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その夜、俺は園舎を出るなりスマホを取り出して発信ボタンを押した。
呼び出し音が耳を抉る。まだ、仕事中かもしれない。もしそうなら、折り返しが来るまで俺はこの窓の下で待とう――
「ホッシー先生? 珍しいですね、どうしたんですか」
いつの間にか聞き慣れた、静かでそれでいて、ぴん、と弦を張ったような声。電話越しに聞くそれは、ああ、今まで気付かなかったけど、ピアノの音色に似ているかもしれない、と思った。
「あの……ヒナ先生、もう仕事終わりましたか?」
「はい。さっき」
「あの俺っ、今教室の前に来てるんですけど、」
言いながら、窓を見上げる。レースカーテンが引かれて、色白の顔が覗いた。驚いた表情、初めて見る、ちょっと可笑しい。
「今からそっち、行っていいですか」
俺の言葉に、その眼は更に見開かれた。
「正面の玄関の鍵は開いてるので、そのまま2階に上がってきてください」と言われ、俺はプロヴァンス風住宅の玄関扉をくぐった。いつも見ている場所なのに、入るのは初めてで、変な感じだ。
2階に上がってすぐのところに、動物のイラストに囲まれてポップな丸文字で『ながはらピアノ教室』と書かれたプレートの下がったドアがあった。ドアノブに手を掛けて押すと、キィ、と僅かな音を立ててそれは開いた。
建物外観と同様に、白を基調とした明るい部屋だった。その中心に置かれたグランドピアノに寄り掛かるようにして、ヒナ先生は座っていた。
外は夜だけど、その人は確かに、光の中にいた。
思わず小さく目を見張ったのを、悟られてはいなかったか――
「すみません……急に押しかけて」
「それはいいですけど……ただ、びっくりしたので……」
ヒナ先生が傾けていた身体を起こす。ぴっと伸びた背筋に、どこかぽうっとしたような表情がちぐはぐだった。仕事終わりの、緊張感を解いた時間の断片を目撃してしまったようで、心臓の音が一段高くなる。
(なんで俺、こんなので意識とか――っ)
思えばこの人の姿勢は、いつも綺麗だった。背骨から指先にかけて一本の真っ直ぐな線が通っているように、動作には無駄な力みも、反対に隙や油断もなく、整った顔や、余裕の裏に静かな圧を隠し持った声に見合った洗練さがあった。
そうか。ピアノに対する時のように背筋を伸ばすのは、この人には無意識なんだ。
ヒナ先生を作った時間が、経験が、俺の眼の前にも僅かながら尻尾を出したと思った。いや、この場所そのものが――民家の一室でしかないこのささやかな空間が、そういうもので溢れていた。
そのことを感じ取ってどうして俺は――こんなにも胸がいっぱいなんだ。
「あの、ヒナ先生。今日、誕生日なんですよね?」
「ああ……サホちゃんから聞いたんですか?」
「あの俺、知らなくて……ちゃんとしたプレゼントとかは、今度渡すので……今は、これで許してくださいっ!」
俺は風に飛んでいきそうなペラペラのそれを差し出した。
誕生日プレゼント(仮)の向こうで、ヒナ先生の眼が再びちいさく見開かれたのが見えた。
「……ひまわり?」
それは折り紙で作ったひまわりの花だった。
「これ、ホッシー先生が折ったんですか?」
「何驚いてるんですか。俺には折り紙なんてできなそうと?」
「いえ、そんなことは……でも意外、ではあった、かも……」
「これでも学童指導員ですから。苦手ではないですよ、こういうのも。それに、ちょうどいいことに俺の職場には折り紙がたくさんあるので」
輪郭を簡略化された直線的なフォルムの花に顔を埋めるようにして、ヒナ先生はふふっ、とあのくぐもった声でちょっと笑った。
「ヒナ先生……?」
「僕ね、今日30になったんです」
「……はい」
「ホッシー先生は、いいんですか? ここにあるのは、青春のきらきらでも、若者向けの甘ったるい恋でもないですよ。僕が使えるのは、ダメな大人が使う、狡猾で打算的な手だけです」
「……」
「……なんて、それらしいことがせめて言えたらいいんですけど。もし本当に大人なら、ストレートの方を好きになったとしても、こんな性急に距離を詰めようとしたりしません。ていうか、そもそも不毛ですし……30歳になったところで、人は大して大人になんてなれないんですよ」
俺は、何て言ったらいい。
この人が狡猾で打算的で、この人の言葉を否定も肯定もできない俺がそうじゃないなんて、どうして言える。
俺の言葉は、この紙の花一枚ほどの重みも持ち得ないのに。それなのにどうして俺は、自分から電話をかけて、仕事場にまで乗り込んできてしまったのだろう。
「ヒナ先生、俺は……」
「……ま、こんな話はいいんです。予想外でしたけど、来てくれて嬉しかったです、ほんとに。ふふ、どうですか? 僕の城は」
「あー……俺はこういう所にほとんど入ったことがないので、新鮮ですね……てか、ずっと思ってましたけど、ピアノの先生なんてお仕事、マジ素敵ですわ。そもそもピアノが弾けるってだけで尊敬っす。こんな仕事してるから想像つくと思いますけど、福祉とか教育とか、そっち系だったんすよ、大学。ピアノは授業でやらされたけど、いやーほんと、全く身に付かなかったなあ、って」
ヒナ先生は「そうですか」と言って笑った。笑われたけど、ちっとも嫌な感じじゃなかった。しかし次の一瞬、フラットで慈しみに満ちた微笑みに、僅かな翳りが差したのを俺は見て取った。
(あ)
今日は、この人は俺の初めて見る表情をたくさんしている気がする。
「ホッシー先生こそ、僕を買い被ってるんじゃないですか? ……『ピアノの先生』なんて仕事、自分はピアノの先生ですって名乗って、ピアノ教室の看板を掲げて、って究極言えばそれで誰でもできるんですよ」
「先生、なんでそんなこと……」
「ここね、この下、僕の実家なんですよ」
「え……?」
「勿論僕だって、ちゃんと音大を出てますけど。でも音大の時の同期って、在学中からプロ同然に活躍してる奴とか、海外の有名音楽院に留学した奴とか、そんなのがゴロゴロいるんですよ。僕みたいに講師の道に進んだ奴だって、大抵大手の音楽教室に採用されてった。行く所がなかった僕に、両親が実家の2階を使わせてやるって言ってくれたので……僕はすごすごと地元に戻ってきて、今に至るわけです。宣伝から何から全部自分でやらなきゃいけない個人教室で僕が食えてるのは、学童保育の目の前っていう立地に助けられてるだけです。僕は……間違いなく僕は、何者にもなれなかった側の人間なんです」
照明の明るい光が、グランドピアノの黒いボディに反射している。ヒナ先生の横顔も、俺の俯き顔も、白と黒の狭間に浮かび上がる。
「ヒナ先生。俺にピアノを教えてください」
「え……?」
「誕生日プレゼント。正式な方の。誕生日からだいぶ経ってしまうかもしれないけど。1曲や2曲、ヒナ先生に捧げさせてください」
俺を見上げる先生の瞳は、やっぱり見たことない色を湛えていて。それが少し、揺れた気がした。
「じゃあレッスン付けてあげますけど、お代はいいですからね」
「えっいや、そんな……」
「恋人として、アドバイスをするだけですから」
「…………お、お友達として、でおねがいします……」
「……仕方ない、分かりました。でも、これだけ許してください」
「へ?」
俺が何か言う隙も与えず、ヒナ先生は腕を引いて俺を屈ませたかと思うと、そのまま倒れ込むように俺の胸に頭を預けてきた。
「ヒナ先生、あのっ……」
「……すみません、」
言いながら、背中に回された腕は俺を抱き締める力を強める。シャツの袖から伸びる、華奢なだけと思っていた腕の意外なほどの力に、骨と筋肉の感触に、触れられた部分からじわじわと、疼きが広がっていく感覚に襲われる。
「この間のお話――女の子に愛想尽かされたりダマされてばかりだーって話……あれ聞いて、ホッシー先生が女に懲りたなら、僕にはチャンスなのかもとか、思っちゃったんです……ね? こうやって僕は、ずるいことばっか考えてるんです。でも僕から逃げないホッシー先生もいけないんですよ? 先生が拒絶すらしてくれないから僕、もしかして振り向いてくれるかもしれないって、する意味あるのか分からない努力をし続けてしまうんです」
ヒナ先生の話す声は、いつもと変わらない、やっぱり静かであまり波もない。でもこちらを揺さぶったり、試そうとする余裕が今だけは見えなくて、先生の、嘘も飾りもない本心からの言葉だって思えて、何故か鼻の奥がつん、とした。
(あ……まざってる、俺の音とヒナ先生の音……)
初めて互いの鼓動が聞こえる距離まで近付いて、重なり合って、混ざり合った二つのリズムに、気道を絞め上げられたように俺は――
息もできなくなる。
「ホッシー先生は、何か好きな映画とかないんですか?」
唐突にそう訊かれたのは、ヒナ先生による俺の「ピアノのレッスン」の初回。
「え……なんで?」
「映画音楽なら、楽譜はそんな難しくないアレンジでも、それらしく聞こえるので。意外と、手軽かなぁと思いまして」
「え? いきなり曲弾くんですか? もっとこう、授業でやったみたいな教則本的なものから入るのかと……」
「必ずしも、そういうものから始める必要もありませんよ。ホッシー先生は一度ピアノに触ったことがあるんですから、すぐ思い出せますよ」
「ええいや、だから、大学の時は全然身に付かなかったって……!」
「だいじょーぶ、だいじょうぶ。それにホッシー先生には、こんな可愛らしいものを作れる手先の器用さがあるんですから」
ヒナ先生がちらりと視線を送った先は、鉢植えのひまわりが鎮座する窓の方。その横の壁に、本物のひまわりと並べるようにして、折り紙でできたひまわりが貼られているのだった。
「……もう、恥ずかしいから、あんな子供だまし、教室に飾らないでくださいよ」
「えー? いいじゃないですか、僕ひまわり好きなんですよ。で? 何かありませんか? ホッシー先生の好きな映画」
俺は少しの間、んーそうだなぁ、と考えを巡らせる。
「あー……ウエストサイドストーリー、とか?」
一瞬の間の後、ヒナ先生はにやり、といった表情で深く頷いた。
「え? なんで笑うんですか」
「いやぁ……確かに、ホッシー先生好きそうだなと思って」
「どういう意味ですかそれ……ガキ相手の仕事が似合ってない自覚はありますけど、俺、そんなに不良っぽいですか」
ヒナ先生はくる、と背中を向けると、「ご自分で選んだんじゃないですか」と言いながら後ろの本棚を漁り始めた。
「……あ、やっぱりここに。ありました、ありました」
楽譜を手にして、ヒナ先生が再びこちらに向き直る。ことん、と譜面台に置かれたそれは、
「……Tonight」
曲名を呟く俺の後ろで、ヒナ先生はニコニコしたままだ。
先生に捧げると言った以上、こんなもろラブソングを選曲されるのは、ちょっと……
「……ミュージカル映画なんだから、あんだけ曲色々あるのに、なんでコレなんすか」
「でもホントに、この曲ならそんなに難しくないんですよ。ラブソングですけど、構造は簡単です。右手が動いたら次は左手、って交互に動く感じで、左右別々の複雑な動きを同時にする、みたいなことはないので」
プロの先生がそう言うのだ、きっとそうなんだろうと思うと同時に、「よし、こいつにラブソング弾かせたろ!w」みたいな魂胆もばっちり透けて見えた。俺は様々複雑な感情を載せた眼をヒナ先生に向けつつも、ただ黙って頷いたのだった――。
それから、ただ一曲「Tonight」を弾けるようになるための、レッスン通いが始まった。大抵、俺の仕事が終わり、ヒナ先生も最後の生徒を帰した夜の時間が、俺のレッスンの枠として用意された。
ピアノ教室はヒナ先生の実家だが、防音が施された2階の教室の中にいると階下にいるはずのご両親の存在もほぼ感じられず(実際ご両親は俺のことを、時々いる大人の生徒さんだ、としか認識していないようだ)、夜にどこまでも広がる闇の中の一点、唯一灯りのある場所に、俺たちはたった二人で切り離されているような、そんな錯覚に陥る。
「あ~、ホッシー先生、またそこ、出鱈目な指番号で弾いてるでしょう」
大学時代に挫折している俺は、こんな初心者向けアレンジでも進みは牛歩だった。
「エッ⁉ ああ、最後の……」
「もう、ちゃんと楽譜に振ってある通りに弾いてくださいよ。正しくは、こうです」
突然、背後から腕が回され、俺の手の上に、ヒナ先生の手が重ねられた。
「っ……!」
(だめだ、何心乱されてるんだっ、レッスンに集中しろ、星野青児……!)
そう思うのに、条件反射的に心拍は加速して、俺の手の水滴を拭った指の、背中にきつく巻きついた腕の残像が脳裏に去来する。
「分かりました、分かった……から、も、離してくださ……」
「だめです」
「――っ、」
いつか聞いた、余裕なく小さく揺れる声は幻だったのではないかと思うほど、何にも乱されない真っ直ぐな声音で、ヒナ先生は俺の耳元に囁く。
「ホッシー先生が完璧にできるようになるまで、離しません」
「は……」
「知ってました? 男性の生徒さんにはね、僕みたいな男の講師が教える方がいいんですよ。男性の奏者の利点は打鍵の強さです。それを引き出してあげられるのは、男の講師だけです」
一切の抑揚を消した口調は、冷たくすら響く。首筋に息がかかり、思わず肩がびくつく。
「ああ、だめですよ……肩上げて弾いちゃだめって、いつも言ってるじゃないですか」
「は……あ、すみません……」
……この人、他でもない俺に本音を晒してから振り切ってるというか、遠慮がなくなったというか……いや、この男には最初から遠慮する姿勢などなかったが……とにかく、
(もうワザとやってますよねソレ⁉)
やっとのこと振り返ってうらめしげな眼を向けてみるが、ヒナ先生は動じるどころか目を細めて溜め息みたいな掠れた笑いを漏らす。
「ウエストサイドストーリーは名作ですけど、」
「へ……?」
「あんまり、子供に見せたい映画じゃないですよね? そうでしょう、『せんせい』」
せんせい、の四文字をやけに強調して発音したヒナ先生は、腕だけでなく身体ごと、さっきまでより俺に寄せてくる。
「折角なんだから楽しみましょうよ、大人の時間を」
「……本当の大人は、そんな恥ずかしい台詞吐かないでしょうよ」
結構性格悪いことを言ったはずなのに、この人の前ではそれも空しい反撃らしい。
「Tonight」が完成するのと、俺の身が持たなくなるの、果たしてどちらが先だろうか……




