2番 魅惑との邂逅(その一)
葛西が書いたメモを見ながら、俺は知らない街を歩いていた。
ちょうど学校の最寄り駅と自宅の中間くらいの駅で、通学電車の路線上だから定期で来れる。
でもこの駅で降りたのは今日が初めてだ。
駅改札を出るとあまり広くないロータリーになっていて、その向こう側のスーパー横の狭い通りをしばらく歩くと、広い幹線道路に突き当たる。
幹線道路の向こう側に行くための歩道橋の階段を一段飛ばしに、ほいっほいっと駆け上がる。
階段の一段一段の段差は低めだから、駆け上がるのはたいして苦でなく、息も切れない程度だ。
下を通るクルマの帯を眺めつつ、道路を越えて反対側に降りると、風景は一変して、道の左右に街路樹が並ぶ閑静な住宅街になっていた。
「このあたりに、こんなところがあったのか……」
思わず口にする。
この鉄道の沿線は、人混みと、狭い場所に押し詰められた建物と、まとまりのない街並みが定番なので、こんな場所があるとは知らなかった。
道なりに進むと、やがて右前方に二階建ての白くて四角い、小さな建物が見えてくる。
建物の周りは、緑に囲まれたガーデン風になっている。
白い建物と緑の草、名前も知らない小さな赤い花のコントラストが美しい。
建物正面は少し引っ込んでいて、一台分くらいの駐車スペースになっているが、敷かれている石畳の端々から芝生が覗いている。
正面玄関の右側に「まきデンタルクリニック」のロゴの入った看板がなければ、たぶん誰もここが歯医者の建物とは思わないだろう。
☆☆☆
ちなみに今日、うちの学校は教師の研修日で、午後の授業は休みだ。
俺は、葛西と中野といずみの四人で駅前のハンバーガー店で昼メシを食ったあと、飯田橋先生から受け取った封筒を持って、ひとりでここへやってきた。
ちなみに中野といずみには、ここに来る話はしていない。ちょっと恥ずかしいからな。
俺は葛西には歯医者までのルートを書いたメモを作ってもらい、前に受け取っていた。
今まで行くタイミングを測っていたというわけだ。
☆☆☆
ここは歯科医師やそのスタッフの全員が女性らしい。葛西いわく、その丁寧な治療ぶりで、密かに人気の知る人ぞ知る歯科医院なのだそうだ。
この最寄り駅には各駅停車しか止まらず、しかも駅からだいぶ離れているのだが、ひとりひとりの患者と落ち着いて向き合いたいとの歯科医師の想いから、あえて不便な場所にクリニックを構えたらしい。
そんな話を思い出しつつ正面玄関から入っていく。
入ってすぐのところで靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。その先は明るい雰囲気の待合室になっていて、座り心地の良さそうなソファや椅子がいくつも並べられている。
待合室には品の良さそうな老婦人や、お母さんと子どもなど、何人かが治療を待っていた。
壁ぎわには受付のカウンターがあり、白衣をアレンジした感じの揃いのユニフォームを着た女性がふたり、並んで座っている。
ひとりは落ち着いた感じの二十代くらいの女性、もうひとりはやや幼い顔立ちで、どうかすると俺と同年代くらいに見える。
「こんにちは。本日はどうされましたか?」
落ち着いた感じのほうの女性がすっと立ち上がって、丁寧に俺に声をかけてくる。
あ、いい感じのお姉さんだ。
「ああ、はい、えーっと、実は学校の健康診断で歯医者さんに行くように言われて……行くときにこの封筒を持っていって、歯医者さんに渡すよう言われました」
なんだか緊張して、たどたどしい説明になってしまった。
少し慌てて、俺は飯田橋先生から渡された封筒をお姉さんに手渡す。
「ああ、東西高校の生徒さんなんですね。健康診断で指摘があったので来院された、ということでよろしいですか?」
いい感じのそのお姉さんは、カウンターに座って書き物をしている幼い顔立ちの女性のほうをなぜだかチラリと見てから、俺のほうへと視線を戻す。
「はい、そうです」
「わかりました。失礼ですが、お名前はひがしさん、でよろしいですか?」
「あ、あずまです。俺はあずまはるまち、といいます。東西高校の二年です」
幼い顔立ちのほうの女性がちら、と一瞬顔を上げてこちらを見た気がした。
お姉さんが続ける。
「失礼しました。東さん、こちらのクリニックは初めてですか?」
「はい、は、初めてです。というよりも、歯医者さんには、最近ほとんど来たことがないもので」
それを聞いたお姉さんは、くすくすっ、と笑う。
チキショウ、緊張のあまりカミカミになってるうえに、言わなくていいことまで言っちまった。
顔に血が昇ってくる。耳たぶが熱い。
「それでは診察券を作りますので、健康保険証をご提出ください。それからこちらの問診票にご記入をお願いします」
健康保険証をお姉さんに渡し、問診票の挟んであるプレートを受け取ると、俺は座り心地の良さそうなソファに腰を下ろした。
問診票に必要事項を記入して、受付のお姉さんに返す。
ソファに座り直すと、気にならない程度に抑えた音量で、ゆったりとしたクラシックギターの音色が流れていることに、今更ながら気がつく。
その心地よい響きに、俺は思わず軽く目を閉じて、流れる音楽に身を委ねる。
今までの緊張感が緩む。
もしかしたら緩んだ反動で、目を閉じていた僅かな時間眠ってしまったかもしれない。
「東さん、お待たせしました。診察室へどうぞ」
お姉さんから再び声がかかり、はっと気がついた俺は「は、はい。すみません」とあわてて立ち上がる。
その様子を見ていたお姉さんに、またくすくす笑われ、俺は恥ずかしさから逃れるように診察室に入った。
☆☆☆
診察室は、想像していたよりも開放感があった。
緑あふれる庭に面した大きなガラス窓から、明るい陽の光が差し込んでいる。
室内には、歯科治療用のイス――リクライニングチェアに口腔(飯田橋先生に教えてもらった言葉だ!)を照らすためのライトとか、うがい用の水が自動的に出る装置がついているアレ――が二台、間隔を開けて設置されている。
後で調べたらあのイスは「歯科用ユニット」というらしい。一台何百万もする。高けー。
二台のうち奥の一台には、先ほど待合室で見かけた品のいい老婦人のシルバーグレーの頭が見えている。
手前の一台は空いていて、若い女性がその手前で俺を出迎えてくれた。
「お待たせしました。初めまして。神楽坂と申します。よろしくお願いいたします」
「あ、東といいます。こちらこそよろしくお願いします」
この人が歯医者さんか。
口元にマスクをしているので顔全体は見えないけれど、こちらに向けられる目の表情がとても優しい。
少し童顔っぽい。かわいい印象の女性だ。
その表情を見て、部屋に入るときにいったん高まった緊張がまた少し緩む。
先生は受付の女性たちとは違ったユニフォームを着ていて、なぜだか可愛い柄の入ったエプロンを前にかけている。
お医者さんや看護師さんが白衣を着るイメージはあったが、エプロンをするイメージはなかったな。
そのエプロンなんだが……なんか胸の部分が異常に強調されてない?
てか、あらためて気づいたがこの胸の迫力、なによ?
明らかにきょにう、だよな?
背はそれほど高くないのに、ユニフォームとエプロンの胸の部分がはち切れそうなくらいに、強烈に自己主張している。
俺は特に大きな胸の女性が好き、というわけでもないのだが、このサイズ感が目の前でぽよんぽよんっ、と蠢くのを見せつけられると、さすがに心平静ではいられない。
いかんいかん、落ち着け俺。
そんなこちらの事情は知らない先生は「ではこちらに」とさっそく歯科用ユニットに座るように促す。
リクライニングシートに横から乗り込む感じでイスに座る。
イスに座ると、先生は手慣れた感じで、俺のクビにも患者用のエプロンのようなものを掛けた。
エプロンを掛け終わると、先生はにこやかに話しかけてくる。
「学校からのお手紙、拝見しました。歯のクリーニングをご希望ということですが、まずは歯の状態をひととおり確認させていただきますね」
「はい、よろしくお願いします」
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