表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

霧中の紫苑

作者: 6839(仮名)


私はいつか旅行で訪れた温泉街の道の真ん中に居た。閑散期なのか、観光地の割には客の数は少なく、従業員も暇をしているのか、店先でタバコを吸ったり、別の店の従業員と話に花を咲かせたりしている。それとは別に湯気が漂う道に一輪、輝きを放つ華が咲いていた。その華は葉や花びらについた寒露を払うように髪を揺らしながらパッと私の方を振り返った。そして、口を動かす。多分私の名を読んでいるのだろう。それに応じようと手を挙げ微笑んだ。私の一挙手一投足をじっくり確認した上で、華は再度私の名を呼ぼうと口を開いた。


「成田君?」

その声に反応するように温泉街と華は塵となり、一瞬の靄がかった世界を経て、私は目が覚めた。少なくとも自宅のものではない天井が視界に入った。

「成田君、大丈夫?」

シーツが擦れる音と共に、視界の右半分が美しい女性の顔で覆われた。カラーコンタクトの不自然な明るさの茶色を纏った彼女の瞳には、憂慮の念が見え隠れしており、口を真一文字にして私の反応を待っている。

「あぁ、ちょっと夢を見ていた」

私の言葉を聞いて安堵が混じったため息を吐き、腕を伸ばし私の左腰辺りに手をあて、微笑みながらこちらに身体を寄せた。

「何の夢を見ていたの?」

「…忘れてしまった。すまない。」

「そっか。まぁ、いいや。」

下手な嘘をついてやり過ごそうとしたが、どうやら見抜かれたらしい。別に知られて困る内容ではないが、何故か無意識に知られたくないと思ってしまった。多分、隣で寝ていたのが誰であっても、同じことをしただろう。彼女とは反対側に置かれたベッドサイドテーブルの上に置かれたデジタル時計は5を一つと0を二つ、そしてAMという文字を緑色に仄めかせ、卓上で小さな極光を描いている。

「ね、まだ五時だね。」

小さく頷きながら「そうだな」と返した。

「どうしよっか。まだ寝る?」

彼女が更に身体をこちらに寄せ、脚を絡めてきた。

「ちょっとトイレに行ってくる。」

私は静かにベッドから降り、散乱する衣類たちを踏まぬよう、足元に注意しながら浴室に向かった。本当はトイレに行く用事など微塵もない。彼女が何を言いたいのか、どういう気持ちを伝えようとしていたのか、何とはなしに分かっている。彼女は話しやすくて退屈もしない、身体の相性も良く、美人だ。今日は休日で、このままホテルの一室で朝寝坊をするのも悪くない。しかし、先程見た夢が、これまで何度も見てきた夢がそれを拒んだ。浴室の鏡に映る見慣れた顔はパーツの位置がやっと分かるくらいで、詳細はぼやけて良く見えない。瞬間、私は首元に赤い跡が付いていることに気が付いた。

「またか…。」

ため息をつきながら寝室に戻り、女性の名を呼ぶ。女性は布団の下に隠していた顔を覗かせ、こちらを期待半分、不安半分といった顔で見ている。

「首に跡、ついているんだが、」

「あれ、ついてた?私、つけた覚えないけどなぁ」

見えなくても少し気まずそうな声色でその表情が想像できる。

「何度言わせたら分かってくれるんだ。ここに跡があると職場に行きづらいんだと言っているだろ。」

私は変わらぬ口調で続けた。

「まあほら、昨日お互い無我夢中…って感じだったじゃん。しかたない、でしょ?」

「その台詞、毎度聞いている気がするがな。」

私の返答を聞き、彼女は照れと申し訳なさが入り混じった笑みを浮かべた、ような気がした。


日は高く昇り、ビルに囲まれた帰路を明るく照らした。通り過ぎた公園に設置された時計台の短針は「Ⅻ」の少し右下を差しており、土曜日なのもあってか、その下では多くの子どもたちが賑やかな声をあげて走り回っている。そんな様子を横目に、数名の婦人が井戸端会議を、近所に住んでいるのであろう老人はハトに食パンをちぎっては与えていた。ホテルを後にしたのは二時間ほど前のことで、結局女性の巧みな言葉遣いに乗せられ、気が付けばカーテンが光を抑えきれないほど外が明るくなっていた。女性とはその後、朝食を共にしたのち別れた。彼女は少し別れるのが惜しそうな顔をしながら「また連絡するから」と言って足早に消えていった。それから十分もしない間に「次、この日なら会えるけど」という文章とともに加工されたスケジュールのスクリーンショットが送られてきた。

彼女との関係はどうにも形容しがたい。恋人ではないが、ただの友人というには身体を重ね過ぎている。かといって、性行為が目当てで会っているわけではない。居酒屋やバーなどで一緒に食事をしながら互いの仕事の愚痴をこぼし合う時も少なくない。健全とは言えないが、利害の一致だけで成り立っているわけでは無いことは確かだ。

「次は一週間後、か。」

何より、私は彼女と何かすることに少々の喜びや癒しを得ている。

気付けば自宅の前に立っていた。慣れた手つきで鍵を開け、中に入った。上着をハンガーにかけ、クローゼットに戻す。そのままの足でベランダに出、冷たい夜露に少し濡れた洗濯物を取り込み、室内に干し直した。壁に掛けられた時計は一時を示しており、自分が立てる音、秒針が時を刻む音、閉じた窓を貫通するような電車が線路上を走り去る音以外、何も聞こえなかった。デスクトップパソコンの前に座り、真っ暗な画面に写る自分の顔を眺めた。ホテルの洗面台で見た時よりも鮮明に、でも少し暗く写る顔から、今朝と同じように下の方へと視線を移す。首元の赤い跡は明らかに薄くなっており、寂しさと嬉しさ、それを上書きするように罪悪感を覚えた。その感情は一瞬、自分の体内に収まりきらないくらいに膨張し、すぐに静かにしぼんで胸の隙間でうごめき始めた。机に置かれた空のコップに水を注ぎ、それを押し流すかのように急いで飲み干す。水が食道を流れ、胃酸と混ざり合ったのを実感した後、胸のざわめきは少しずつ引いていった。それと引き換えに、今朝見た夢が脳を過ぎる。温泉街の真ん中で華奢な足で地面に根を張るように立ち、葉や花弁を風に揺らすように髪をかき上げる。その何気ない行動一つひとつが華のように美しかった。何度も見た夢のはずなのに、立ち話している従業員の表情や掲げられた看板に記された店名、華の奥に何があったのか等何一つ覚えていない。ただ、華だけは、彼女の様子だけは鮮明に覚えている。幾度となく私の約二十メートル先に立ち、湯気に見え隠れする青紫のワンピースを着た彼女の繰り返される動き一つひとつが脳裏に焼き付いている。それなのに私は、

「華の名前を思い出せない。」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ