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 俺とあの窓をめぐる物語が少し進展するのは、その僅か数時間後だった。

「行ってきまーす」

独特の無駄に明瞭な声が響く。視線をやると、サホが朝俺の前に振り落としたリュックではなく、薄いトートバッグみたいなものを肩にかけて教室の出入口に立っていた。

「は? ちょ、どこ行くんだよ。抜け出す気か?」

狼狽える俺に、サホは心底面倒くさそうに引き返してくる。

「はー。これだから新入りは。サホが今から行くのは、あそこ」

俺の傍らに立ったサホは窓を指さす。

 あ。さっきの、ひまわりの窓――

「サホだけじゃないよ。ヒナ先生に習ってる子たちはみんな、ピアノのレッスンのために、学童の外に出ることを許可されてるの」

「あのひまわりの窓、ピアノ教室だったのか」

「ひまわりの窓って……勝手に名付けないでよ……ってちょっと! ホッシーに引き留められたせいで、もう時間ギリギリじゃん! 遅れちゃったらホッシーのせいですーってヒナ先生に言っちゃうからね!」

サホは声が通る分、ぎゃあぎゃあ騒がれると頭に響く。

「あー……いってらっしゃい……」

騒がしい足音はもう階段をばたばたと駆け下りていて、俺が力なく振った手を、あいつは見ちゃいなかった。

 ……と、いうことにも気付かずに、しばらく空気に向かって手を振っていたんだ。俺は相当上の空だったんだろう。

 ヒナ先生っていうのか、白ワンピのお嬢さんは。

 そうか俺が聴いたのはオルゴールじゃなくて、ピアノの音だったか、と妙に納得した。8:2くらいで単なる俺の幻聴だった可能性の方が高いのに。

 ピアノの先生かあ。似合うだろうな。

 ……何だこの感想は。「ヒナ先生」なる人の、顔も俺は知らないじゃないか。

 それでも滑稽極まりないことに、「白ワンピの清楚系美女」というヒナ先生の幻想が、俺の中で完全に出来上がっていたのだ。



 殺伐とした毎日の中で、窓辺のひまわりは確実に俺の心の支えだった。そこにはまだ見ぬヒナ先生への憧れが紐づけられており、そのために俺がそわそわとどこか浮かれていたのは否めない。

 それというのも、あの場所がピアノ教室だと発覚したあの日。サホは3~40分ののちに学童保育に戻って来た。

「ただいまー……ああ、いたいたホッシー」

「? 何だよ」

「うふ。サホちゃんとねえ、ヒナ先生にホッシーの話してきたよ」

「え!? 勝手なことを……」

「いい~じゃ~ん。あのね、今日から()()()()いい先生が入ったんだーって言ったら、ヒナ先生会ってみたいって言ってたよ」

「! まじ」

「まじまじ。よかったじゃん」

背を向けかけるサホを、慌てて引き留める。

「お、いおいちょっと待て」

「もー何」

「その……どんな人なんだ、ヒナ先生っていうのは」

「何? ヒナ先生のことナンパする気? ホッシーのくせに生意気」

「ちっ、げーよバカ」

否定してみるものの、思いの外の好感触に、正直心臓が小躍りし出していた。そうか、ヒナ先生も俺のことそんなふうに……

 いやお互い顔も知らねえんだけどさ。

「うーん……ヒナ先生はねえ、すっごく優しいしぃ、それにとっても美人だよ」

ホレ……ホレ見たことか! やっぱりどうやら、ヒナ先生は俺の想像通りの人らしいじゃないか!

 いやいや、静まれ、静まれ俺の心臓ッ……!

「……何這いつくばって胸押さえてんの。ウザい。キモい」

神様、俺は再び、女児に蔑みの眼で見下ろされています。でもそんなことは、もうどうでもいいのです。今はただ、あの人に――

 夏の長い陽がようやく傾き、窓辺の花弁は夕焼けに溶けるようなオレンジを映していた。



「なあサホ。今日も、ピアノのレッスン行くんだよな」

窓枠に頬杖をつきつつ、ぼそりと呟く。

「サホちゃんアレ、ホッシーどうしたの?」

「魂抜けてない?」

額を寄せ合うようにヒソヒソ話し合われる声は、ただ耳の横を通り抜けていく。

「ホッシーはねえ、最近ずっと、心ココニアラズで物思いに耽ってるのよ」

おやつに出した菓子の袋をひらひらと振りながらサホが言うと、女の子たちは皆「そう……」と憐れみの眼を俺に向けてきた。

 アレ今もしかして、触れてはいけない認定されたのか?

 それでもいい。ガキどもからどんなに雑な扱いを受けようと、誰もが俺を残念な奴と認めようと、俺にはあの花がある。鮮やかな黄色が陽を跳ね返す姿を見れば、何もかもが吹き飛ぶ。まさに、俺のビタミンなのだ。

 レースカーテンの繊細な模様の向こうに目を凝らしてみるけど、ヒナ先生の後ろ頭だって俺は見たことがない。

 そうだとしても、もし、こんなヘタレな俺にもチャンスがあるのなら――

「サホ。窓のひまわり、いつも見ています、って、ヒナ先生に伝えてくれ」

「げ。それが口説き文句? ダサ。さむ!」

サホが本気で引いているのは、歪められた表情で分かる。サホは空の袋を俺に押し付けると、大股で歩き去ってしまった。ああ、そうだそうだと足元に転がっていたごみ入れのポリ袋を拾って広げると、男子児童が3人一緒に駆け寄ってきて、ごみを捨てるついでに俺の腹にパンチを食らわして逃げて行った。


「ねえ。ちゃんと伝言、伝えてきたけど」

ピアノ教室から戻ったサホの言葉を、数秒間理解できなかった。おやつの時間のあの様子から、まさか本当に俺の言ったことをそっくりヒナ先生に伝えてくれたとは思わないではないか。

「……お前、案外いい奴だな」

つい素の感想が口をついた。サホはなぜか顔を真っ赤にしている。

「はァ? そんなんじゃないし! ホッシーは自分の力だけじゃ口説く度胸もないだろうなって思ったから、サホが手伝ってあげてるだけよ! 言ったでしょ、サホは、しょうがないからホッシーの面倒見てあげてるの」

こういうところは、やっぱり子供らしさだよなあ。んふふ、と笑いを漏らすと、サホは「キモい笑い方しないで!」と更に怒った。

「もういい……ヒナ先生、ありがとうございますって言ってたよ」

尖らせた唇から報告された結果に、俺の意識はひととき、鷹良台放課後児童クラブのボロ園舎から遊離した。

 見える。俺には見えるぞ。レースカーテン越しに射す光の中、ひまわりの花たちを背にはにかみながら「ありがとうございます」と微笑むヒナ先生が。柔らかな陽は、白ワンピの輪郭を眩しく滲ませる――

「ホッシー。ちょっとホッシー……もう、また心ここにないんだけど。引くわぁ」

視界の端で辛うじて、サホがむくれているのが見える。

 構うものか。俺はもう引き返さないぞ。



「サホ。今日はお前に、重大な任務を授ける」

その日、レッスンに向かう前のサホをつかまえ、俺は背筋を伸ばして彼女に対した。

「何、そんなコワい顔して」

一歩引き気味のサホの手元に、頭を下げんばかりの低姿勢でスッ、と一枚の紙切れを差し出した。

「俺の連絡先です。これをヒナ先生に渡してください。お願いします」

一拍置いて、サホはメモ用紙に手を伸ばした。

「あー……まじでこんなことまでする感じだったんだ」

「へ?」

「ん。分かった。渡しておく」

……何か妙な引っかかりがあったような気がしないでもないが、とにかくこいつにメモを託すところまでは漕ぎ着けた。

「おい! マジで頼むからな!」

階段を降り始める背中に、念押しの声を投げ込んだ。



 夏の盛りとはいえ、子供たちを全員帰して俺たち職員も帰路につく頃には、割と辺りは暗くなっている。

 騒がしさの極みのような場所から、しん、と張りつめた闇の中に出る瞬間は、なんか逆説的にというか、疲労を一気に感じる時でもある。

 ミキ先生や福ピー先生の「おつかれ~」という声に頭を下げつつ、背を丸めるようにして歩き出す。通り過ぎざまにちらりと見上げる――視線の先は勿論、ヒナ先生の教室。

(灯り、まだついてる)

照明がカーテンの上に、ひまわりの形の影を作っている。

 あの人はどんな毎日を、送っているんだろう。俺と似たようで、たぶん少しだけ違う生活時間の中に佇むあの部屋を、金色の花弁たちは見守っているんだ――

 その時、ポケットの中のスマホがブルブルと震えて、俺本体も負けないくらいに跳ね上がった。

「うお」

動悸を鎮めつつメッセージの通知をタップする。画面の光は、夜の帳に馴染まず浮いている。

(――! これって――)

差出人の名前は、「永原日向」。

 ながはら ひな さんというのか、恐らく。「ヒナ先生」の本当の名前は。

『お世話になります。永原ピアノ教室の、永原と申します。……』

 まさか、まさかこんな秒速で連絡が来るなんて思わなかった。

 背中を丸めたまま、なぜかそろそろと歩きながら画面をスクロールした。サホから俺の連絡先を受け取ったこと、わざわざすみませんみたいなことが書かれていて――

『……今お仕事終わりですか? ご苦労様です』

文末に目を細めたニッコリマークが鎮座する一文に、俺はもう一度跳び上がる。

(う、そ、俺のこと見て――!?)

立ち止まって、弾かれるようにまた窓を振り返るけど、灯りの中に動く影を、みとめることすらできなかった。

(とにかく早く帰って、返信しよう)

再びスマホをポケットに滑り込ませて、歩き出した、無意識だったと思うが、今度はひどく、背筋を伸ばして。


『鷹良台放課後児童クラブの指導員の、星野青児です。突然、連絡先渡したりしてすみません。……』

そこで文字を打つ親指は、動きを止める。

「うあ~~~」

学童保育の子供を通してまで、顔も知らない相手に連絡先を渡した理由を説明するそれらしい言葉が、どうしたって浮かんでこなかった。

「ええいままよ、誘ってしまえ!」

『もしよかったらなんですけど、今度食事でも行きませんか』

なんて、何の捻りもない一文なんだ。こんな直球に人を誘ったの、30000年振りくらいだ。

 そもそも人を誘うなんて能動的な行動に出る機会そのものすら乏しく、また誘い方にセンスの欠片もない、自分の人間関係構築能力の低さが、今更ながら心底嫌になる。

(なんかもう、画面を見ていることすら耐えられない……)

変な汗をかいていた。「とりあえず風呂入ろ」と呟いた独り言が僅かに響いてから壁に吸い込まれる。こんな時、この家の空洞の多さ、空疎さが痛いほど突き刺さってくる。誰もいないし、モノもあまりない。Tシャツを脱ぎながら振り返った部屋に、「ああ、どこからどう見ても、疲れた大人の部屋だなぁ」と溜め息が零れた。

 ベッドの上に投げ出したスマホが再びブルブルしたのはちょうどその瞬間だった。

「わーーっ!!」

ベッドにヘッスラして掴んだスマホは逃げるように俺の手を滑り落ち、裸の胸板をゴン、と直撃した。無機的なポリカーボネートの背面が、寧ろ火照った身体にちょうど良いくらいだった。

「う……」

中途半端な恰好のまま、どうにか顔の上に持ち上げた画面に浮かぶ文字は――

『いいですよ。週末でいいですか?』

「!?※*〇●△!?」

え? 行くのか⁉ マジで⁉

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