3番 オンケン(その一)
「ぎゃははは、は、腹がよじれる……わは、わははは、いーっひっひっひっ、ぎゃははは!」
「……そこまで笑わなくてもいいだろうが」
翌日の昼休み、歯医者での顛末を教室で葛西に話したら、こんな反応をされた。
失礼なヤツだ。
歯医者を紹介してもらった手前、状況を報告しようとしてこれだよ。
「いやあ、悪い悪い。でもな、いくら歯科衛生士さんが魅力的だからって鼻血出して倒れるとか、おまえどんだけ興奮してんだよ」
まあ葛西の言うとおり、興奮のあまり頭に血が昇って鼻血を出した俺にも問題はある。
だがウブな男子高校生に対して、無意識なのかもしれないが、過度に接触してきた神楽坂さんのほうの問題が大きいと思うぞ、俺は。
……いや、大きかったのは問題だけじゃないけどな。
神楽坂さんのは大きかった、ほんとに。
しがみつかれたときの、あの包み込まれるようなやわらかな感触。
背骨を駆け上がるゾクゾクした感覚と、イケナイことをされているという抗いがたい背徳感。
彼女のあまい香りの記憶とともに、あの感触は俺の二の腕にしっかり刻みつけられ、あの感覚と背徳感は俺のリビドーに黒々とした刻印を残している。
「んで、倒れたあとどうなったんだ?」
葛西がニマニマしながら話の先を促してくる。
「え、別に何もねえよ。しばらく鼻血が止まるまで休んで、それから帰ってきただけ」
「ふーん? 本当かあ?」
「そんなこと言われても、何もないんだから仕方ないだろうが。しつけえぞ」
俺はちょっとヘソを曲げた。
葛西からしばらく距離を取ろうと「わりいけど、ちょっとトイレ行ってくるわ」と言って席を立つ。
そんな俺の様子を見て、さすがに少々からかい過ぎたと思ったのだろう。
教室から廊下に出た俺を後ろから葛西が追っかけてきた。
「わりぃわりぃ、ちょっと調子に乗り過ぎたわ。そう怒るなってば」
こう言うやり取りは、葛西との間ではまあまあある。
葛西が俺をからかい、ヘソの曲がった俺を葛西がなだめるパターンだ。
葛西は基本は他人思いでいいヤツなので、俺がちょっとヘソを曲げるそぶりをすると、すぐフォローに回る。
俺もそれをわかっていて、じゃれてるみたいなもんだ。
「まあまあハルマチさんや、ここはなかよくトイレでも行きましょうや」
とかいいながら、葛西は俺の首に自分の腕を引っかけて絡んでくる。
「あーもー、ウザっ! やめろよー」
などとふざけ合いながら、俺と葛西は廊下を歩いていた。
ふと見ると、腕組みをしたひとりの女子が、俺たちの進路を妨げるように廊下の真ん中に立ちはだかっている。
え、だれ、コイツ?
制服を見る限り、どうやら同学年のようだが。
クラスの女子の名前はよく覚えていないものの、俺でもさすがにクラスメイトの顔くらいはなんとなく覚えている。
ただ、この女子の顔には見覚えがなかった。
ということは、他のクラスの女子か。
肩くらいまでのぱっつんショートカットに、黒のセルフレームのメガネをかけ、背の高さは平均的な女子よりやや小さめ。
こういう地味めな女子はわりと気弱で、人とは目を合わせられないタイプが多い。
が、コイツはその部類には入らないらしい。
強い視線で俺たちを睨みつけている。
その女子がこちらに向かって口を開いた。
「アリオ、最近部活サボり過ぎ! 今日は全体会議だから放課後部室に集合。今日は絶対に来ること!」
アリオ?
ああ、葛西のことか。葛西在生だもんな。
そうか、俺じゃなく葛西のことを睨んでたのか。
それにしても葛西のヤツ、部活なんて入ってたんだ。
まったく知らんかった。
「うーん、こう見えてボクも忙しいんだよねー」
やれやれと言う顔つきで、葛西がその女子に答える。
それを聞いたその女子は、葛西に噛みついてくる。
「あのさ、ただでさえメンバー減ってるのに、サボる人がいると活動不十分で部が潰れるの、わかってる? アリオのせいでオンケンがなくなってもいいって言ってるの?」
「…………」
葛西は一瞬、ニガ虫を噛んで、そのまま飲み込んだような顔をした。
しかし葛西はすぐに諦めたような表情で、その女子に向かってつぶやく。
「わかったよ。今日は行く」
「……今日だけじゃなくて、毎日来なさいよ」
彼女はそういうと、俺たちとすれ違うように歩み去ろうとする。
ぼーっと油断してその様子を見ていた俺に、すれ違いざま、彼女は低い声でぼそっとつぶやいた。
「……それとアンタ、神楽坂さんに馴れ馴れしくしないで」
えっ?
思わず振り返ると、すべてを拒絶するかのようなオーラを背中から発しながら、彼女が足早に遠ざかっていくのが見えた。
「なんだったんだよアレ」
トイレから戻ってきた俺は、いっしょに教室に戻ってきた葛西に、ようやく切り出した。
あの後なんとなく気まずくなって、お互い黙ったまま教室まで戻ってきてしまったのだ。
だが、さすがにあんなやり取りを見た後では、何もなかったかのように振る舞うのは不自然だ。
俺としてはいちおうは事情を訊いておくほうがよさそうだと思ったのだ。
「ていうか、あの女そもそも誰? ナニモノ?」
「ん、まあ、そうなるよなあ……」
葛西は、ヤツらしくなくボリボリと頭をかいた。
「アイツはB組の茅場。茅場茉稚だ。俺との関係は……ま、簡単にいうと昔の同級生ってとこか」
昔の同級生。
微妙に続いてる腐れ縁的な感じか。
昔は冴えなかった同級生が、今は成長して超絶美少女になったとかなら萌えるシチュなんだが、今アレじゃちょっとなあ。
B組ってことは、いずみと同じクラスってことか。
もやもや考えていると、葛西が話を続ける。
「んで、ヤツはオンケン、音楽研究部の部長をやってる。今のオンケンには三年生がいないから、二年だがヤツが部長ってワケだ」
たしかに先ほど「オンケン」ってワードが出ていた。
三年生がいない部活ってのは珍しい。
「さっきのやり取りだと、おまえもそのオンケンに入ってるってことなのか?」
「ああ、いちおうな。幽霊部員だけど」
葛西が部活に入ってるなんて、全然知らなかった。
だっていつも放課後は、部活に顔を出すそぶりなどなく、そのまま帰宅している感じだったから。
だが言われてみれば、葛西は月に何回か、放課後早々にいなくなっていることがあった。
用事でもあって早く帰ったのだろう、とか思っていたのだが、今思えばオンケンに行っていたのかもしれない。
それにしても、葛西がなぜ音楽研究部に?
特に音楽が好き、というような話は葛西本人からも聞いたことはない。
流行っている曲とか、動画での注目曲なんかについて、葛西が話題にすることがまったくないわけじゃないが、だからといって、音楽に特に思い入れがあるような感じはしないけどなあ。
「なんでオマエ、音楽研究部なんかに入ってるんだ? 音楽に興味なんかあったっけ?」
「うーん、まったく興味ないわけじゃないけどさ」
「じゃあ、楽器弾くのが好きとか?」
「オンケンは楽器演奏はしないんだ。……まあ、いろいろあってな」
葛西はちょっと困ったような笑顔を見せた。
葛西があえて言葉を濁しているところを根掘り葉掘り聞き出すほど、俺も無粋じゃない。
触れられたくない過去は誰にでもあるだろう。
俺は「ふーん、そっか」とだけ反応する。
葛西もそれ以上は何も語ろうとはしなかった。
まあ葛西の話はそれでいいけどさ。
俺のほうには、まだわからないことがある。
なんで俺、茅場茉稚から突然「神楽坂さんに馴れ馴れしくするな」とか言われたの?
俺が神楽坂さんに会ったのは、後にも先にも昨日の一回だけだし、神楽坂さんのことはよく知らない。
可愛らしい歯科衛生士のお姉さんで、童顔できょにう。あと一生懸命になると、距離感がおかしくなるような人。
それくらいしか知らない。
まして茅場に至っては、今日初めて知ったんだけど。
知らないヤツから、一回しか会ったことのない人についてそんなこと言われるなんて、まったく訳がわからん。
そもそも茅場と神楽坂さんはどういう関係なんだ?
なんで俺が神楽坂さんに接触したこと(診察で会ったっていう意味だから! 他意はないからね!)を知ってるのか?
頭の中でたくさんのクエッションマークが、ぐるぐる回ってる。
葛西に聞けば、もしかすると何かヒントになるようなことを知ってるのかもしれないが、さすがにさっきのやり取りの後で、さらに葛西に突っ込んで聞くのはさすがに気まずいよなあ。
そもそも茅場はB組で、俺たちとはクラスが違うし、俺はB組には仲のいい知り合いはいない。
B組……そういえば、いずみがいるか。
しばらく考えた末に、俺はいずみに話を聞くことを思いついた。
茅場と同じクラスのいずみなら、女子同士だし、茅場に関する情報を何か持っているかもしれない。
一連のやり取りからすると、今日の放課後は葛西はオンケンに行くだろうから、今日の放課後ならいずみに話を聞くタイミングとしては好都合だ。
そんなことを考えていると、午後の授業の予鈴がなった。午後イチは選択科目で教室移動があり、ワラワラとクラスから人が出ていく。
「おい、行くぞー」
先に出て行こうとしている葛西から声が掛かる。
「おう、今行く」
俺はテキストやノートなんかをかき集めて抱え、あわてて葛西の後を追った。