して部屋を出た。
隣の部屋は居間として使われている部屋だった。古いこじんまりとした振り子時計は、十時を指している。ぐるりと見回すが、人気は無かった。
軽く眉を寄せ、月は次々と部屋を巡って行く。
祖父の部屋、廊下、座敷、道場への渡り廊下。
一つ部屋を通るたび、焦りは募り歩調が速くなる。
母と明日華さんが昔使っていた部屋、物置に使っている部屋、台所に風呂場。
調子の外れた呼び鈴が聞えてきた時には、ほとんど走るように玄関に走った。
「母さんっ」
玄関の向こうでは、見慣れぬ中年の女性が立っていた。反射的に隠れるように柱に手を置いた。
「ごめんねぇ、月ちゃん。小母さん遅くなっちゃって、寂しかったでしょう?」
「母さんはどこっ!!」
急き込むように言った言葉に、女性は顔を強ばらせた。その後浮かべた表情は、困惑したような、哀れんだような、諦めのような、不思議な顔だった。
「お母さんはね、おじいちゃんと一緒に大事な用事で出かけてるの。お昼か夕方には帰ってくると言ってたから、今日は小母さんと一緒にいようね。小母さんの事覚えてるかな?」
「・・・・・・こぎく屋の、おばさん。うぐいすのおかしの」
「そう、小菊屋の萌黄小母さん。覚えててくれたの。月ちゃんはおりこうさんだね、じゃあ、着替えて朝ご飯にしようか。パンは好き?」
月は曖昧に頷いた。本当はそれほど好きではなく、どちらかと言うと和食好みなのだが、せっかく用意してくれた物を無碍にするのも気が引けた。
もそもそとジャムパンと牛乳と味噌汁と言う何とも奇妙な組み合わせの朝食を終えた後、月は母達の部屋へ向かい絵本を読み始めた。母の代から読まれていた物なので、古びていて黄ばみ所々ほつれている。何冊か読み、やがて飽きた。
しばらく悩んだ後、絵本の絵を描こうと言う結論に達した月は、クレパスを探し始めた。
月は一人遊びの得意な子供だった。数年前まで両親は共働きで家を空ける事も頻繁にあったし、遊び相手になる兄弟もいない一人っ子。内気な性格も手伝って、一人で何かしている方が集団で行動するより遥かに好きだった。
錆の浮いたケースに入った母達のお古のクレパスを探し出した月は、絵本を片手に涼しい縁側へと移動する。裏が白紙の広告に犬や兎、鬼や雉を鉛筆で描きこみ、クレパスで色を乗せていく。
一枚目の広告がさまざまな登場人物でいっぱいになると、二枚目にかかるべく、広告に手を伸ばす。その時の動きで腕がクレパスのセットにぶつかり、派手な音を立てて散らばった。
肘を突き緩慢な動きで起き上がった月はざっと眺めた。
(にわにまでおちっちゃった・・・・・・)
庭の部分の物から拾うべく、屈んで縁側の下から下駄を引き寄せる。カラコロと音を響かせ、小さなクレパス達を集め、次々にポケットに入れていく。
「――――――、よ。朝から――――――。だから頼まれたの」
不意に響いた声にびくりと身体を震わす。四方を見渡すが、人影は無い。
「五年前に春日さんも突然いなくなっちゃったでしょ?勝さん気を落とさないといいけどねぇ」
「奥さんの次は娘夫婦が、こんな目にあったうなんてねぇ」
どうやら、小母さんらしい。安心すると同時に好奇心が沸いてきた。
板塀の隙間に目を押し付けるようにすると、割烹着姿と着物姿の人物の裾が見えた。割烹着姿の方の人は箒を手にしているので、小菊屋の小母さんだろう。
「火事、なんて怖いわね」
「しかも警察が言うには不審火かもしれないって」
「不審火って事は、まさか、放火!?」
「そうらしいの。月ちゃんは旅行に行ってたから助かったって聞いたけど。でもどうやら火事の後見ちゃったらしいのよ、その所為で明日華ちゃんの事を――――――」
その後は、聞いていなかった。
よろよろと耳を塞いで後ずさると、木の根を踏んでよろめいた――――――脳裏に甦るのは、真っ黒の空間。
(いや――――――ッ!!)
声にならない悲鳴と上げて、その場から逃げるように駆け出した。下駄を転がしたのにも気づかず、部屋に転がり込む。ぴしゃりと音を立てて戸を閉め、膝を頭を抱えてへたり込む。
ふ、と顔を開けると視線の先には仏壇があった。少し萎れた向日葵の花と、線香と共に、新品の蝋燭が並んでいる。ふらふらと、前まで歩み、蝋燭を手に取った。真っ白のそれを手の中でころころと転がす、よろよろと首を廻らして、マッチを探し擦って火を点けた。
橙色の光が小さく燈る。
(火・・・・・・)
燭台に立てた白く細い蝋燭に近づけると、ちりっと音を立てて火が増えた。
じっと見ていると、まるで生き物のように伸び縮みする。色も橙から赤、黄と風も無いのに揺れながら変化する。
(きれい・・・・・・)
不思議な程嫌悪は無かった。ただ素直に綺麗だと感じられた。
すっと手近づける。指先から温かな感触が広がる。赤い光が指先に映る。そろそろと爪が焦げるほど近づける――――――
「月!何やってるのよ!!」
痛いほど肩を掴まれ、後ろに引き倒された。
「かあ、さん・・・・・・?」
怒鳴りつけようとした明日華は眼を覗き込んで、息を呑んだ。
月の眼は焦点を結んでおらず、常の光は欠片も見えない。その顔には壊れた硝子細工のような、溶ける寸前の氷のような微笑を浮かべていた。
明日華の膝に頭を乗せて眠り込んでしまった、月の髪を撫でて明日華は唇を噛み締めた。
「きょう・・・・・・どうしよう」
途方に暮れたように幼い頃からの自分だけの呼び名で片割れに呼びかけるが、返ってくる気配はひたすら弱々しかった。それでも、必死で戦っているのは感じられる。
先程まで、目を離したことを真っ青になって謝っていた萌黄も、家に帰って貰ったため、家の中は静かだった。かたかたと隙間風が障子を揺らす音だけが耳に届く。
再び膝に目を落とす。
月は、死んだように眠り込んでいた。いつもより手足が冷たく、顔色も悪い。何度も心配になって口元に手を当てて呼吸を確かめてしまった。
「ねぇ、きょうならどうする?父さんの言うとおりにしてたら、どんどん月が弱っていくわ」
事実、昨晩も今朝も食べる量は少なかった。この眠りも尋常だとはとても思えない。
「第一、月が私達を間違えるなんて考えられる?どんなに小さかった頃でも、どんな時でも見分けてた月が」
父さんだってお酒飲んだら良く間違えてたし、春史君も学生時代は間違えた事があったわね、そう続けながら唇を歪めて俯いた。さらさらと背を被っていた黒髪が頬から伝って滑り落ち、膝に眠る月に濃い影を落とす。
物心がつく頃から伸ばしていた髪は今も背の中程まである。一番長かったのは中高生の頃で、腰より下にきていた。
つらつらと、明日華は回想を続けた。そういえば、あの頃はあまりにも長すぎて、できる髪形が少なかったから、いつも三つ編みにしていたな、と。
(私が一本にしてて、今日華が二本のお下げにしていた。時々逆にして遊んでたけど)
一瞬で見分けれたのは、母ぐらいだったな、と思わず微笑を溢した時、明日華にある考えが浮かんだ。
流れ落ちる髪を一房摘み、まじまじと見つめる。
「・・・・・・一か八かよ。やってやろうじゃないの」
薄く眼を開けた月の眼に飛び込んできたのは、朱に染まった部屋だった。無意識の内に手の甲で眼を擦り、なぜ此処に居るのかを考えてみる。
(おふとんに、入ったおぼえが無いんだけどな)
座敷の前の縁側で絵を描いていた、その後の記憶がぷっつりと途絶えている。部屋の様子を見ても数時間は経ったと思われるのに。
(ねちゃったのかな?)
腕を組んで考え込んでいると、すらっと音を立てて襖が開いた。
「だれ・・・・・・?」
見知らぬ人が、そこにいた。
女の人のようだが、髪が驚く程短い。襟元にやっとかかるぐらいで刈り上げてある。それに色が不自然なほど赤い。夕陽の所為かと思ったが、近づいてきた時点で違うとわかった。
「だれなの・・・・・・」
自分でも不思議なほど警戒心は湧かなかった。自分はひどく人見知りする性格だというのに。
「わからないの?」
その人はいたずらっぽく呟いて、小さく首をかしげた。
声の調子、眉の濃さ、首をかしげる方向、座る時片足を引く癖――――――
「明日華、さん」
声に出した瞬間、とんでもない間違いを犯した気がした。
(ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちが、う・・・・・・この人は、)
「母さん?」
虚ろな目で可愛らしく問うて見るが、効果は無かった。
「よく聴いてちょうだい、月。私はあなたの母さんの今日華じゃないわ。明日華よ」
「ちが・・・・・・」
「違わないわ。昨日から一緒にいたのは私。火事の跡から月を連れて帰ってきたのも私よ」
「ちがう!ちがうもん。母さんがむかえに来てくれるって言ったもの!!」
「違わない。そう言う約束はしてたけど、今日華は行けなくなったの。それに迎えに行ったのは私ですらないわよ、とう――――――おじいちゃんでしょ」
「ちがう!母さんだよ、父さんといっしょに来てくれるって言ったもの、それで、おじいちゃんの家へおみやげ届けようねって!!」
「じゃあ、その父さんはどこへ行ってしまったの?」
虚を突かれた。思わず口を閉じた月に、明日華は残酷なまでに畳み掛ける。
「月、現実から目を逸らさないで。今日華はここには居ないのよ。私に今日華を重ねて、それが真実だと思い込んでしまったら、あなたの中で母さんは消えてしまうのよ」
驚愕と共に記憶が巡ってくる。迎えにきたのは祖父だった事、夜中に抜け出して家へ行った事、そこに明日華が駆けつけてくれた事、小母さん達の会話の事。
月の視界が、水っぽく歪んだ。
「母さんは、いないのね」
明日華はその様子を痛ましそうに見つめながらも、深く頷く。
「家が火事に、なっちったんだね。みんな、みんなみんな燃えて」
溢れ出た温かな雫が、次々と頬を伝っていく。
「黒くなって、灰になって・・・・・・」
その先は言葉にならなかった。
泣き出した月を明日華は強く抱きしめ、辛抱強く背を撫でてくれた。月はしがみつくように明日華の体に手をまわし、声の限り、泣き続けた。
ひとしきり泣き、ひゃくりあげも弱まった所で温かなタオルで顔を拭って貰った。月は目の前に見える今は赤褐色になってしまった明日華の髪に手を伸ばす。
「かみ・・・・・・ごめんなさい・・・・・・わたしのせいで・・・・・・」
「気にしないでいいわ。月の方がよっぽど大事だしね」
「でも、でも・・・・・・」
脳裏に浮かぶのは、艶々とした漆黒の髪。母よりは若干短いものの、真直ぐに伸ばされた髪はいつ見ても美しく、綺麗で月の憧れだった。
「じゃあね。今度は月が私の代わりに伸ばしてくれればいいわ、それで問題解決でしょ」
「それでいいの?」
「ええ、月は色が白いから良く映えると思うし。約束ね」
「うん!」
小指を出して笑いあう。一瞬浮かべた笑顔は、またすぐに沈んだ顔へと戻ってしまった。
「月?」
「明日華さん。あの、本当に・・・・・・、母さんと父さんって死んじゃったの?」
明日華は呆気に取られたかのような顔になった。
「馬鹿な事言わないで――――――生きているわよ」
何を言われたか理解できなかった。頭の中を言葉が通過していく。
「本・・・・・・当、に」
「ええ、本当よ。二人とも今病院にいるわ」
「会いたい」
間髪いれずに言い放つ。明日華の顔が僅かに曇った。
「あのね、月。二人はね助かったんだけど、逃げる途中に煙に巻かれてしまったの・・・・・・それで、今も目を覚まさない。だからまだ会えないのよ」
集中治療室で生死の境を彷徨っている、とは言えなかった。
この子には、それは重過ぎる。幼くて、繊細で、可哀想なこの少女には。
「近くに行く事もできないの?ちょっとでも近くにいたいの。ほんの少しでいいから」
必死の懇願に、明日華は頷くしかなかった。
灯の乏しい夜の病院は、冷たい、無機質な印象を与えた。
のっぺりとした白い建物の中は、どんな小さな物音でもとどろくように響き渡る。
顔を強ばらせながら月は明日華に手を引かれ、ある一室の前に立った。明日華は握っていた手を離し、後ろに立って月の肩に手を置いた。
「私にはわかるわ。今ね、今日華は全力で戦っているの。こっちの世界に還って来ようとがんばってる――――――月のもとに来ようとがんばってるの」
白い扉を睨みつけ、月の肩を痛いほどきつく掴む。
「だから、私達も、今日華と春史君が還って早く来られるように、応援していよう」
目線を合わせて、母の双子の妹は哀しい笑顔を浮かべた。
けれど
祈りは、届かず。
――――――二人は、三日後に息を引き取った。
ついさっきまで葬儀のために大勢の人がいた為、家の中は落ち着かない空気が漂っている。気まぐれな風が生暖かく吹いてきて、縁側にいる月の髪や紺のワンピースの裾を揺らした。
この紺の喪服はどうしても黒い服が着れなかった月の為に、明日華が急いで用意してくれた物だった。
月はとろんとした眼で庭を見つめていた。やっと涙が止まった眼は、赤くなり瞼が腫れぼったかった。不意に後ろで襖が開く音がする。
「なんで、母さんと父さんはいっちゃったのかな」
その人は思い足音を立てて近づき、どっかりと胡坐をかいた。
「わたしがきらいだから?わたしのこときらいになっちゃったのかな」
「月」
咎める響きのしわがれた声。頭に手を置いてぐしぐしと撫でてくれる。
「二人が、本当にそんな事言うと思ってるのか?」
「だって、かえって来てくれなかったもの」
背を丸め、膝を抱えて顔に押し付ける。
「だって、・・・・・・だって。いっしょうけんめいお祈りしてたのに。かえって来てくれなかったもん」
しばらく、頭を撫でてから、
勝太は口を開いた。
「月は、天を信じているか?」
「天って、神さまのこと?」
「ちぃと違うな。神様っつーのは大抵人間に善い行いをしてくれる存在の事だ。だが天は違う。人の嫌がる事も、悲しむ事も決めちまうんだ」
「なんでぇ?」
「何でだろうなぁ。だが天は時々、“さだめ”という物を造っちまう。二人はそんなさだめに選ばれちまったんだろうな」
「よく、わかんない」
一段と強く風が吹き、月の髪をかき混ぜ、緑の木々をざわめかせる。
「まだわからんでいいさ。ただじいちゃんが言いたかったのは、な」
優しく笑って、皺だらけの手で乱れた髪を直してくれる。
「自分を責めちゃいかんぞって事だ。月は何にも悪い事はしてないんだからな」
止まっていた筈の涙が、再び溢れてくる。えぐえぐと泣き出した月の背中を、勝太はゆっくりと泣き止むまで撫ぜていた。
二人が小さな白い箱に入って帰宅した晩。
月は一人で仏壇に向かった。火を付けた線香を片手で消して手を合わせる。閉じていた眼を開いて、箱を見つめた。正確には、その前に置かれた二人の写真を。
「母さん、父さん。わたしがんばるから」
強い意志を秘めた薄墨色の瞳。幼い少女は続ける。
「がんばって、生きるから。ずっとずっと見守っていてね」
ポケットに手を入れて、中身をそっと抓み出し箱の前に並べて置いた。ちらっと微笑んで立ち上がり、電気を消して部屋を出て行った。