第5章 先手必敗
連続投稿が続いていますが、ストックとの兼ね合いもあるので、速度が落ちる可能性もあります。ご了承ください。なお、生成AIの力を借りながら、細々と進めています。
長与郷、市の日。
今や名産と化した大ぶりの椎茸の籠が並ぶ。
干し棚から下ろしたばかりの、香りの強い肉厚。
だが、誰も手を伸ばさない。
商人が一人、咳払いをして言う。
「今日は……値が立ちませぬ。」
村人が気色ばむ。
「昨日までは買っていたではないか。」
「止めが入りました。」
「どこが止めた。」
商人は目を逸らす。
「関所の改めが厳しゅうなりましてな。通行銭も倍。検分も三重。」
椎茸籠の蓋が閉じられる音がする。
別の日、紙の荷。
紙束を担いだ若者が戻ってくる。
「市に出せぬ。」
「なぜ。」
「証文が要ると。」
「誰の。」
「大村。」
一瞬、音が消える。
夜、評定。
空海が苦々しく言う。
「大村兵は動きませぬ。」
「では。」
「蔵は動いております。」
龍重は目を閉じる。
「どちらにも効いておるか。」
「こちらに効いている、そう思いたいでしょうなぁ。」
地空は静かに湯呑を置く。
「寺にも書状が来た。」
「何と。」
「山林伐採の由来を問う。」
海辺。
大村兵が整列している。
旗は立つが、動かない。
村人は囁く。
「攻めてくるか。」
「来はせぬ。」
だが商いは止まる。
光輝の屋敷。
報告を受ける。
「長与の椎茸、滞留。」
「価格。」
「下落。」
光輝は算盤を弾く。
「関銭強化で大村の収入は。」
「短期は増。」
「長期は。」
「痩せ細る。」
光輝は薄く笑う。
「幼子じゃな。」
長与郷、夕暮れ。
子どもが問う。
「若様、売れないの?」
龍重は少し間を置く。
「売れんのぉ。」
「どうするの?」
「待つだけさね。」
空海が横で低く。
「蔵が先に息を切らす。」
大村城。
蔵役が報告。
「関所収入は上がっております。」
「長与は沈んだか。」
「はい、滞っております。」
若い家臣が言う。
「効いております。」
老臣は目を閉じている。
再び長与。
椎茸は積まれたまま。紙は倉に眠る。
村人は不安になる。龍重は動かない。
夜中、川の音。
空海が言う。
「兵千。四十五日。持ちませぬ。」
龍重は微笑を浮かべ頷く。
「沈むふりをせよ。」
市に並ぶ籠は減り、
椎茸は山に残り、
紙は蔵に積まれたまま。
噂は風の如く。商人は肩を竦めた。
「やはり若造は若造よ。」
関所の銭は重く、改めは厳しく、道は長い。
長与は、静かに痩せ細ったように見えた。
夜、川辺。
空海が低く言う。
「兵は八百に減少。既に三十日。」
龍重は石を一つ川へ投げる。
「あと幾日。」
「二十も持てば上出来。」
水は何も言わず、流れる。
「沈んだように見えるか。」
「見えます。」
「ならばよい。」
村は揺れる。
若い衆が言う。
「やはり売れぬ。」
老婆が言う。
「大村に逆らうからじゃ。」
若者は黙って紙を漉く。締まりは増していた。だが銭にはならぬ。
山。椎茸は干し棚に並ぶ。誰も買わぬ。子どもが一つ摘まむ。
「食べていい?」
龍重は笑う。
「焼け。」
火が上がる。香ばしさが広がる。
村人が振り向く。
「……旨い。」
それだけのことだった。
三日後。
空海が報告する。
「兵糧船、一隻戻らず。」
龍重は目を細める。
「海は魔物じゃからのぉ。」
空海は何も言わぬ。
大村城評定の間。蔵役が汗をかく。
「関銭は上がっておりますが……」
「兵糧は。」
「減っております。」
若い家臣が言う。
「もう一押し。止めれば長与が勝ったことになる。」
老臣が首を傾げる。奇妙。
長与郷。
椎茸は売れぬ。だから干される。だから溜まる。だから冬が怖くなくなる。
村長が苦笑しつつ言う。
「売れぬが、腹は減らぬ。」
龍重は火を見つめる。
「腹が減らねば、急がぬ。」
その声は静かだった。
誰が言い出したか分からぬ。
「余っているなら食えばよい。」
収穫祭。椎茸が焼かれ、紙で灯籠が作られ、川辺に並ぶ。
子どもが走る。僧が経を読む。
地空は遠くで見ている。
兵の旗が、遠く丘に立つ。だが誰も怯えない。
見知らぬ者もちらほらと。
酒を飲み、焼き椎茸を齧り、椎茸汁を啜り、灯籠を愛でる。だが、笑いながらも、誰もが明日の関所を忘れてはいなかった。
「……沈んでおらぬ。」
だが何を報告すればよい。
売れていないのは事実。苦しいのも事実。だが笑顔溢れる。
その報が届く本河内邸。
報告を聞く。
「祭……」
筆が止まる。
「……若い。」
だが目は笑っていた。
「蔵は削れているな。」
夜更け。
川辺に灯籠が浮かぶ。
水は澄み、静かに流れる。
空海が言う。
「持ちます。」
龍重は頷く。
「沈んだか。」
「沈んで見せました。」
「ならばよい。」
遠く、兵の旗が一つ下がる。
気づく者は少ない。
だが蔵は限界に近い。
怒りは膨らむ。
冷静は削れる。
収穫祭の片付けの中、子どもが笑顔で。
「椎茸うまかった」
「そうか。」
笑みを浮かべる。
村の古老が呟く。
「若、これでよいのか?」
龍重は少し考える。
「完成直後の堤、水は少ない。」
「はぁ。」
「じゃが、時が来れば満ち、広がる。」
古老は少し考え込む。ふと顔を上げ、一礼。
火が消え、煙が上がる。
せせらぎの音だけが残る。
沈むふりは終わり、伸びる根は地下で絡む。
まだ誰も知らない。この静かな村が、じわりと周囲を包み始めていることを。
長与郷、日野龍重邸。文が届く。
差出人は神浦城主、日野龍朋。日野家二代目。
「ただの紙なのにのぉ、威圧されている気分じゃ。」
龍重が溜息を深く吐く。
空海も頭が痛いと言わんばかりにこめかみを抑える。
「行くしかなかろうなぁ。」
「ですな。」
互いに憂鬱な顔を見合わせしばらく。
家人が走ってくる。
「若。」
「落ち着け。」
神浦城、日野本家の評定の間は、長与よりも刺さる冷気を孕んでいた。
柱は太く、畳は沈み、声を出さずとも重みがある。
龍朋は上座に座していた。視線は鋭くもなく、ただ動かぬ。
「沈むふり、だと。」
淡々と。
龍重は深く頭を下げたまま。
「はっ。」
「分を弁えよ。」
空気を切り裂く静かな声。
「市を止められ、兵を寄せられ、なお遊びのような真似を。」
叱責は正しい。龍重は否定できない。
「恐れながら。」
焦りない声で頭は垂れたまま。
「市が止まれば、村が揺れます。揺れれば、本家にも波は参りましょう。」
畳に落ちる声は低い。
龍朋の眉がわずかに動く。
「脅しか。」
「いいえ。」
静かに。
「波は堤を試します。」
沈黙。
家臣の一人が鼻を鳴らす。
「堤などと、大仰な。」
龍重は言い返さない。
そして、ぽつりと置く。
頭を僅かに上げ、
「ところで、長崎桜馬場。」
空気が変わる。
龍朋の目が、初めて龍重を捉えた。
「……何だ。」
「当主が猪にて急死。後継が若年で後見が定まらぬとか。」
家臣の間にざわめきが走る。
桜馬場は長崎口の要。海へ抜ける喉元。
龍朋の指が膝の上で止まる。
「続けよ。」
龍重はようやく顔を上げる。
「大岡の叔父御が出張られれば、その家、安堵でしょうなぁ。」
家。その言葉だけが、座敷に残る。
龍朋は守る男だ、家を。
「長与の火種を増やしながら、よく言う。」
声は低い。
龍重は揺れない。
「火は消せます。」
周囲を見回して、
「桜馬場が揺れれば、海が騒ぎます。」
守りの理屈。
攻めの匂いはさせない。
龍朋は黙る。
家臣が口を挟もうとしたが、視線一つで止められる。
「……長与の始末はどうする。」
「沈ませぬ。」
「何故。」
「蔵が先に息を切らします。」
断言でもなく、願いでもなく、ただ述べる。
龍朋はじっと見つめる。
若い。だが、目は逸らさぬ。
やがて視線を外し、ゆっくりと言う。
「桜馬場は、放ってはおけぬ。」
それだけ。決定でも承認でもない。
だが座敷の空気が変わる。
龍重は深く頭を下げる。
「御当主様の判断を。」
それ以上は言わぬ。立ち上がり、下がる。
襖が閉じる。
静寂。
家臣が低く言う。
「若造に動かされますか。」
龍朋は湯呑を手に取り、じっと見つめ呟く。
「動くのは、家だ。」
それだけだった。
長与への帰路。
空海が並ぶ。
「怒られましたな。」
「当然じゃ。」
「響きましたか。」
龍重は少しだけ笑う。
「猪もまた、流れの一つかのぉ。」
空海が呆れる。
「罰が当たります。」
「当たらぬように、堤を築く。」
風が吹く。
長与の方角に雲が流れている。
桜馬場の海も、同じ風の下にある。
龍重は振り返らない。
足取りは軽い。だが背に乗る重みも、また増えていた。




