4番 受付嬢の秘密(その一)
数日が過ぎた。
あの日以降も、葛西の俺たちに対する態度は変わらずいつもどおりだったし、中野は相変わらずバカだったし、いずみが中野に優しく俺と葛西に厳しいのも変わらなかった。
唯一変わったのは、葛西が放課後に毎日消えるようになったことだ。
たぶん毎日オンケンに行っているのだろう。
そのことについて、葛西は何も言わないし、俺もあえて触れてはいない。
ただ中野は葛西といっしょに帰れなくなったことをしきりに「寂しいよー寂しいよー」と言い、いずみがそんな中野を優しくなだめている。
そんなことを伝えても、葛西は何も言わず、ただ苦笑いするばかりだった。
中野には中野の想いがあるのと同じように、葛西にも葛西の想いがあるのだろう。
人それぞれに想いや事情がある。それは仕方ないことだ。
そして俺には俺の事情があるのだ。ふふっ。
なにせ今日金曜日は、神楽坂さんの勤める歯科クリニックへ通院する日だ。
放課後に神楽坂さんに会えると思うだけで、朝から妙に気分がアガって仕方がない。
あの童顔と、アンバランスなきょにう。
魅惑のふくらみが、今日は俺にどんなドキドキをもたらすのか。それを想うと落ち着いていられない。
というか、昨日の夜なんか、遠足の前日の小学生みたいにいつもより早く床に入ったのに、結局明け方まで寝付くことができなかった。
なんだ、このテンション。
きっと今日の俺は、血液の大半がアドレナリンに置き換わっているに違いない。
授業なんかには、まったく集中できない。
時計を眺めては、まだ授業開始から五分しか経ってないとため息をつき、まだ授業が終わるまで三分もあると悶々とする、というのを今日は何度も繰り返している。
放課後前の六限目の終了直前には、机の上に申し訳程度に教科書を置き、ノートや筆記用具はすべてカバンや机の中に収納のうえ、授業の終了をまだかまだかと待ち構える始末。
そしてついに、キーンコーンカーンコーン……と授業の終了を告げる鐘の音が。
同時に、俺は机上の教科書を机に放り込み、教師が教室前方の扉から出て行くのをジリジリと待つ。
教師が後ろ手に扉を閉めるや否や、俺はカバンを抱えてダッシュで後ろの扉から廊下へ飛び出した。
隣のB組は、俺たちより少し早めに授業が終わったらしい。掃除当番なのか掃除用具を抱えたいずみが、廊下をこちらへ向かって歩いてくる。
すれ違いざま、俺は危うくいずみにぶつかりそうになる。
ギョッとして、思わずその場に立ちすくむいずみ。
「あ、東?! なに、アンタちょっと危ないじゃない!」
「いずみ、わりぃ! ちょっと用事あって急ぐんだ、お先にー」
「あーもう、ちょっと、そんな勢いで廊下を走ってんじゃないわよ! まったくもう!」
あー、またいずみを怒らせちまったかな。また厳しく当たられちまうなぁ……。
そう思いながらも俺は止まれない。
廊下と階段を一気に駆け抜けて、ようやく昇降口にたどり着く。
ふと見ると、昇降口には小さくて地味めな女子の後ろ姿があった。
B組の靴箱の前に立っている。
こちらの足音に気づいたのか、その女子は鬱陶しそうにこちらを振り向くと、俺を見たとたん「あ……」と絶句し、口のカタチも「あ」のまま凍りつく。
前髪が目にかかるぱっつんショートカットに、黒のセルフレームのメガネ。
ありゃ、茅場茉稚だ。
茅場のヤツ、帰り支度を整えてここにいるということは、今日はオンケンには行かないのか?
ハイテンションになっていた俺は、授業が終わってすぐに教室を出たから、授業が終わった後、今日も葛西が教室から消えたかどうか確認しなかった。
ただ茅場がここにいるということは、もしかすると今日はオンケンは休みなのかもしれない。
いや、そんなこと気にしてる場合じゃない。
俺は歯科クリニックに急ぐべく、なぜか完全に固まっている茅場の前をドスドスと歩いて、C組の自分の靴箱の前へ行き、靴を取り出して床へと落とす。
靴の落ちる音を聞いてハッ!としたらしい茅場は、少し慌てた様子で靴を履き替えると、こちらを見向きもせずにバタバタと昇降口から外へ走り去った。
なんだアレ。
ひと言くらい俺に向かって憎まれ口でもたたくのかと思ったのに、なんだか拍子抜けだな。
そんなことを思いつつ、俺も床に落とした靴に足を入れようとしたそのとき。
「おっ、東じゃないか。もう帰るところか?」
背中のほうからデカい声が聞こえてくる。
ギョッとしておそるおそる振り返ると、やっぱりわがC組の担任の浦安先生がこちらへ近づいてくるところだった。
やべ、最悪。このタイミングでつかまるかー?
二年C組のクラス担任、浦安慎之助先生。二十八歳独身。担当教科は国語。でも初見の人には、絶対に国語の教師には見えない。
分厚い大胸筋、太い縄を編んだような二の腕、引き締まった腹と腰まわり。背はどちらかというと低めで、スポーツ刈りに浅黒い精悍な顔、ニカっと笑うと口元から覗くキラリ輝く白い歯。
どう見ても体育教師の風貌だ。学校での格好も、基本Tシャツにジャージにサンダルだし。
聞くところでは高校時代はインターハイ常連の体操選手だったらしいが、大学で大けがをして体操競技を断念。そこから一念発起して国語教員の資格を取った苦労人らしい。
生徒にとってはいいアニキ的な先生なのだが、俺にとっては、ちと難アリなんだよな……。
「東、話があるんだが、ちょっといいか?」
「いや、このあと用事があるんで帰ります」
「まあそういうなって。大事な話だ」
そりゃ、先生にとっては大事な話なんでしょうけどね。
「いやあ、歯医者を予約してるんで無理です」
「そんなこと言わないでさー。そんなに時間は取らないから。なっなっ、いいだろ?」
「えー、こっ、困りますよ」
「大丈夫大丈夫。五分もあれば終わる話だから。五分くらいいいだろ? そこの生徒指導室でいいか?」
「いや、生徒指導室はイヤです。俺がなんか問題を起こしたみたいじゃないですか。他の人に見られたら誤解されますよー。やめてー!」
「大丈夫大丈夫」
そう言ってる間にも先生は、自慢の体力を駆使してグイグイ俺を生徒指導室にひっぱり込む。
抵抗むなしく、俺は生徒指導室の机の前に座らされた。
先生は俺の正面に座るとニヤッと笑い、両肘を机について顔の前で両手の指を絡ませる。
セカンド・インパクトで有名な某ネ◯フの司令官みたいなポーズだ。
「実は……」
ゴクリ。
「実は、飯田橋せんせーにまた怒られちゃってさぁ(泣)。俺ほんとにどうしたらいいと思う?」
やっぱりそれか。
浦安先生は、前から保健室の飯田橋先生のことが好きらしい。なぜだか俺は、そのことに関して浦安先生から恋愛相談を受ける身なのだ。
きっかけは年度はじめの二者面談だった。
最初はもちろん、進路とか生活態度とかそういう普通の二者面談だったのだが、何かのきっかけで飯田橋先生の話になり、飯田橋先生への恋心を浦安先生が吐露する展開になってしまったのだ。
以降、何かコトがあるたびに、浦安先生は俺に相談してくるようになった。
「この間、定期検診の件でハルマチくんに保健室に行ってもらったじゃん? あの件で『なんで生徒に保健室に行く理由をちゃんと説明してないんだ!』って怒られちゃってさー」
そう言いながら、浦安先生は頬を染め、夢見るようにほぉっとため息をつく。ちょっとキモい。
ああ、そんなことあったな。飯田橋先生から歯医者に行くように言われた、あの日の話だ。
たしかにさくらちゃん、あのとき浦安先生に対して何か文句というか、毒を吐いてた気がする。
「ああ、飯田橋せんせー、いいよなぁ……。かわいいし強いし、東も最高だと思うだろう? そうだよなあ……ああ飯田橋先生!」
「……あのぉ、先生、俺もう帰っていいスか?」
浦安先生は俺の発言をガン無視して飯田橋先生への熱い想いを滔々と語り、俺は口を挟む余地もなくひたすらにその話を聞かされた。地獄だ。
そのとき。
「おーい、ウラヤスくん? ウラヤスくん? まったくいったいどこに行ったのかねー?」
永遠とも思える時間が経過したころ、部屋の外から浦安先生を探す教頭先生の声が聞こえてきた。
もしかして救われる? かも??
「む。これはいかん。東、すまない。急用ができたのでまたな。この件はまた相談させてくれ」
そう言い放つと、浦安先生はばっ!と立ち上がり、すごくいい笑顔で右手を上げて「じゃっ!」と言うと、生徒指導室のドアを勢いよく開けて出て行った。
はー……つかれた……。
なんとか机から起き上がると、いったん閉まったはずのドアがするするするっ……と開き、「ハルマチー、だいじょぶかぁ?」と中野の顔がひょっこり覗く。
「あれ、中野? なんでここに?」
「いや、ハルマチが授業が終わってダッシュで出て行くのが見えたから、なんかあるのかなーと思って追っかけてみた。そしたら浦安に部屋に連れ込まれたからヤバいと思って。教頭の声マネしてみた」
中野はニコニコしながら「ウラヤスくん、どこ行ったのかねー?」と教頭先生の声マネをしてみせる。
うわ、ちょー似てる!
「おお、ナカノー! わが心の友よ!!」
「俺もいるぞー」
「おう、葛西も来てくれたのか」
「ヤバいと思ったから葛西も呼んでみた。俺エラい?」
「エラいエラい。中野、おまえ天才だな。とにかく助かったよ」
こんなかたちで中野に助けられるとは思わなかった。
あと、葛西もいるってことは、やっぱり今日はオンケンは休みってことだろう。
昇降口で固まっていた茅場の顔を思い出した直後、ハッとした俺は慌てて時計を確認した。
ヤバい、歯医者の予約時間に間に合わない。
「わりぃ、今日ちょっと用事あって急いで帰らなきゃ。後で連絡するわ。ほんとにありがとう」
「おう。おまえ今日一日中、ずーっとうわの空だったろ? さっさと行け行け」
葛西がワケ知り顔にウインクしてくる。
中野は「ん?ん?なに?」と事情をまったくわかっていないようだ。
昇降口の床に落としていた靴を履くと、俺はあらためて駅に向かって猛ダッシュをかけた。