9番 ノクターン(その二)
「俺の言うことをなんでもひとつだけ聞く、か。あいつ、自分の言ってることわかってんのか? 俺がもし、とんでもなくえっちなこととか要求したらどうすんだ」
オンケンの部室を出た俺は、教室に戻って帰りの荷物をまとめ、学校を出た。
「まあ、それだけヤツは真剣ってことか……くそっ! めんどくせえなあ」
今の状況をひとりでじっくり考えたくて、俺はアテもなくフラフラ歩き回った。
そのあげく、俺は近くにある河川敷にたどり着いた。
その河川敷を下流に向かってしばらく歩き、堤防の上の道から少し下がった河岸の階段に腰を下ろす。
春先よりは日が長くなって、陽は傾いてはいるが、まだ明るい。
街中を流れている川にしては、わりと水の透明度は高いな、などと思いつつ、さくらちゃんにまつわるこれまでの話を振り返ってみる。
さくらちゃん――飯田橋先生は、教頭先生との間で秘密の話し合いをしたようだ。
そしてその内容は、飯田橋先生がこの学校からいなくなる可能性を示していて、自分の後任者のことも考えているらしい。
ウワサになったのはここ最近のことだから、その話し合いが行われたのも、そんなに前ではないだろう。
ウワサを聞いた茅場が直接聞いたところでは、先生は辞めることを肯定も否定もしなかったという。
そして、その回答に対して説明を求めた茅場に対して、先生は「時期が来たら説明する」と言ったという。
以上の情報をもとに考えると……飯田橋先生は退職を考えており、その後任者がまだ決まっていないから退職を明言していないってのが、ごく普通の結論になるんだろうなあ。
だから後任者が決まれば、辞めるとハッキリ言うということだ。それが「時期が来たら説明する」って言葉の意味だろう。
保健室の先生、つまり養護教諭は学校に最低ひとりは必要だから、仕事の後任はいずれ決まる。
問題はやはりオンケンの新たな顧問だ。仕事の引き継ぎはあっても、後任の養護教諭に顧問までは引き継げないだろう。
部活動顧問にはそれなりの責任が伴う。後任者の同意がなければ引き受けてもらえない。
そもそも今、養護教諭である飯田橋先生が部活の顧問を引き受けていて、かつ、学校側もそれを認めているという状態が普通じゃないのだ。
解決策としては、別の先生に新たな顧問をお願いするというのが、ごく一般的な考え方なのだろう。
そのとき俺の頭に閃いたのは、後任のオンケンの顧問を浦安先生にお願いすることはできないか、ということだった。
飯田橋先生の熱烈なファンである浦安先生に対して、飯田橋先生が「最後のお願い」として顧問を引き受けてほしいと言ってもらえたら、なんとかなるのでは?
そんな自分なりの結論に辿り着いた頃には、もう周囲は暗くなっていた。
☆☆☆
歩き回ったせいで、学校の最寄り駅からはだいぶ離れてしまっている。むしろ学校の最寄り駅よりもひとつだけ俺の家に寄った駅まで歩くほうが早く帰れそうだ。
スマホの地図を見ながら、慣れない道を辿って、俺はどうにかその駅に近づく。
駅前の商店街を抜けると、その駅の建物は思いのほか立派だった。広い中央通路があり、駅の反対側へ自由に行ける構造になっている。
改札口は中央通路の真ん中あたりにあり、通路沿いにはコンビニやコーヒーショップなどの小店舗があって、その並びにぽっかり小さなイベントスペースがある。
そのイベントスペースに、一台のアップライトピアノが置かれていた。
いわゆる「駅ピアノ」というヤツだろう。
ピアノに触れたことがなく触ってみたい人、昔弾いていたが久しぶりに弾いてみたい人、ピアノ教室に通っている子どもや大人たち、街角で演奏して生活の糧にする演奏家。
そういう人たちが自由に演奏できるように開放されているピアノで、駅に置かれているものを「駅ピアノ」と呼ぶらしい。
俺が改札口に近づこうとしたとき、「駅ピアノ」にはちょうどひとりの若い女性が腰を下ろしたところだった。
「ママ、あのお姉さん、ピアノ弾くのかな?」
「そうね。弾くかもしれないわね」
「聞きたい聞きたい、聞いてもいい?」
そんな親子の会話が聞こえ、行き交う人もなんとなく気配を察して、女性の様子を伺っている。
女性はピアノの蓋を上げると姿勢を正して、フーッと息を吐いてから、おもむろに鍵盤へ指先を下ろす。
誰もが聴いたことがある、ロマンチックな調べ。
トンタンタン、トンタンタンという三拍子の優しい和音のうえに、おなじみの主旋律が何度か繰り返され、繰り返されるごとに微妙に変わる細かい音が表現に変化をもたらす。
「……ショパンのノクターンか。作品9の2」
サラリーマンらしき男性が、立ち止まってそうつぶやく。
ピアノの美しい音色を聴きつけて、自由通路を通る人が次々にイベントスペースに立ち止まる。
女性は目をつぶり、演奏に没頭している。
ジャケットに黒のタイトスカート姿。
あれって……え、まさか飯田橋先生?
確かめるようにあらためて観察する。目をつぶっているので確信は持てないが、どうやらそのようだ。
ピアノをこんなに上手く弾けるなんて。
全然知らなかった。
ロマンチックだが短い曲はやがて盛り上がりを見せながら最終盤を迎え、高音の細かい音の繰り返しから、水面が揺れるような穏やかなメロディの余韻を残して終わった。
演奏者は鍵盤から手を下ろし、目を開く。
次の瞬間、周囲に立ち止まった人たちから、はじけるように大きな拍手が贈られる。
飯田橋先生はちょっと恥ずかしそうな顔をして、それでも立ち止まってくれた観客たちに、ぺこりと頭を下げた。あらためて拍手が大きくなった。
「先生。飯田橋先生」
観客たちが三々五々散っていく中、俺は飯田橋先生に声をかけて近づく。
「あ、東くん……今の、見てたんだ……そっか」
俺に気がついた先生は、照れくさそうに微笑んだ。
「先生があんなに上手にピアノが弾けるなんて、知りませんでしたよ。すごいです。感動しました」
「若い頃の練習の賜物でなんとか最後まではたどり着いたけど、やっぱり全然ダメね。あーあ」
「そんなことないですよ。ほんとに上手でした」
「そう……若い頃厳しく教えてくれた恩師のおかげかしらね。褒めてくれてありがとう」
「……先生、学校辞めちゃうんですか?」
思わず、口から聞きたかった質問が出ていた。
「ははっ。みんなからおんなじこと聞かれるなあ」
先生は笑いながらも、少し困った顔をした。
「す、すみません……でも俺、先生に辞めてほしくないんです」
「そっか……」
先生は伏し目がちにそうつぶやいたが、ふっ、と何かに気づいたように、あらためて俺の顔を見つめる。
「ん、そうか、そうか……東くんもそう言ってくれるのか。うんうん」
飯田橋先生は、なぜかニカッと笑う。
「……うん、まあ、やってみるか……ありがとう、東くん。じゃあまた学校でね」
「あ、あの、先生?」
先生は、もう俺のことなど気にしていない様子で、自由通路の反対側へ向かって急ぎ足で歩き去っていく。
いまの飯田橋先生の反応は、なんだったんだろう?
辞めてほしくない、と言った俺の言葉に喜んだような、何かに気づいたような感じではあったが、どう理解してよいのかわからない。
しまった、肝心の話をするのを忘れてた。
もし飯田橋先生が辞めるのなら、浦安先生にオンケン顧問になってくれるよう飯田橋先生からお願いしてください、という話をするのを。
さすがにこれはまずい。あらためて飯田橋先生に会うために保健室に行くべきか?
それとも、俺から直接、浦安先生にオンケン顧問を頼みに行くべきなのか?
俺の悩みはますます深く、混迷の一途をたどることになりそうだった。
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