12番 ラブコメ展開(その二)
ドアを開けると、目の前は板張りの廊下が左に向かって伸びており、正面には二階に続く階段が、階段の途中で左九十度に曲がるかたちでつけられている。
滑らないように気をつけながら階段を上っていくと、二階にも廊下があり、廊下の右側には外が見える窓が並び、左側の壁にはいくつかの扉がついているのが見える。
一番階段寄りの扉には、misaと書いた木製のプレートが下げられている。たぶんここが神楽坂さんの部屋なのだろう。
まださっきから五分は経過していない。
神楽坂さんはまだ片づけの最中だろうな。
仕方なく俺は、廊下に立ったまま、廊下の右側の窓から夕暮れに染まる外の景色を眺める。
高台に立っているこの建物からは、幹線道路を挟んで駅までの景色がよく見える。
同じような高さの低い建物が地面に張り付いていて、駅と思われる一角だけ、やや高い建物が集まっているようだ。
そのとき、ガチャ、と音がして後ろのドアが開く。
「あっ!」「痛っ!」
俺がドアの前に立っているのに気づかずに、急いで出てきたらしい神楽坂さんが、ドアの前で俺に体当たりするかたちになる。
出会い頭にぶつかられた俺はバランスを崩す。神楽坂さんもそれに巻き込まれるように俺のほうに倒れ込んでくる。
とっさに俺は神楽坂さんが直接床にぶつからないように神楽坂さんの身体を両腕で抱え込んだ。
ドサッ! ゴツンッ!
「うっ! 痛ってぇ……」
「あ、東さんっ? だ、大丈夫、ですかっ!」
腰から床に落ち、受け身が取れない状態で後頭部を打った俺は床の上でもん絶する。
腰、背中、後頭部に強烈な痛みが走るが、俺の前面の胸、腹、腰は神楽坂さんのやわらかい重みを正面からしっかり受け止めている。
濃厚な甘い匂いに頭がクラクラする。
首筋に彼女の荒い息づかいを感じ、脳髄が痺れる。
今、俺の両腕の中に、彼女がいる。
このまま両腕を彼女の背中で交差させて抱きしめてしまいたい、そんな強烈な衝動に駆られる。
やわらかだがボリュームに溢れた彼女の肢体の感触に、ゾクゾクとした快感が背筋を駆け上がる。
俺の身体の奥底では、むくり、と健康なオスが蠢き始める。
ヤバい!
「か、神楽坂さん、俺の上から……離れてっ……くださいっ」
「え? あ、は、ハイッ、すみませんっ」
神楽坂さんが慌てて俺の上から起き上がる。起き上がる様子からは、特にケガなどはなさそうだ。
自分で言ったくせに、彼女の重みと体温が離れていくのをひどく残念に感じながら、俺は後頭部と身体の背面の痛みに耐える。
上から神楽坂さんが、半ば心配そうに半ば泣きそうな表情で覗き込んでくる。
「ごめんなさい……だいじょうぶですか?……あの、わたし……」
「大丈夫……ですから、ほんとに。もう少し……すれば……立ち上がれそうです……よいっしょ……と」
肘を曲げ、曲げたところをテコにしてグッと力を込める。上半身がかろうじて持ち上がる。続けて今度は腹筋に力を入れ、上半身を下半身側に折り曲げるようにして何とか起き上がる。
「ふーっ……もう大丈夫です。よっ、と。いててて」
壁に手をつき、足の裏に力を込めて立ち上がる。
多少まだ頭はふらふらしているが、大丈夫そうだ。
「ほんとに大丈夫ですか? 歩けますか?」
「はい。たぶん……平気です。心配かけてすみません」
「わたし手を貸しますから、しっかり握ってください。とりあえずお部屋に入りましょう。どうぞこちらです」
神楽坂さんに手を引かれて、神楽坂さんの部屋にお邪魔する。
神楽坂さんの部屋は広めの洋室という感じで、八畳ほどの広さがあるだろうか。
天井は高く、明かり取りの窓が切られているが、今は夕闇の色の額が嵌っているように見える。
正面に液晶モニターが据えられており、その左右には大きめのスピーカーが鎮座している。
壁には飾り棚が造り付けられており、ズラリとCD、DVD、ブルーレイなどがタイトルを見せて並んでいる。どれも音楽系のもののようだ。
向かって右の壁にはアップライトのピアノが置かれ、壁にはバイオリンと弓、エレキギターなどが飾られている。
左側にはベッドと猫足っぽいタンス、あとクローゼットの入口になっているらしい扉が見受けられる。
部屋の真ん中にはナチュラルな天然木風のローテーブルがあり、そばにはビーズクッションが置かれている。
「いったんそこのクッションに座っていてください。ちょっと飲み物を持ってきます」
俺をクッションに腰掛けさせると、神楽坂さんは飲み物を取りに階下へ降りていった。
俺は神楽坂さんの部屋に、ひとり残される。
それにしても、女性らしい装飾は随所にあるものの、部屋のあるじが音楽を趣味にしていることがはっきりわかる部屋だ。
飾られている楽器などからすると、神楽坂さんはピアノやバイオリン、ギターなどを多少なりとも弾けるのだろうな。
さすがオンケンの初代部長といったところだ。
そんな中で、猫足のタンスが女性らしい生活感を醸し出している。
そのときふと、茉記先生の言葉が頭をよぎる。
「少年よ。美沙の部屋に入っても、おのれの欲望のあまり、下着なんか盗んではいかんぞ」
……下着が入っているとすれば、もしかするとあのタンス……かな?
廊下で転倒したときの、神楽坂さんの肢体の感触が、この腕に、胸に、まだ生々しく残っている。
神楽坂さん、部屋に帰ってくるまでには、まだしばらくはかかるよ、な?
俺は足音を忍ばせ、そーっと猫足のタンスに近づく。
タンスには、引き出しごとに球状の突起が二カ所ずつついている。
この球状の突起に指をかけ手前に引いて、各々の引き出しを開くらしい。
ためしに、上から二番目の引き出しのふたつの突起をそれぞれ左右の親指と人差し指でつまむ。ゆっくり手前に引き開けようと、つまんだ指に力を込めたとき。
かちゃかちゃという食器の音と、階段を上がってくる足音が! 思ったより早い!
俺はバビューン!と瞬時にビーズクッションに戻る。
間一髪、ガチャッとドアが開き、神楽坂さんが入ってくる。
「東さん、紅茶を淹れてきました。飲みましょう」
あ、危なかった……。
「あっ、は、はいー。ありがとうございます。ははっ、おかまいなく(汗)」
「ん? どうかしましたか?」
「いやーなんでもない、なんでもないです。紅茶、温かいうちにいただきますっ……あ、あぢっ!」
「あらあら東さん、せっかちですね」
くすっ、と笑う神楽坂さん。
その無邪気な微笑みに、俺はあらためてこの人への想いを深くした。
☆☆☆
「……とまあ、そういうことが起こってるんです」
「さくら先生が辞めるなんて……。そんなの考えられません。いったい何があったのかしら」
飯田橋先生が辞めるという話を聞いた神楽坂さんは、とてもショックを受けた様子だった。
「さくら先生にはオンケン設立以来、ずっと顧問を務めてもらっています。設立のときもいろいろあって、なんとか顧問になってもらったの。でも先生が学校を辞めるなら、次の顧問を探さないとダメでしょうね」
「そっちの方は葛西がやってるんですけど、今のところ旗色が悪いみたいで。片っ端からいろんな先生に当たってるんですけど」
「たいていの先生は、どこかの部活動の顧問になってるでしょう? 仮になっていない先生がいても、そういう先生には顧問になれない理由があるでしょうし。なかなか厳しそうですね……」
「やっぱ、そうですよねー」
ずっと説明していてノドが渇いた俺は、もはやぬるくなってしまった紅茶のカップを持ち上げると、一気に飲み干した。
「さくら先生は責任感が強い人だから、何かお考えをお持ちかもしれない。さくら先生が辞める理由もはっきりしないし、一度先生に会って話を聞きたいところですね」
そう言いながら、神楽坂さんはティーポットの保温カバーを外し、俺のカップに熱い紅茶を注ぎ入れる。
「そうなんですけど、ここ数日、飯田橋先生は学校を休んでいるんです。だからなかなか話を聞けなくて」
神楽坂さんは軽く握った手をほっそり整ったあごに当て何か考えていたが、やがて「うん」とうなずく。
「東さんは、明日の土曜日はどんなご予定ですか?」
「明日ですか? 明日は特に予定はないですけど……」
「そうですか。もしよかったら、さくら先生に会いに行ってみませんか?」
「さくら先生、いや飯田橋先生に?」
「ええ、そうです」
「会いに行く、ってどこに? 俺、さくら先生のお宅がどこなのか知りませんよ?」
「わたし知ってます、さくら先生の家。たぶん前と変わってないんじゃないかな? 昔、遊びに行ったことがあるんですよ」
「え、そうなんですか?」
「ええ。オンケンの部長やってるときに何度かお邪魔しました。わりと学校に近いので、あまり家の場所は生徒さんに教えてないんじゃないかしら。第一、女性の一人暮らしでもあるしね」
神楽坂さんはだいたいの場所を教えてくれた。その場所とは、例の「駅ピアノ」のある駅から歩いて七、八分くらいのところだった。
「あら、もうこんな時間! 東さん、遅くまですみません。おうちの方が心配しちゃいますね。詳しい待ち合わせの時間と場所は後で決めることにしましょう。スマホで連絡先交換してもらえますか?」
「は、はい! もちろんです!」
俺と神楽坂さんはお互いにスマホを出し、連絡先を交換した。
神楽坂さんの連絡先ゲットだぜ!
「後で連絡しますね」
「はい。よろしくお願いします」
その後、俺は神楽坂さんとリビングに降り、茉記先生に挨拶してから、来た通路を逆にたどってクリニックへ戻った。
クリニックを受診するときに入口で脱いだ靴を履き、受付のお姉さんが施錠したクリニックの玄関の鍵を神楽坂さんに開けてもらう。
「東さん、今日はありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。俺のせいでいろいろご迷惑かけてすみませんでした」
「暗いから気をつけて帰ってくださいね。それではまた明日」
「わかりました。また明日」
俺がそう言ってクリニックの玄関を出ようとしたとき。
なぜだか神楽坂さんが、俺の制服の袖を指先でつまんでいる。
「あの神楽坂さん……離してくれないと帰れません」
「あの、東さん……」
「はい……あの、なんでしょうか」
「今日は、その、部屋のドアを開けたとき、東さんを巻き込んで倒れてしまって……痛かったでしょ。本当にすみませんでした」
「ああ、もう気にしないでください。結果として大したことはなかったので」
神楽坂さんは顔をあげようとしない。下を向いたままだ。
「ありがとうございました。あの、なんていうか……あんなときなのに、東さんがわたしをかばってくれて、抱き止めてくれて……とてもうれしかった、です。……あーもう、わたし何言ってんだろ。恥ずかしい……」
きれいな年上のお姉さんにこんなこと言われたとき、俺はいったいどんな顔したらいいのだろう?
神楽坂さんはつまんでいた指を俺の袖から離すと、ようやく顔を上げて、にこっと微笑んだ。
「それじゃまた明日」
「はい。また明日」
俺は駅に向けて歩き出す。
少し離れてから振り返ると、クリニックの玄関のガラス越しに、神楽坂さんが手を振るのが見えた。
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