第6章 奇襲戦法
なお、この文章を書くにあたり、生成AIを利用していることを前もって明記します。
長崎桜馬場は静まり返っていた。
当主を失い、後見が定まらず混乱した港は、大岡の叔父が入ったことで、凪のように落ち着きを取り戻し始めている。荷は滞りなく通り、関銭も一定に戻り、港役人の顔色にも余裕が見えた。
日野本家の威は保たれた。
光輝も算盤を弾き、頷いた。
「良き哉。」
短い一言。だが、それで十分だった。
その報が長与に届いた翌月。
斉藤地区の浜で、奇妙な作業が続いていた。
浅く掘られた溝。潮の満ち引きに合わせて水が入り、太陽の下で白く乾いていく。
空海が腕を組む。
「……本当に結晶が出ましたな。」
浜に薄く浮く白。
龍重はそれを指先で摘まみ、舐めた。
「塩じゃ。」
乾いた笑みが浮かぶ。
入浜式塩田。
まだ粗い。だが、確かに塩。
五島水軍の塩止めは、これで意味を失う。
「本家様や本河内殿は喜びますかな。」
空海が言う。
「喜ぶかのぉ。」
龍重は塩を握り、浜に落とした。
「驚くじゃろ。」
それが奇襲だった。
数日後。
本河内邸。
報告を受けた光輝、しばし無言。
「……塩田。」
「はい。規模はまだ小。」
「大小でない。」
算盤の珠が乾いた音を立てる。
塩が安定供給されれば、保存が効く。保存が効けば、商いは強くなる。
光輝はゆっくりと息を吐いた。
「信太、盤を増やしおった。」
怒りはない。ただ、計算。
その三日後。
日翔寺にて見合いの話が持ち上がる。
本家にも一門にも既に話は通っていた。
鍋島家猶子の縁。家格も整う。
断れば、大時化。家が沈みかねない。
龍重は空海を睨む。
「……聞いておったか。」
「噂は。」
「止められぬか。」
「止まりませぬな。」
日翔寺の本堂。
線香の煙がゆるく揺れる。
地空は徳利を置き、片眉を上げる。
「塩は効いたの。」
「効きすぎましたな。」
空海が低く返す。
障子の向こうから足音。
座に入ってきたのは、見覚えのある顔だった。
「お久しゅうございます、信太様。」
柚那。
幼い頃、田の畦で泥だらけになっていた少女。
今は落ち着いた装いで、目は静かに澄んでいる。
龍重は言葉を失った。
「……柚姉。」
「塩、上手くいったようですね。」
いきなり核心。
龍重の視線が揺れる。
「……知っておったか。」
「知らぬと思いました?」
わずかな笑み。
光輝が奥から出てくる。
「奇襲とは不意打ちではない。」
ゆっくりと腰を下ろす。
「退路を奪うことだ。」
龍重は視線を逸らさない。
「退路を奪われたのは、どちらですかな。」
光輝の目が細くなる。
「若造が塩を握れば、儂は縁を握る。」
柚那は静かに二人を見る。
「握るのではなく、結ぶのでは?」
一瞬、空気が止まる。
光輝は小さく息を吐いた。
「……誰の言葉だ。」
「私。」
柚那は真っ直ぐだった。
「光輝様、ありがとうございます。信太様に嫁げる、望外の幸福です。」
場が凍る。
普通なら言わぬ。言外に、龍重寄りと。
だが言った。
「元の身分では結ばれませぬ。」
微笑を浮かべて。
「ならば盤に乗ります。」
龍重の胸が締まる。
光輝は苦い顔をする。
「猶子の話は、軽くはない。」
「委細承知。」
柚那は揺れない。
龍重はようやく口を開く。
「……断れないのぉ。」
空海が小さく咳払いする。
「感情ですか、理ですか。」
「……聞くな。」
溢れる本音。
光輝は立ち上がる。
「嫁は貸したぞ。……利息は高い。」
龍重が眉を上げる。
「返済が必要で?」
柚那はわずかに視線を逸らす。
光輝は理解している。この娘は龍重寄り。
だが、それでも出す。
出さねば、龍重は完全に自立する。
「五十一か。」
光輝が呟く。
「どちらが先に握ったか。」
龍重は柚那を見る。
柚那は微かに首を傾げる。
「囲われたのは、どちらでしょう。」
静寂。
地空が奥で笑った。
「奇襲は三人で打つものか。」
夕刻。
浜に立つ龍重。
塩田に白が浮かび始めている。
柚那が隣に立つ。
「怖くはありませぬか。」
「怖い。」
素直に言う。
「だが流れは止めぬ。」
柚那は静かに頷く。
「止められる者はおりませぬ。」
風が吹く。潮の匂い。
塩は乾き、光る。
盤は広がった。
先手を打ったのは誰か。
奇襲を仕掛けたのは誰か。
まだ答えは出ない。
ただ一つ。流れは、確実に変わり始めていた。
神浦城日野本家の座敷は、冬でもないのに冷えていた。
柱は太く、畳は沈み、声を出さずとも重みがある。
龍朋は上座に座し、扇子を閉じた。
「塩田。」
短い一言。
家臣の一人が進み出る。
「斉藤浜にて入浜式を試み、一定の結晶を得たとのこと。規模は小なれど、来春には倍増の見込み。」
「誰の名で、動いておる。」
「長与日野、若殿の差配にて。」
沈黙。
扇子の背を、龍朋の指が静かに叩く。
「釘が刺さっておらぬ。」
塩田は利を生む。
利は力を生む。
力は家中の均衡を崩す。
家臣が続ける。
「さらに、鍋島家猶子の縁組が整い申した。」
空気が一段、冷える。
「……誰が動いた。」
「本河内殿。」
龍朋は目を閉じた。
塩に縁、港。盤が広がっている。
しかも、本家の手を経ず。
「小僧。」
吐き捨てるでもなく、ただ事実として。
数日後、長与に書状が届く。
墨は濃く、文は簡潔。
『塩田之儀、急進無用。
一門之事、私断不可。』
余白が重い。
それだけで圧。
空海が文を読み上げる。
「……来ましたな。」
龍重は黙って聞く。
「急進無用。つまり止めよ、と。」
「ゆっくり進めよ、ということじゃ。」
即答。
空海は眉をひそめる。
「公然と逆らえば、家中の立場が。」
「逆らっておらぬわ。」
龍重は静かに立ち上がる。
「日野本家直轄。」
「は?」
「長与の名は埋める。」
空海が目を細める。
「逃げ道を残しますか。」
「逃げ道ではない。」
浜の白を思い浮かべる。
「盤を広げるには、角を立てぬこと。」
だが、本家は止まらぬ。
次は軍役。
「長与、兵二十を本家詰に出せ。」
塩田で浮いた余剰を削る手。
さらに、商い。
「塩の取引、本家の検分必須。」
締め付けは巧妙。
露骨ではない。
だが確実に息を削る。
本家評定。
家臣が進言する。
「若殿を締めねば、長与は肥え太ります。」
龍朋は動かない。
「肥えることが悪いか。」
「均衡が崩れます。」
「均衡は守るためのものだ。」
「……誰を。」
その問いに、龍朋は答えぬ。
守るのは家、一門全体。
長与一つではない。
だが、龍重は動く。
塩田を縮めぬ。兵も出す。商いも通す。
締められれば締められるほど、静かに耐える。
それが龍朋の心を揺らす。
ある夜。
龍朋は独り、庭に立つ。冬枯れの枝が風に鳴る。
「締めれば折れる。」
だが、折れてはならぬ。
若すぎる。勢いがある。
勢いは家を割る。
「少し躾を、か。」
自ら呟き、苦く笑う。
躾とは、誰のためか。
家のためか。己のためか。
……恐れか。
龍朋は目を開く。
恐れているのは誰だ。
若さか。流れか。
それとも、自分の遅れか。
答えは出ない。
だが圧は続く。
糸は張られる。
張られた糸は、音を立てぬまま細くなる。
そしてやがて、二度目の大村攻勢。
その時、龍朋の判断は半歩、遅れる。
締めすぎた糸は、柔らかく動かぬ。
その半歩が戦場を揺らすことになるとは――まだ誰も知らなかった。




