2番 魅惑との邂逅(その二)
「それでは、そこにある紙コップに水が入っていますので、それでうがいをしてください」
さすがにガラガラ、ペッ!というタイプのうがいではなかろうと思い、口に水を含むと頬を膨らませたり縮めたりして、ぐちゅぐちゅぐちゅと口全体に水を行き渡らせ、ペッ!と吐き出した。
あれ、コレさっき食べたポテトのかけらか?
ごまかすため、コップの水をもう一度軽く口に含んで吐き出す。
ポテトのゆくえを見届けてからお尻のポジションを調整し、イスの背もたれに軽く背を当てる。
「はい、では背もたれを倒しますよー」
背中から後ろに沈み込んでいく。反対に足は膝下から持ちあがっていく。
上半身の重みがかなり背中にかかったあたりで、背もたれのリクライニングは止まり、勢いで後頭部がヘッドレストに沈み込む。
水平とまでは言えないが、身体はかなり横になった体勢になった。
目を開けたまま天井を見ていると「失礼しまーす」という声が聞こえて、ピンクがかった何かが、両目を覆うように被せられる。
パチパチとまばたきをした感覚では、どうやらピンク色のタオルを目の幅に合わせて折ったもののようだ。
え、視覚を奪われた状態で、口の中をギュインギュイン、ガリガリガリ、と削られる?!
マジか?!
俺が突然の恐怖に打ち震えていると、その様子に気づいたのか、先生が耳元で優しく、ちょっとかすれたような声で話しかけてくる。
「緊張してますか? 大丈夫ですよ? まずは歯の状態を確認するだけですから。リラックスしてくださいね?」
年上のお姉さんからの、甘いささやき。
そして言葉の最後の「ね?」と同時に、先生の息が俺の耳たぶにふわっ、とかかる。
……うわ、これヤバい。さっきの恐怖なんか、あっという間にどこかに吹き飛び、別の意味でぞくぞくっ……とする。
気持ちは平穏ではないが、これはこれでアリだ。
「はい、ではおくちを大きく、開いてください」
言われるがままに俺は口を大きく開く。
「はーい、それでは全部見ていきますねー」
全部、というところは、むしろ「ぜーんぶ」という言い方に近かった。
俺、このひとに、目隠ししたままでぜーんぶ見られちゃうんだ……。
……歯、だけどな。
口を大きく開けていると、どうも上の歯と歯茎の境目あたりがチクチクする。どうやら先生が先の細い金属の棒というか、針のようなもので歯茎をつついているようだ。
前のほうからだんだんと奥歯のほうへ向かって、チクチクする痛みが動いていく。
しばらくチクチクが続いた後いったん止まり、先生が何かメモしているような気配がある。
しばらくしてまたチクチクが再開し、また止まる。
まず、上の歯の右側、次に上の歯の左側、その次が下の歯の右側、最後に下の歯の左側、という順番でひととおりチクチクが進み終わると、最後に、目の上に被せられたタオルがパッ!と取り払われる。
「はーい、起こしますねー。お口をゆすいでください」
背もたれが自動で持ち上がり、膝下も元に戻る。
さっきうがいをして空になった紙コップには、いつの間にか新たな水が入っている。
さっそく紙コップを取り上げて口をつけ、くちゅくちゅくちゅと口の中に行き渡らせ、おもむろに吐き出すと、…………ゲッ! なんか水がえらく赤い!
もしかして口の中、血だらけ?
さっきからのチクチクのせいで、歯茎から血が出てるんじゃ?
あわててもう一度紙コップに口をつけ、残っている水を全部口に含んで、歯と歯茎に水を行き渡らせて吐き出す。
まだ若干赤い感じがするが、さっきほどではない。
「あ、あの、歯茎から血が出てるような気がするんですが、大丈夫なんですか?」
「はい! 大丈夫ですよ。出血はすぐ止まりますので」
先生はマスクをはずしながら、何事もないかのように話す。
……えっ。
この先生、ほんとに若い。
大学生、いや下手すれば高校生くらいに見える。
ただ若いだけじゃなくて、目鼻立ちが整っている美人さんだ。それも飛び切り美形のお姉さん。
冷たい感じの美人じゃなくて、童顔でほんわかした可愛らしくて親しみの持てるタイプ。
マスクしてるときに出していた、目の部分だけでも優しそうだったが、あらためて顔全体を見るとその印象が何倍にも増幅されている。
呆然としている俺に、先生が話しかけてくる。
「ひととおり歯と歯茎の状態を確認させていただきました。上下の歯全体に歯石――ってわかります? 東さんは歯石がいっぱい付いてます!」
そんなことを言われて、あらためて我に帰る俺。
「歯石、ですか……。歯石ってつまり、歯に石みたいなのが付いてるってことですか?」
「はい、そうです! 東さんくらいの年齢の方で、これだけ付いているのは珍しいです! 貴重です!」
先生、嬉しそうに言うなぁ。
ほめてるように聞こえるけど、これ絶対ほめてないよな。
「東さん、歯垢っていうのは聞いたことありますか?」
「はあ、よく歯ブラシとか歯磨きのCMでやってるヤツですよね? 歯の汚れ……みたいなものですか?」
「うーん、東さんがいう『汚れ』というのが、歯に色がつくというイメージなら、それはステインといいます。コーヒーとかカレーとか色のついた食べ物などが原因ですね。歯垢はそれとは別物ですよ♪」
先生は本当に楽しそうに説明する。その表情は、ちょっとかわいい。
「歯垢というのは、虫歯菌が食べカスで繁殖してできる虫歯菌のかたまりなんですよ。じゅくじゅくしたノリ状のもので、それが歯の表面なんかに積もり固まると歯石になるんです」
虫歯菌のかたまり?! それが固まって歯石になるって? それが俺の歯全体に付いてる、ってこと?
うえっ、気持ちわるっ。マジか。サイテーじゃん。
俺が眉をひそめるような表情をしたからだろうか、先生は慰めるような、憐れむような微妙な顔をした。
「大丈夫ですよ。これから歯石除去をしていきますからね。ひと月も通っていただければ、びっくりするくらいキレイになりますよ!」
えー、これから一か月もここに通うの? めんどくさいんですけど……。
「それにほら、これを見てください。これ、東さんの歯周ポケットです。2が多いですけど、3とか4とかも結構あります。歯石のケアをすると、これが1とかになりますよ!」
先生は俺に紙を見せながら詰め寄ってくる。
いや、ちょっと近いって。なんで上半身をそんなにくっつけてくるんですか。いろいろ当たってるんですけど……。なんかいいにおいもするし。
先生は一生懸命に紙を突きつけてアピってくるんだが、言ってる意味がさっぱりわからない。
歯周ポケットってナニ? あと2とか3とか4より、1のほうがいいの??
「まあまあ先生、ちょっと落ち着いてください。ちょっと、離れたほうが……いいんじゃないですか、ね?」
一生懸命に詰め寄っていた先生は、そのときようやくはっ!と気づいたらしく、パッと後方に瞬間移動した。
恥ずかしかったのか、先ほどの紙を胸に抱えながら、真っ赤な顔をして、ジト目で俺を見てくる。
紙を胸に抱えるポーズが、逆に彼女の豊かな部分を強調して、より魅惑的に見せていることには、これっぽっちも気づいていないんだろうなぁ……。
俺が目のやり場に困りつつも、存在を主張してやまない魅惑の膨らみから目を離せないでいると、彼女は少し困ったような、怒ったような表情で口を開く。
「あ、あのですね、東さん……」
ヤベッ、えっちな目線に気づかれたっ!
「す、すみませんっ! そんなつもりは……」
「ごめんなさい! わたし、先生じゃないんです!」
瞬間、俺と彼女は同時に謝罪を口にしていた。
はあ?
「……あの、先生じゃないって、どういうコトすか?」
だって今まで、人の口の中をぜーんぶ覗いて、チクチクしてたじゃん。
「いや、あの、えーと、あなた歯医者さんでしょ?」
「いや、その、わたしは歯科医師ではありません……歯科衛生士です」
「歯科衛生士……さん? 歯医者さんじゃないんですか? 何がどう違うんです?」
それまでちょっとシュンとしていた彼女――神楽坂さんだっけ――は急に胸を張ると、自信たっぷりに説明する。
「歯科衛生士というのはですね、厚生労働大臣の免許を受けて歯科医師の指導の下に、歯牙及び口腔の疾患の予防処置として、歯牙露出面――」
「……あのお、すみません、あたまの悪い俺にもわかるように説明してもらえません?」
「あ、え、はい、ちょ、ちょっと専門的すぎちゃいましたかね。あは、あははは……」
一瞬、シュンと気落ちしてしまう神楽坂さん。
それでも気を取り直して説明してくれる。
「えーとですね、歯科衛生士というのは、歯科医師の指導のもとで患者さんの歯と歯茎のケアをするお仕事なんです。国家試験を受けて免許を取らないとできないんですよ♩」
話しているうちに自信を取り戻してきたらしく、神楽坂さんの表情は途中から明るくなった。
「わたし、このお仕事が好きです。歯周病で悩んでいた方がわたしのケアで歯周病が治って、嬉しそうにされている姿を見るのが大好きです。でもそういう苦しみに遭わないようにするのが、本当は一番大事なんです」
神楽坂さんは俺の顔を真剣な顔で見つめる。
ほんわかしていると思ったけど、こんな真剣な表情をして懸命に歯のケアの大切さを訴えてくる。
その凛々しさに、俺はなぜかキュンとさせられる。
「だから東さん、歯槽膿漏なんかにならないように、歯が抜け落ちてしまわないように、わたしにケアさせてください。お願いします!」
そんな言葉に感動する俺だが、ちょっと神楽坂さん、一生懸命になると、どうしてそう上半身を寄せてくるの?! また魅惑の膨らみが……。
「わ、わかりました、俺の歯のケアは神楽坂さんにお願いしますから! だからちょっと離れて――」
「本当ですか! ありがとうございます! これからよろしくお願いします!!!」
嬉しさのあまり、俺の左腕をぎゅーっと抱え込んで喜びを表す神楽坂さん。
俺にとって魅惑というには、あまりにも嬉し恥ずかし、刺激が強すぎて――
「あ、東さんっ?! は、鼻血っ、鼻血が出てます! 大丈夫ですか? きゃーっ、た、大変っ、ティッシュティッシュ! 先生っ、ティッシュ持ってきてくださいっ!」
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