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5番 歯石マニア(その一)

 診察室に入ると、そこには神楽坂さんの優しい笑顔が待っていた。


「東さん、お待ちしてましたよー。ご事情で遅れたそうですけど、大丈夫でしたか?」

「はい、大丈夫です。遅れてすみませんでした」

「いえいえ、こちらは大丈夫ですよ」

 あらためて神楽坂さんがにっこり微笑んでくれる。

 今日の神楽坂さんは、まだマスクをしていない。


 マスクのないおっとりした童顔から俺に向けられる優しい表情が、俺の心をまたしてもズギューンと撃ち抜く。


 白衣とエプロンの下に隠しきれずに息づいている胸の豊かなボリューム感は、もちろん今日も健在。


 健在どころか、白衣とエプロンの下であまりにも窮屈そう。ぱつんぱつんで気の毒なほどだ。

 童顔と身体のギャップがありすぎだ。


 ああ、いっそ束縛のボタンをすべて引きちぎって、あの豊かな双丘を窮屈な状態から解放してあげたい……と不埒な想念に囚われるのは、俺が健康な男子高校生だという証拠だ、と思いたい。


 もちろん実際にはそんなことやんないよ、やんないけどさ……。


 そうして神楽坂さんは、今日も歯科用ユニットへと俺をいざなう。


 このイスに乗り込むのは、まだ少し緊張するな。昔の歯科治療の恐怖がまだ抜けてない。


 座るポジションが決まると、神楽坂さんは俺に口をゆすぐように指示する。


 俺が口をゆすぎ終わる間に神楽坂さんはマスクをつけ、それから「では、背もたれを倒しますよー」と言いながらリクライニングさせる。


 俺の身体がほぼ水平になると、神楽坂さんは上から顔を覗き込むように俺に話しかけてきた。


「では今日から、本格的に歯石のクリーニングに入っていきますね。一度に全部はきれいにできないので、何回かに分けて施術していきます。まず今日は右上の歯からにしましょうか」


 そう言うと神楽坂さんは、前と同じようにピンク色のタオルをたて長に四つ折りにして、俺の両目を覆った。

 視界がピンク色に染まる。


「ではお口を大きく開けてください」

 はい、あーん。


「あらためて口腔全体の様子を見ます。歯や歯茎が痛いところはありませんか?」

「あい、おくにありあへん」

 金属製の細い棒のようなもので、歯や歯茎あたりに触れながら観察している様子が伺える。


「東さん、ハミガキするときに歯と歯茎の境目にブラシの先端を当てて、優しく丁寧に、境目に沿ってブラッシングしてほしいです。ゴシゴシ強く磨く必要はありませんから」


 俺の口の中を見て、どうやら神楽坂さんは俺にハミガキ指導が必要だと感じたらしい。

 小学生か俺は。情けない……。


「あとは歯と歯の隙間を掃除してほしいですね。歯間ブラシとかデンタルフロスとか、聞いたことあります?」

「あい、ひいかここはあいあふ」

「ドラッグストアとかで買っていただいて、ハミガキの前に使ってから、それから普通にハミガキしてみてください。それだけでも歯石のつき具合が全然違うので」

「あかりあした」

「幸いにも今のところは、歯茎の出血や歯のぐらつきなどは無さそうです。ただ軽い歯肉炎があります。この辺が少し痛いでしょう?」

「あい」


 神楽坂さんは歯肉炎がある、と言ったところに薬を塗りつけた。

 痛みが少し軽くなったような気がする。


「さて、それでは今日の歯のクリーニングをやっていきますね」

 そういうと神楽坂さんは、綿に薬品を染み込ませたものを俺の右上の歯茎と上唇との間に挟みこむ。


「麻酔薬を歯茎に浸透させます。クリーニングが終わっても三十分は飲食しちゃダメですよ。しばらく感覚が鈍くなるので、ほっぺたの内側を噛んだりしちゃいますから」

 そう言われたあと、綿を含ませられたまましばらく放置される。


 目をつぶっておとなしくしていると、それまで意識してなかった物音がよく聞こえる。


 かちゃかちゃと器具がぶつかる音。誰かが歩く音。エアコンの出す低い音。


 そして、待合室だけでなくて診察室にもクラシックギターの穏やかな音色が流れていることにも、あらためて気づく。


 たたんだタオルが目の上に掛けられた状態でギターの音色を聞いていると、次第に心が落ち着いてくる。

「いい曲でしょう?」

 神楽坂さんが声をかけてくる。


「このクリニックのBGMは私が選んでるんですよ。今月はクラシックギター特集なんです」


 今流れている曲は、なにかで聞いたことがある気がする。タイトルは知らないけど。


 なぜだか懐かしい感じがして胸に迫ってくる。外国の曲なのに不思議。しみじみして、ちょっと泣きそうになる。


「この曲、聞いたことありませんか。カヴァティーナっていって、映画のテーマ曲でとても有名な曲だけど、タイトルを知らない人も多いかも」

 カヴァティーナか。どういう意味だろう。


「映画音楽をたくさん作ったイギリス人のスタンリー・マイヤーズの曲で、彼が作った中では一番有名かもしれないですね」

 へー、そうなんだ。詳しいな。


 その後すぐに人の動く気配がして、神楽坂さんが近くに来たことがわかった。甘い香りとほのかに感じる体温。


「はい、ではさっきみたいに大きくお口を開けてください」

 あーん、と口を開けるが、おお、口の右上が開きにくいぞ。麻痺している感覚がある。


 神楽坂さんは、細い金属の管のようなものを俺の口の端に引っ掛ける。

 タオルが目を覆っているので見えないが、Jの字みたいな形の管が口の端に引っ掛けられ、その管の先端から口の中の水分が自動的に吸い取られる仕組みになっているようだ。


「じゃあ歯石のケアをしていきますねー。もし痛かったら左手を上げて教えてください」

「あい」


 神楽坂さんはもう一本の細い管を俺の口の中に入れている。そちらの管からは、強い水流が断続的に出るようだ。


「ノズルから出る水を歯に当てることで、歯の表面にこびりついている歯石を壊しながら流していく感じです。……痛くないですか?」

「あい」


 口の中に管を二本も突っ込まれて作業されているうえに、歯茎の感覚も麻痺してるので、うまくしゃべることができない。


 とはいえ、歯や歯茎に痛みを感じることはまったくない。

 子どもの頃の歯医者のガガガガ体験とはまったく違う。むしろ気持ちいいくらいだ。


 口の中で断続的に出ている水も、口に引っ掛けた管からどんどん吸い出されていくから水分が口の中に溜まることはなく、呼吸が息苦しくなることもない。


 ときどき「プシュウ……プシュウ……」という、水を噴射するらしいポンプの音がする。


 しばらくすると神楽坂さんは、今度は先の尖った金属製の棒で歯と歯の間に溜まった歯石をガリガリと掻き出したりする。


 そうしてまた水流の管を口に入れて……というような作業を繰り返す。


 そのうち作業が止まり、引っ掛けられていた排水用の管が外されると、目を覆っていたタオルが取り去られる。


 眩しさに目を細める俺に「はい、では一度口をゆすいでください」と神楽坂さんが声をかける。それに従って俺は紙コップの水を口に含み、ぐちゅぐちゅと口の中に行き渡らせると吐き出した。


 多少血も混じっていたが、それよりも気になるのは、黒い小さなカケラがいくつか、吐き出した水の中に混じっていたことだ。


 黒いカケラは、俺が水を吐き出したボウルの中をクルクル回りながら、最後は水とともに排水口に吸い込まれていった。

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