9番 ノクターン(その一)
「いやー東くん、オンケンにようこそ!」
「……いや何度も言うけど、別にオンケンに入るなんて一回も言ってないからね」
「キミのような有望な人材をわれわれは心から待ち望んでいたのだよ。記念にこの紙にサインしてくれたまえ」
「いや、これも何度も言うけど『入部届』って書いてある紙に、サインなんかするわけねーだろ」
週が変わっても、葛西との朝の会話はこれだ。
葛西よ、日本では「オンケンにようこそ」は「おはよう」の挨拶のかわりにはならないのだぞ。
「葛西さー、五人いるならとりあえず部活の人数的には問題ないんだろ? それでももし頭数が必要なら、俺じゃなくてフレッシュな一年生とかを募集すりゃいいだろーが」
「さすがにフレッシュな一年生と言えども、もう六月ともなれば、ひととおり部活は確定してるわけよ。いまさらウチには来てはくれんさ」
葛西は両肩をすくめて、お手上げのポーズをする。
だがその直後、葛西は急に真面目な顔になった。
「それにな、実はここに来てちょっと厄介な話がでてきてるんだ」
「厄介な話?」
葛西は声をひそめる。
「ちょっと今は話しにくいんだが、おまえの助けが必要になりそうな話があってな……それもあっておまえを勧誘してるってわけだ」
「俺がオンケンを助ける? なんだそりゃ。何のことだか見当もつかないぞ」
「とにかく微妙な話で今はちょっと話せない。オンケンに入る・入らないは別として、一度俺たちの話を聞いてくれないか?」
「葛西がそんな真面目な顔で頼んでくるとか、もはや超常現象に近いから、話を聞くくらいはいいが……。でもこの前の昼休みの二の舞はゴメンだぞ」
「なんか失礼なこと言っとらんか? ご懸念はわかった。強引な勧誘とかはしないように、俺から茅場や部員には徹底する。変なウワサにもならないようにするから、一度話を聞いてくれ。頼む」
どうも単純な部活への勧誘とは思えない葛西の発言に、お人好しにも俺は話を聞いてやることにした。
☆☆☆
社会科資料室。またここだ。
話を聞いてくれと頼まれてから何日か経った放課後、俺は葛西に急かされ、荷物は教室に置いたまま、葛西といっしょに旧校舎棟三階を訪れた。
葛西が引き戸を開けると、机の周りに座っていた四人の視線がこちらを向く。
窓際のど真ん中の席に座っている茅場部長、一番入り口近くにいるのが一年生の落合、あとは男ひとり女ひとりだが、知らんヤツらだ。
葛西も含めて計五人。これが現在の音楽研究部の全員ということだろう。
「東くん、よく来てくれたわ。話を聞いてくれるだけでも助かる」
茅場が相変わらずの表情不明、地味子の黒メガネスタイルで俺に話しかける。
葛西が後を続ける。
「ここにいるのが、今のオンケンの全員だ。茅場と落合は知ってるな?」
「東センパイ、お待ちしてましたよー♪ いよいよオンケンに入部いただく感じで――イテテッ! 葛西センパイ、何すんですか! 耳が、耳がモゲるー!」
「落合、昨日言っただろうが。今日はハルマチの、いや東の勧誘は一切ナシだ」
「いててて、わかった! わかりましたから耳から手を離してっ!……あ、痛てー、何すんのよまったくもう」
「あと落合と同じく、一年生の原木と中山だ」
「一のA、原木信篤です。よろしくお願いします」
「一年D組の中山清華と申します。はじめまして」
落合以外の一年生は真面目そうだ。
「葛西と同じ二年C組の東です。今日はよろしく」
「じゃあ、ひととおり紹介も終わったところで本題だ。東も適当に座ってくれ。じゃ部長、頼む」
葛西が茅場に話を振ると、茅場はうなずき、椅子から立ち上がった。
「わたしたちオンケンは今、廃部の危機にあります。皆さんも知っているとおり、部活動として学校に認めてもらうためには、いくつかの条件がありますが、その条件が満たせなくなるおそれがあります」
「廃部の危機だって?」
俺は驚いて思わず声を上げる。
「人数は足りてるんだろ? なんだそれは?」
俺以外の部員はすでに事情を理解しているらしく、声を上げた者はいなかった。
茅場は、部屋の壁面の黒板の前に移動する。
「わが東西高校で、部として活動を継続することが認められるための条件は、次のように決められています」
茅場がメモを見ながら、黒板に次のような条件を書きつけていく。
(一)部員が五人以上で、特段の事情がない限り、部員全員が部の目的に向けての活動を行なうこと。
(二)年度ごとに学校指定の形式による部の活動報告書を提出し、学校から部活動として適切との認定を受けること。
(三)部活動には一名以上、教諭による顧問を置くこと。
「そのほかにも細かい決まりはありますが、この三つが学校の認める部活動の条件です。このうち、現在危機的な状況となっているのは……」
茅場が黄色のチョークで(三)という文字の上に大きく丸印を書く。
「顧問の先生の問題です。このオンケンの現在の顧問は誰か、中山さん知っていますか?」
指名された中山が立ち上がる。
「はい、当部の顧問は、飯田橋さくら先生です」
……えっ、そうなのか?
それを聞いた瞬間、俺はオンケンの置かれている状況を察した。
数日前の放課後、ワックでいずみが言っていたウワサ話。
さくらちゃんが学校を辞めるらしく、教頭先生と話をしていたという件だ。
さくらちゃんが今、学校を辞めるということは、オンケンの顧問がいなくなる、ということだ。
もし後任の顧問がいなければ、黒板に書かれた部活動の三条件をオンケンは満たせなくなる。
「皆さんも聞いていると思いますが、最近、飯田橋先生がお辞めになるというウワサが流れています。これが事実なのか、わたしは飯田橋先生に直接確認しました」
「それでどうだったんですか? 結果は?」
「結果として、飯田橋先生はウワサを肯定も否定もされませんでした。ただ『今は話せない。時期が来たら説明する』とだけ言われました」
「その答え方って、事実上辞めるのを認めたってことではないんですか?」
「少なくとも、先生は明確に『辞める』とは言いませんでした。だから断定はできません。ただ辞める可能性は否定できません」
「…………」
でも、仮にさくらちゃんが辞めるとしても、後任の養護教諭は来るだろう。その人に新たな顧問になってもらえば、万事解決するのではなかろうか。
「ちなみに、保健室の先生は普通、部活動の顧問にはなりません。ですから、飯田橋先生の後任の保健室の先生が来ても、オンケンの顧問になる可能性は低いです」
「じゃあなんで飯田橋先生は、オンケンの顧問になったんだよ」
葛西が疑問を口にする。
「そのあたりの詳しい事情はよくわかりません。数年前から飯田橋先生はオンケンの顧問を務めていただいていますが、生徒も先生方も入れ替わっていて情報がありません。飯田橋先生ご自身も話してくれませんでした」
「……おまけに去年の二年生、今の三年はみんな部活を辞めちゃってるしねー。去年卒業した三年生を知ってるのも部長だけだし」
落合がボソボソつぶやく。
茅場にもたぶん聞こえてるだろうが、聞き流してるようだ。
「それで、東の出番ってことだ」
「はい? 今までの話の中に、俺が登場して何かできる場面があったか?」
「なあ東、俺の睨んだところでは、おまえはさくらちゃんに結構気に入られてる。そこでおまえにさくらちゃんの引き留め工作を頼みたい」
「なんでそうなる」
「またまたー。だって個別にデンタルケアの指導とか受けてるんだろ? それにおまえ、もともとさくらちゃんのこと、射程範囲内とか言ってたじゃん」
「おまっ、こんなところで、なんでそんなことバラすんだよ!」
ほら、心なしか、茅場とか女性陣の視線が冷たい。
落合なんか「ありえない」みたいな顔してるじゃねーかよ……。
「あと、浦安先生をうまく動かせそうなのも、おまえだけだ」
「浦安先生?」
「さくらちゃんに対する熱意といったら、浦安先生に勝る人はいないだろ? おまえはその浦安先生からさくらちゃんに関する相談を何度も受けてる身だ。浦安先生のハートにでっかい火柱をあげられるのはおまえだけだ」
「とか言われても、浦安先生にどんな火柱をあげさせたいんだよ?」
葛西に続けて、茅場が俺に向って言う。
「東くん、たぶんこのウワサは、浦安先生の耳にもすでに入ってる。先生は飯田橋先生が辞めたらどうしようと悩んでると思う。そこで飯田橋先生が辞めないように引き留めを頼んでみてほしい。お願い」
空気が重い。五人十個の瞳が俺に集中している。
困った。責任重大じゃないか。
「……正直言って気乗りしない。責任ばかり重くて、俺にメリットないし。第一、そんなの本当に止められると思うのか? 辞めるには辞めるだけの理由や都合があるのが普通だろ? 止めても無駄なんじゃないか?」
「…………」
「…………」
「……そうね、東くんの言うとおりだと思う」
「部長……」
「でも、やっぱりわたしは諦めきれないの。卒業していった先輩たちから受け継いだこの部を、何もせずに無に戻したくない。東くん、あなただけに責任は押し付けないわ。結果は問わない。だから……お願いします」
「……即答はできない。ちょっと、考えさせてくれ」
俺は立ち上がって、引き戸のほうへ歩き出す。
チラリと振り向くと、他の四人はうつむいたり、呆然としていた。
しかし茅場だけは違った。
俺のことをじっと見ている。
俺は部屋から出ようと、引き戸をガラリと開けた。
「東くん!」
茅場の叫ぶ声。
「あなたの言うことをひとつだけ聞くわ! ひとつだけ、なんでも! だからお願い!」
一瞬驚いて足が止まったものの、俺は振り返ることなくそのまま社会科資料室から外へ出ると、後ろ手に引き戸を閉めた。




