36 春風の令和2年先鋒戦
先日は2話更新しています。本日もお昼頃にもう1話投稿予定です。よければブックマーク等してお読みいただければ嬉しいです。
人は誰かの顔色を窺って生きている。
だというのに、誰も相手の本心を知る術を持っていない。
言葉を嘘を、表情は差異を生んだ。
誤解が時に愛を生むこともあれば、それは時に憎しみの原因となることもある。
人の歴史は相互理解への挑戦と、その結果としての失敗の歴史だ。
歴史は繰り返しているのではない。
いつだって人間は挑んでいるのだ。
他人とわかり合おうと、理解し合おうと踏み出し続けているのだ。
ヨウコにとってそれは不要の、知らない感覚だった。
誰かに近づく勇気。
踏み込む勇気。
そんなものを必要としたことはなかった。
相手から向かう感情を見ることができた。
感情の些細な変化をその本人以上に感知することができた。
その力はヨウコを孤独にしたが、それと同時に人が成そうとしてきた『理解』をするという行為を可能とした。
「林道やお前みたいな奴らの気持ちはオレにはわからねぇが、剣道の立ち合いってのは相手を理解しようと努力し、その果てで相手の懐に飛び込む勇気だ」
林道は相手の感情や気持ちも関係なく押しつぶすように、自分の感情をぶつける獣の剣。
ヨウコは感情を可視化することで、理解する過程、踏み込む勇気も必要のない剣。
「あんな獣のようになる必要はない。暗闇に慣れる必要も、受け入れる必要もない」
夜の闇に包まれた道場。
なぜだろう、ヨウコは眼前にしゃがみこんでいる工藤を見上げて思った。
どうしていつもこの人は輝いて見えるんだろう。
知らずの内にその光へと手を伸ばしていた。
その手を工藤はガッシリと掴んで引き上げた。
「勇気だ。怖いからこそ挑む勇気を持て。それが人間だ」
「ニナさん」
暗闇から月光の淡い蒼の世界にヨウコは引き上げられた。
ヨウコはそのままニナに抱き着いた。
「え、おい、あ、ちょっ、春風?」
「ニナさん」
突然のことに工藤は顔を真っ赤にさせた。ヨウコは絞り出すように言葉を出した。
「……吐きそう」
先ほど胃の限界まで詰め込んだカレーが、激しい特訓によってついにヨウコの胃から決壊を迎えようとしていた。
「はっ? 馬鹿。離れろ!」
今度は一転顔を真っ青にした工藤が逃れようと体を捩った。その振動がさらにヨウコの胃を刺激した。
「もう……無理」
「馬鹿ぁああああああああああああ」
合宿初日は道場の念入りな清掃で終了し、しばしの間だが工藤はうっすらとカレーの匂いを纏っていた。
「よし、ゲロ風も練習に慣れてきたようだから次の段階に進むぞ」
「ちょっ、ニナさんいつまで根に持つんですか」
合宿最後の夜練。
結局、ヨウコは未だに誰からも有効打を奪うことはできていなかった。
「クドーさん本当に子供なんですから。それにハルさんが慣れたって言ってもまだ飛び込めてないんですよ」
「だからだよ。このままじゃ合宿も終わっちまう。こいつには強制的に一歩踏み出させることにした」
工藤が怯えているヨウコを睨みつけた。
その気魄にヨウコは逃げ出したくなった。
「よし、春風ステップ4だ」
「2、3は?」
「んなもんやってる時間はない。おら、逃げんな」
逃げられないようになのか、突き垂れを掴まれた。
そうして工藤はヨウコの面金をガムテープでぐるぐる巻きにした。
「えっ? ニナさんこれだと本当に何も見えないんですけど」
「見えないためにやってんだから当たり前だ」
「まさかこの状態で今日はやるんですか?」
「は? んなわけねぇだろ。これからずっとこれがお前のデフォルトだ」
「えっ⁉」
「もう時間はねぇ。お前には勇気の一歩を踏み出してもらうぜ」
春風ヨウコ、高校2年の夏。
林道と再戦する1年前のことであった。
読んでいただきありがとうございました。評価、ブックマークしていただけると嬉しいです。




