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11番 部長の矜持(その一)

「え、なにがあったって……えーと、その……」

 やべ、茅場のこと、口を滑らせちまった。


 それにしても神楽坂さん、茅場のことでこんなに食いついてくるとは。


「……東さん、今日このあと時間ありますか」

「え? まあ、あとは家に帰るだけなので、そんなに遅くならなければ大丈夫ですけど……」


 俺の顔にはいつものタオルがかけられているので、神楽坂さんがいったいどんな表情をして話しているのか、まったくわからない。


 ただ声の調子がいつもとは違って、緊迫感をはらんでいる。心の中で焦る。


「よかったです。それではまずは予定どおり、今日は右下の歯のケアをやりますね。その後、申し訳ないんですが、待合室でしばらく待っててもらえますか? 茉稚さんの話を聞きたいです」

「はあ、わ、わかりましたが――」

「それでは始めます」

「え、は、はいっ!」


 うわ、いつものほんわかしてる神楽坂さんとは雰囲気が違う。

「はい、口を大きく開けて」

「あい」


 右下の歯茎のあたりに綿を含まされ、いつものように歯茎に麻酔薬を沁み込ませる。


 沁み込ませている間はシートのうえでじっとしているだけなので、否応なくBGMが耳に入ってくる。


 今流れているピアノ曲は、ゆっくりしたテンポの曲で、かわいい感じの中に沈鬱なものが混じる不思議な曲調だ。


「…………」

 いつもなら、流れている曲をきっかけにして神楽坂さんに話しかけるところなんだが。

 さっきの神楽坂さんの感じだと、ちょっと声をかけづらいなあ。


「あの……いま流れているのは『亡き王女のためのパヴァーヌ』という曲です。フランスのモーリス・ラヴェルが二十代半ばで作曲した曲なんですよ」


 俺の気持ちを察したかのように、神楽坂さんのほうから話しかけてくれた。

 それが、ちょー嬉しい。


 神楽坂さんが近づく気配がする。甘い香りも漂ってくる。


「この曲は亡くなった王女様がテーマになってるわけじゃなくて、昔の王女様の絵を見たラヴェルが、絵からインスピレーションを受けて作った曲と言われています。でも聞いてると、ちょっと眠くなっちゃいません?」

 ふふ、っと、いたずらっぽい含み笑いが聞こえた。


「あい……そうれふね」

 たしかに目をつぶって聞いていると、リラックスしすぎて眠ってしまうかもしれないな。


 しかし、含み笑いの後、神楽坂さんは俺のリラックスぶりを打ち砕くように、デンタルケアのプロとして、ちゃくちゃくと歯石ケアを進めていく。


 水流の出るパイプで歯石を剥がし、洗い流していく。

 もう一本のパイプが口の中の水や唾液、細かい歯石をどんどん吸い取っていく。

 テキパキとした手順と技術を駆使して、いままでにない速さで右下の歯のケアは終了する。


 前回まで受けてきたケアは、かなりじっくり時間をかけて丁寧にやってもらっていたってことだよな。


 同じことをやるにしても、神楽坂さんがその気になれば、これくらいの時間でできるということだ。


 ほんわか天然な感じでも、デンタルケアに関してはさすがプロなんだなあ、と感心する。


 口をゆすいでシートに座り直すと、神楽坂さんが少し残念そうに話しかけてくる。


「今日はちょっと急いでやったので、残念ながら歯石はだいぶ砕けてしまって、あまり大きなのは残りませんでした。でも歯はしっかりときれいになりましたよ?」

「あ、ありがとうございます」

「今日は東さんでご予約の患者さんは終わりです。片付けるので待合室でちょっと待っててくださいね」

 ニコッと微笑むと、神楽坂さんは俺を待合室へと送り出す。


 俺はこれから神楽坂さんに、これまでの一連の事情を根掘り葉掘り聞かれる展開を想像して、少しユウウツになりながら待合室へ戻り、ソファに腰を下ろす。


 まもなく受付のお姉さんに呼ばれ、俺は会計を済ませる。神楽坂さんの言うとおり、待合室にはもう待っている人はおらず、俺が最後の患者らしかった。


 あらためてソファに座るのも変な気がして、所在なくその場に立っていると、受付のお姉さんも困惑した顔で立ったままでいる。


 ああ、お姉さんは俺が帰るのを見送ろうとしているんだ、と気づく。


「あ、あの俺、さっき神楽坂さんにここで待ってるように言われたんですけど……」

「えっ、そうなんですか? ちょっと確認しますね」

 ぱたぱたと足音をさせて、お姉さんが一度裏のほうに引っ込む。


 何か会話が交わされるような気配があって、しばらくして受付にお姉さんが帰ってきた。


「お待たせしました。あとで神楽坂がこちらへ来るとのことでした。そろそろ診療の終了時間ですので、わたしはこれで失礼します。東さん、また来週お待ちしています」


 お姉さんはそう言うとペコリと頭を下げ、クリニックの入口の電気を消して入口に鍵をかけてから、再度裏のほうへ引っ込んでいった。


 俺は待合室にひとりになる。


 俺はお姉さんの去った受付に背を向けて、ソファに腰を下ろす。


 静かな中、ピアノ曲だけが流れ続けている。

 今流れてるこの曲は俺でも知ってる。

 坂本龍一の「energy flow」だ。


 うちの親父が坂本龍一のファンで、よく聴いていたから耳にこびりついてる。ほかにも「戦場のメリークリスマス」とか「ラストエンペラー」とか。


 それにしても神楽坂さん、音楽の守備範囲はクラッシック音楽だけじゃないんだな。素直に感心する。


 感心と同時に、神楽坂さんから茅場について何を訊かれるのか心配になる。


 何があったか、といえば、顧問確保が失敗してオンケンの廃部の可能性が非常に高くなった、ということだ。


 茅場がオンケン最後の部長になってしまう。

 その現実を目の当たりにして、茅場は今、いったい何を考えているのだろうか。


          ☆☆☆


「神楽坂さんに馴れ馴れしくしないで」

 思えば、茅場は出会いからして印象が最悪だった。


 おまけに神楽坂さんの態度について「勘違いするな」と釘を刺してくるわ、オンケンへの加入を強要してくるわ、俺に対してロクなことをしない。


 逆に、オンケンの顧問の確保については、ヤツ自身はほとんど何もしてない。

 これまではなぜか俺が、そして今は葛西が懸命に頑張っているが、部長であるヤツがやったことは、単にさくらちゃんと話をしただけだ。


 いや、聞いた内容からするとさくらちゃんと「話をした」わけじゃなくて、さくらちゃんから「話を聞いた」だけで、今後どうすべきかとか、後任者確保をどうするかという相談はしていないかもしれない。


 そうやって考えると、茅場はやるべきことはやらず、やらなくていいことばかりやっている。


 なんだかとても腹立つ。


 それでも俺が茅場を見捨てられないのは――ひとつには、葛西が茅場をなんとか支えようとしていること。


 葛西の努力の根底に何があるのか、うすうす察してはいるが、友人としてはそれに報いてやりたいと思う。


 もうひとつは、自分が傷ついても他人を思いやろうとする、茅場の心根の優しさだ。


「馴れ馴れしくしないで」という発言も、神楽坂さんを守ろうとしたのが動機だろうし、俺が妙な誤解をして深入りし傷つかないようにするためもあるだろう。


 だが、その発言や行動が自分にどう跳ね返るか、茅場は頓着しない。損な性格だ。


 オンケン部室で突然俺が涙したときも、ほとんど知らない俺の頭を抱え込み、俺が落ち着くまで寄り添ってくれた。

 よく知らない男子の頭を抱え込んで慰めるなんて、年ごろの女子としては危険で、お人好しが過ぎる。


 なんでもひとつ俺のこと言うことを聞く、なんて過激な発言もしてたな。


 優しさゆえに誤解されやすく、それでも優しくすることはやめない。誤解に対してうまく立ち回れず、自分が傷つくのは仕方ないと諦めている。


 だからクラスでも孤独で、葛西の口添えでもなければ人に頼れない。

 いいとこあるのに、ほんとに不器用なヤツだ。


 まあ誤解されやすいという点では、神楽坂さんと似ている気がする。陽の神楽坂さんに対して、陰の茅場の違いはあるが。

 いっしょに暮らしてると似てくるのか?


「……東さん、お待たせしました」

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