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11番 部長の矜持(その二)

「うおっ!……あ、か、神楽坂さん! 突然後ろから声をかけないでくださいよ! あーびっくりしたぁ……」

「えー、そんなに驚かなくても……。だいたいこちらに背を向けて座った、東さんのほうが悪いです」

 神楽坂さんはちょっぴり不満そうだ。


 いつものクリニックのユニフォームではなく、俺にとっては初めて見る神楽坂さんの私服姿なのだが。


 こ、これは……。


 身体のラインがきれいに出る七分袖のTシャツに、きれいめのジーンズというシンプルなスタイル。


 だがTシャツの首もとはかなり広く開き、神楽坂さんのデコルテの白さに俺の目がくらむ。


 何よりこの格好は、む、胸の迫力が……なんというかすごい。思わず目が……視線が引き寄せられる。


「えっ?……ど、どこ見てるんですか、東さんっ! さっ、さあ行きますよっ!」

「うおっ、ど、どこ行くんですか神楽坂さん。急に引っ張らないでください! いててて、危ないっ!」


 神楽坂さんは俺の手首をつかんで、ドスドスと足音を立てながら診察室のほうへ向かっていく。


 と、神楽坂さんは診察室のドアの前を通り過ぎ、その先の正面一番奥にある「関係者以外立入禁止」と書いてあるドアの取っ手の上の黒いパネルに、首から下げたIDカードを当てた。


 ピッと音がしてドアが解錠される。

 そのドアを押し開くと、神楽坂さんは俺の手を引いたまま、さらにその先へ進んでいく。


 ドアの向こうは、せいぜいふたりが並んで歩ける程度の細い廊下になっていて、しばらく先にある突き当たりにも鉄のドアが見える。


 神楽坂さんがそのドアの取っ手を捻ると、今度はなんのセキュリティも掛かっていないようで、そのままあっけなくドアは開いた。


 そのドアの向こうには……やや広めではあるが、ごく普通の家庭にあるリビングダイニングルームが広がっていた。


「神楽坂さん、ここはいったい……」

「東さん、茅場家にようこそ」

「えっ、茅場家? ここ茅場の家なんですか?」

「そう。ここは茅場家のリビングルームよ。クリニックと繋がってるの。その証拠にほら」


 神楽坂さんが指差す先には、巨大な液晶モニターが鎮座していて、その前には座りごこちの良さそうなふかふかしたソファセットが置かれている。


 その中の立派な三人掛けのソファのうえに、おおよそこの部屋には似つかわしくない光景が広がっていた。


 パジャマ姿でタオルケットを腹掛けにしてソファに気だるそうに横たわっている人物がいる。

「……え? 茅場、茉稚?」


 自分の名前を呼ばれた茅場はぼんやりした表情で「ん?」と言ってこちらを振り向く。


 俺の視線と茅場の視線が接触し、スパークする。

 瞬時に茅場が目を見開く。アゴが下がり、信じられないものを見たときの驚愕の表情。


「あ……東? え、どうして? えっ、あっ、キャ、キャーーーッ!!!」


 茅場はタオルケットを胸に抱きしめ、悲鳴をあげる。


「あ、あんた、なんでここに居んのよ、不法侵入よっ! パジャマ姿を見るなんて、痴漢よ、痴漢ーっ!」

「いや、ちーちゃんがそんな格好してリビングなんかにいるからでしょ? 具合悪いなら自分の部屋でおとなしく寝てればいいのに……」

 神楽坂さんが呆れたように言う。


「あ、東を連れてきたの、美沙ちゃんね! なんでわざわざここに連れて来るの? 何か話があるならクリニックですりゃいいじゃん! 意味わかんない!」


「あのー神楽坂さん、『ちーちゃん』って?」

 俺は神楽坂さんに小声で尋ねる。

「ああ、それ? 『まちちゃん』って言いにくいでしょ? だから昔から家の中では彼女を『ちーちゃん』って呼んでるの。茉記先生なんかは『ちー』って呼び捨てにするのよね」

 神楽坂さんもヒソヒソと教えてくれる。

「おい、そこ! 変な豆知識教えてんじゃないわよ。全部聞こえてるわよ!」

 茅場は意外と地獄耳だ。


「さっき、ちーちゃん、東さんをここに連れてきた意味がわかんない、って言ったよね」

「そうよ、それがなにか?」

「わたし東さんから、ちーちゃんがオンケン部長として大変なことに巻き込まれている、って聞いたの。それを詳しく聞くために彼をここに連れてきた。具合の悪いちーちゃんも、ここでなら話を聞けるでしょ?」


 それを聞いた茅場の顔から、サッと血の気が引いた。

 そして、うらめしそうに俺の顔を睨みつける。

「……東、なんで美沙ちゃんに言っちゃうのよ。そんなのダメだよ。おかげでわたしがこれまで苦労してきたの全部台無しじゃん……あり得ない……あり得ないよ」


 そう言って茅場は、タオルケットを頭にかぶると顔を膝に押しつけ、両手で膝を抱える。

 途切れ途切れに「うっ、うっ……」という悔しそうな、そして悲しそうな涙声が漏れ始める。


 状況がまったく読めない俺は、茅場が何を怒っているのか、なぜ泣いているのか、理解することができない。


「神楽坂さん、これっていったい……」

「ちーちゃんはさ、最近のオンケンについて、わたしに何にも教えてくれなかったの。たぶん、わたしに心配かけたくなかったんだろうね」

 神楽坂さんはふうっ、とため息をついた。


「その裏側で、ちーちゃんは相当苦労してたんだろうと思う。でも先輩ヅラしていろいろちーちゃんに聞くのも違うと思って、あえて黙ってた。ちーちゃんの好きなようにしたらいいと思ったから。でも……」

 神楽坂さんは、またため息をつく。


「でも、もっと突っ込んで聞けばよかった。ちーちゃん優しいけど不器用だからさ。人が嫌なことは全部自分が引き受ければいいと思ってる。それじゃダメなんだよね」


 神楽坂さんが何を言いたいのか、全然わからない。

 茅場は最近のオンケンについての話を神楽坂さんには一切語らず、神楽坂さんもそれを突っ込んで聞こうとはしなかった、らしい。


 茅場は神楽坂さんをオンケンのことで心配させないために。神楽坂さんは茅場にオンケンのことで「先輩ヅラ」するのは違うと思ったから。


 お互いに遠慮し合っている様子なのだが、なぜお互いに遠慮し合うのか、俺にはよくわからない。


「神楽坂さん、なんで神楽坂さんも茅場も、オンケンを間に挟んでお互いに遠慮してるんですか? 俺にはそこが理解できません」


 それを聞いた神楽坂さんはキョトンとした。

「神楽坂さんと茅場はこの家で姉妹同然に暮らしているんですよね? なぜそのふたりがオンケンに関しては遠慮し合っているのか、俺にはよくわからないんです」


 神楽坂さんは不思議そうな顔をしたが、しばらくすると「ああ……」と何かを思いついたようで、何度も大きくうなづく。


「そうかそうか、東さんは知らないんですね。なるほど、そうか……それじゃたしかに理解できないでしょうね」

「え、なんの話ですか?」


 神楽坂さんは俺の顔をじっと見つめてから、おもむろに口を開く。


「東西高等学校音楽研究部。通称オンケン。面倒なことに、その創設メンバーで音楽研究部の初代部長が、ちーちゃんの近くにいるんです」

「茅場の近くにオンケンの初代部長が? 俺が知ってる人ですか?」


 神楽坂さんは目を伏せる。

「……わたしです」


「え? 神楽坂さん? えーーー!?」

 神楽坂さんがオンケンの初代部長?!


「ちーちゃんは、部長になったからにはわたしに負けたくなかった。現部長の矜持にかけて。トラブルが起きても自分の力で解決したかった。何か起きても、絶対にわたしに頼りたくなかったんだと思います」


 それは……その気持ちはわかる。

「わたしも遠慮し過ぎました。ちーちゃんには、あえてオンケンの話を聞かないようにしていました。東さん、初代部長というのを意識しすぎていたのは、むしろわたしのほうだったのかもしれません」


 神楽坂さんは、タオルケットをかぶって膝に顔を埋めて泣きじゃくっている茅場のほうに向き直ると、毅然とした態度で言った。


「ちーちゃん……いや茅場部長、いったい何が起こっているのか教えてください。わたしにできることなら、なんでも協力します。ひとりのオンケンOGとして」

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