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大気の滝、あるいは女神の涙

作者: 酒囊肴袋

「短編の小箱 ~ 一話完結の短編小説です ~」に投稿している小説と同じものです。

単話に対して指定キーワードの指定ができなかったため、別途短編として登録させていただきました。

水産高校を卒業したばかりの僕は、個人経営の小さな漁船“第三明洋丸”に乗り込んだ。船長と息子の二人で回している船で、僕はそこで唯一の“外様”になった。

船長は信心深さのかけらもない酒好きの男で、豪快な笑い声を響かせる。「神様なんてのは、魚が獲れねぇ時の言い訳だ」が口癖だった。一方、息子のたかし先輩は寡黙で、作業中に必要最低限の指示だけをくれる。だが、その動きは的確で、父親譲りの経験と勘が滲み出ていた。


親子らしく言葉は少ないが、視線や手の合図で意志が通じるらしい。僕が仕事の手順につまずくと、隆先輩が黙って横に立ち、手本を見せる。一度だけ「海は待ってくれねぇから」と呟いたのを聞いた。その背中を必死に真似しながら、海の仕事を覚えていった。


港を出て三日目、漁の途中で寄った小さな港町の居酒屋で、僕たちは一つの“噂”を知った。

「おい、あそこの海域、今は禁漁らしいがな。昔から魚が湧くほど獲れるってよ」

「禁漁って、規制ですか?」と僕が聞くと、地元漁師は首を振った。

「ちげぇ。女神様の言い伝えだ。今の時期に獲ったら、水の女神様が目を覚まして祟る。昔から、それで何人も帰らなかった」


その声が響くと、店内の他の客がちらりとこちらを見た。数人は会話をやめ、グラスを持つ手が止まる。

煙草の煙と潮の香りが混ざった空気が、急に重く感じられた。

先ほどまで響いていた笑い声やグラスの触れ合う音が遠のき、店内の雑沓が静まりかえっていく。

地元の漁師は眉をひそめ、「冗談でも行かねぇほうがいい。今は、人が踏み込んでいい場所じゃない」と静かに言った。


隆先輩が珍しく口を開いた。

「その女神ってのは、どんな祟りを?」

「水に溺れる。たとえ陸の上でもな」

老漁師の目が、一瞬、何かを思い出すように遠くを見た。


翌朝。

出港前、甲板で積み込みをしていると、船内の小さなテレビから天気予報が聞こえた。

『本日午後、大気の川が接近し、沿岸部では局地的な豪雨のおそれがあります……』


船長は鼻で笑い、安酒の入った水筒をひと口あおった。

「最近は雨雲のことを“大気の川”なんて呼んでるらしいがな。俺たちの仕事場は“海の大草原”、大海原よ」

隆先輩は何も言わず、ロープを締めた。その手が、一瞬止まったのを僕は見た。彼は空を見上げ、何かを確かめるように雲の流れを追っていた。


その日、船長は迷わず例の海域に舵を切った。

「女神様なんて迷信だろ。魚がいるなら捕るのが漁師ってもんだ」


海域に入ると、鳥が一羽もいなかった。

普段なら船の周りを飛び交うカモメの姿が、どこにもない。

海面は油を流したように滑らかで、不自然なほど静かだった。


網を下ろすと、海は驚くほどに豊かで、魚がどっと入った。

隆先輩は黙々と魚を締めながら、時折、空を見上げる。船長は「ほら見ろ!」と笑って煙草をふかす。僕は網の引き上げに必死で、神も女神もすっかり頭の外に追いやっていた。


獲りすぎだとすら思った。

「船長、もう魚倉がいっぱいです」


けれど、船長は網を止めようとしなかった。

「まだ入る、詰め込め!こんなチャンスは二度とねぇ」

船長の目が、獲物に取り憑かれた獣のようにギラついていた。禁を破る快感に酔っているようにも見えた。


その夜、満杯の魚倉を載せて、母港へ向けて出航した。

海面に、魚の鱗がキラキラと散らばっていた。まるで供物を捧げた跡のように。


そして、あれに、遭った。


満月が煌々と海を照らしていた。星も瞬き、穏やかな夜だった。

だが深夜を過ぎた頃、月明かりが急速に翳り始めた。星が一つ、また一つと黒い何かに呑み込まれていく。最初は普通の雨雲に見えた。だが、雲の動きが違う。渦を巻きながら、まるで生き物のように蠢いている。

月は完全に覆い隠され、世界から光が消えた。

やがて視界のすべてが“滝”になった。

まるで空の上を流れていた見えない“大気の川”が、堰を切ったように海へ落ちてきたかのようだった。


水の塊が頭上から叩きつけられる。全身を鈍器で殴打されるような衝撃が絶え間なく続き、衣服は一瞬で意味を失った。骨まで響く冷たさと重さで、立っているのがやっとだった。轟音は滝の底に沈んだように低く唸り、耳を塞いでも消えない。息を吸えば水の匂いと味が喉奥にまとわりつき、肺が満たされていく感覚に襲われた。


「ポンプだ!」

船長の声は雨音にかき消され、二度、三度と繰り返されてようやく聞き取れた。


必死に排水ポンプのスイッチを入れる。しかし雨は船内にも容赦なく侵入してくる。

咳き込みながら状況を隆先輩に報告すると、彼は濡れた髪を振り払い、「舵は持つ、任せろ」と短く言った。

その横顔が、一瞬、何かに怯えているように見えた。


船長の目は赤く、声はガラガラだった。

「この雨、普通じゃねえ…! 気圧もおかしい、GPSも狂ってる!」

そして小さく、聞き取れないほどの声で「すまねぇ」と呟いた。誰に向けてなのか、わからなかった。


船は沈みかけていた。

何度も水をかき出し、ポンプが唸る音と雨にむせかえる咳き込みの合唱。

一晩中、僕たちは大気の滝と格闘した。


雨の中で、時折、女の泣き声のような音が聞こえた。

風の音だと自分に言い聞かせたが、それは確かに、恨みと悲しみに満ちた声だった。


そして、明け方。

嘘のように、雨は止んだ。


空は晴れ渡り、海面は穏やかだった。

普段と変わらぬ朝日が、船の濡れたデッキを照らしていた。

だが、獲った魚は全て干からびていた。一晩で、何年も経ったかのように。


「……助かったんだ」


僕は膝をつき、海を見た。

船長と隆先輩も、ぐったりと腰を下ろし、顔を見合わせて小さく笑った。親子のその表情に、僕も安堵の息を漏らした。


けれど。


最初に咳き込み始めたのは船長だった。

ゴホ、ゴホッ……と乾いた音が、やがて湿った咳に変わる。

「親父!」隆先輩が船長に駆け寄る。しかし、隆先輩も咳き込みはじめる。

そして突然、二人とも大量の水を吐き出した。海水ではない。透明な、雨水だった。

胸を押さえて苦しむ二人の口から、水が止めどなく溢れてくる。


僕が二人に近寄ると、船長は隆先輩の肩を掴み、「母ちゃんに……」と呟き途切れた。

隆先輩は僕を見て、かすれ声で「お前、生きろ……女神は、三人は取らねぇ」と言い、そして船長に手を伸ばした。

二人の手が触れた瞬間、同時に力が抜け、濡れた甲板に崩れ落ちた。

二人の瞳からは、光が消えていった。


その時、確かに見た。

朝日を浴びた海面に、一瞬だけ映った女の顔を。

それは美しくも恐ろしい、水そのものが形を成したような顔だった。

その顔は、ゆっくりと海の底へ消えていった。


一人残った僕は、震える手で救難信号を送った。

機械のモニターは、無感情に「発信中」と表示している。


数時間後、救助船がやってきた。


地上に戻った僕は、色々な説明をきかされた。


大学教授だという男は、背広の襟を正しながら淡々と言った。

「大気中に形成される強い雨雲を、私たちは“大気の川”と呼びます。大気中の凝結核の存在や、上昇気流による断熱冷却の条件が重なれば、その流れが垂直に落ち込みます。

つまり……空からの滝です」

まるで珍しい気象現象を語る講義のような口ぶりだった。


「死因は遅発性溺水です。大量の雨水を吸引したことによる肺水腫ですね」

法医学者はカルテを閉じながら、医療用語の羅列の一つとして言った。


違う。


あれは、人が知る豪雨という言葉で片付けられる雨なんかじゃなかった。

僕は大気の滝を思い出していた。

海面が急に白く泡立ち、空気が凍る。

耳の奥が圧迫され奥歯が震える、肺が潰れるような息苦しさ。

次の瞬間、視界を埋め尽くす水の壁が落ちてきた――。

そして、確かに、見たんだ。

水の幕の向こう、あの“滝”の奥から冷ややかに見つめる、まるで雨粒、いや水自体に魂が宿っているかのような女神の瞳を。


僕は今でも、水の音がすると身をすくめてしまう。

蛇口からしたたり落ちる水音さえ、心臓が止まりそうになる。

雨の日には、必ず夢を見る。

隆先輩の最期の言葉を。


「女神は、三人は取らねぇ」


だから僕は生かされた。

証人として。

警告として。


今も、大気の川が近づくたびに、僕の肺が痛む。

まるで、あの時吸い込んだ雨水が、まだ僕の中で生きているかのように。

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― 新着の感想 ―
遅発性溺水という医学用語は説得力がありますね。 空から降る滝、その向こうに女神の顔が一瞬見えるというのも絵的に凄みがありました。 見事に夏ホラーのお題『水』を作品に落とし込んでいると思います。 ちな…
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