第1章 芽花
公園のベンチに腰を下ろし、頭上に広がる桜を見上げる。世界が初めて桜色に染まったように感じられた。淡いピンクの花びらが風に揺れ、ゆっくりと舞い落ちる。その向こうの河川敷では、雪解け水が小さなせせらぎを作り、冷たい音を立てながら流れていた。水の冷たさが肌をかすめ、風が頬を撫でるたび、 胸の奥がわずかにざわつく。春の匂いが鼻をくすぐり、心を少しずつ動かしていく。
古びたベンチの上には、薔薇が4本置かれていた。桜色の花びらがせせらぎに流れ、薔薇の鮮やかな赤と一瞬だけ溶け合う。その光景に、時間がゆっくりと止まったような感覚を覚える。光が揺れ、影が揺れ、空気さえも静かに揺れている。
あの日、彼女に出会うまでは、僕自身が無色に染まっていた。何も感じられず、ただ時間だけが過ぎていった。目の前の景色は灰色に閉ざされ、風の音も、水のせせらぎも、光の揺れも、胸に届くことはなかった。
今は違う。目に映るすべてが鮮やかで、生きている感覚に満ちている。色も、匂いも、音も、すべてが胸を打つ。あの日までは、この場所を凍りついた孤独が支配していた。冷たい風が頬を刺し、光が届かず、影だけが伸びる世界だった。
その記憶は、まるで昨日のことのように蘇る。
山から流れる冷たい風が、僕の頬を突き刺すように吹き続ける。新しくできたばかりと思われるベンチと、まだ一度も開花したことのない桜があるこの公園には、誰ひとり見向きもしない。ここは、ぼくだけの場所だ。
事故で両親を失い、経済的な理由で東京から長野にやってきた僕には、この孤独な景色が妙に馴染む。冷たい風に混ざって、雪解け水が河川敷を静かに流れる音が耳に届く。春の訪れを告げる音なのに、胸の内はまだ冬のまま、凍りついているようだった。
それでも、どこかで――ほんの小さな期待が芽生えていた。色づき始めた桜のように、そっと、心を震わせながら。
雪解けも進み、山の緑が濃くなり、木々の芽が鮮やかな黄緑色に輝き始めた頃、僕は勇気を振り絞って初めての高校に足を踏み入れた。初めての自己紹介。クラスの人たちの明るい制服や笑顔が目に入り、胸の奥がわずかに浮き立つ。ここでなら、自分も仲間に入れるかもしれない――そんな期待が、かすかに胸に灯った。
しかし、その光はほんの一瞬で消えた。気づけば、僕はクラスの隅に追いやられていた。壁際に置かれた色あせた茶色の机と椅子が、僕の居場所になっていく。教室の中央では、鮮やかな青や赤のカバンが机の間に並び、笑い声が絶えず響いている。その声は決して僕に向けられたものではないはずなのに、耳に届くたび、胸の奥がざわつき、心はざらつく。
視線も同じだった。誰かが振り返り、目が合った瞬間、すぐに顔を逸らす。単なる偶然かもしれない。それでも、僕の胸は勝手に「やっぱり避けられている」と確信してしまう。
後ろで小さな笑い声が弾けると、それが本当は別の話題によるものだと分かっていても、背中に突き刺さるように感じられた。
案の定、この空間は僕の居場所ではなかった。胸の奥に芽生えた希望の光があったとしても、それは春の陽射しにあっけなく溶ける露のように儚い。窓の隙間から吹き込む冷たい風が頬をかすめるたび、孤独だけが確かなものとして際立っていく。
夕焼けを追いかけるように、僕は学校から逃げ出した。河川敷はオレンジ色の光に染まり、川面もゆらゆらと反射してまぶしかった。
いつもの公園に着くと、人影はなく、ベンチもぽつんと寂しげに佇んでいる。木製のベンチには使われた形跡もなく、鳥の糞がべったりとついていた。
その哀れな姿に、僕の胸はわずかに痛んだ。しかし、ベンチには座らず、公園の端に横たわる地面で、1人の時間を楽しむことにした。
目を閉じ、空の橙色と冷たい風を感じながら、心の中で静かな安心を取り戻す。やがてあたりは薄紫色の影に包まれ、帰る時間が近づいてきた。
立ち上がり、公園を出て河川敷に向かおうとしたその瞬間、1人の女子高生が暗闇の中に現れた。周囲の暗さが僕を孤立させるように世界を覆う中、柔らかな照明と月の光が彼女を照らす。ベンチに座る彼女の姿が、静かに、しかしはっきりと目に映った。
家に帰っても、電気はついておらず、迎えてくれる人など誰もいなかった。当たり前のことだ。両親が事故で亡くなったのは、僕が生まれたばかりの頃だった。生まれたばかりの僕は、親戚にたらい回しにされ、いつも煙たがられた。東京にいた頃は祖父が面倒を見てくれたが、去年、借金を残したまま亡くなった。
今は、亡き父の弟の家で暮らしている。朝から晩まで働き、家ではほとんど顔を合わせることもない。
キッチンの薄白い蛍光灯の光の下、いつも通りカップヌードルを作る。
湯を注ぎ、黙々と食べる。熱い湯気が鼻をくすぐり、麺の香りが少しだけ心を温める――それも束の間の慰めだ。毎日同じことの繰り返し。生活はパターン化し、静かに流れる時間の中で、孤独がじわじわと心を占めていく。
月の光が、布団に横たわる僕の姿を淡く照らしていた。
窓から差し込む銀色の光は、冷たいはずなのに、不思議と心を落ち着かせる。
今日は、月が綺麗だ。
見上げながら、自然と今日の公園のことを思い出す。あの女子高生は、どこの高校に通っているのだろう。顔を正面から見てみたい。声を聞いて、話をしてみたい――そんな考えが頭の中でぐるぐると巡る。これまで、誰かにこんなふうに心を揺さぶられたことはなかった。なのに今は、胸の奥がやけに熱い。
温かな布団に身を沈める。
窓から差し込む月の光が、ぼんやりと揺れる。
まるで夢の入口を照らしているかのようだ。
その光に導かれるように、静かに目を閉じる。
そして、眠りへと落ちていった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
彼の灰色の世界に、少しずつ色が差し込み始めます。
次回は「彼女」との距離が、ほんの少し近づく物語です。
更新は不定期ですが、できる限り一、二週間に一度のペースで投稿していきます。
これからも見守っていただけたら嬉しいです。