7番 秘密の逢瀬(その二)
俺がそう言うと、茅場はムクリと顔を上げた。前髪とメガネで相変わらず表情はよくわからないが、何か思案していそうだ。
「それが、もうひとつの話である『お願い』に繋がるんだけどね」
俺は黙って先をうながす。
「神楽坂さん――とは日頃は呼んでないんだ。昔から美沙ちゃんって呼んでるの。美沙ちゃんは、とある事情があって、かなり前からウチの家族と一緒に住んでる。この学校の先輩でもあるのよ」
神楽坂さんが東西高の先輩?
制服見て、俺が後輩ってわかっただろうに、何も言わなかったよなあ。
あっ、学校からの手紙だって渡したから、俺の姿を見なくても当然後輩だとわかってたはずか。
神楽坂さんは現在二十二歳だそうだから、ほんの四年前まではここに通ってたってことになるな。
「血のつながりはないけど、わたしにとっては姉みたいな人。家族の一員なの。だけど……」
ハァー、と茅場は深いため息をつく。
「あの人、距離感すごく近いでしょ?」
茅場は眉をひそめ、俺を疑うように、試すように問いかけてくる。
思わずノータイムで「そうだね」と答えそうになった俺の中で、なぜか非常警報が鳴り響く。
これにYESと答えちゃダメだ! これはワナだ!
「ん? えっ、そ、そうなのか? お、俺にはよくわからんが」
ふいに、神楽坂さんのあの魅惑の膨らみの感触がやけに生々しく、ぽわんっと腕によみがえる。
ニヤけそうになる顔の筋肉をかろうじて抑え込み、平静を装うことができたのは、俺としては上出来だ。
「……東くん、初めてクリニックに来た日、鼻血出してぶっ倒れたよね? あれって美沙ちゃんの『濃厚接触』が原因だったんじゃないの?」
うぃんうぃん! 第一級警戒警報! うぃんうぃん! 第一級警戒警報!
「いっやぁー、あれね。あれはさー、なんかあの日暑くてさー。あ、あとあれだ、チョ、チョコレートとピーナツ食べすぎちゃってさー。なんかわからんけど急に鼻血が出ちゃったんだよね。ホントにホントに」
「…………」
疑わしそうな顔でこちらをじっと見る茅場。
いや、俺なにも悪いことしてないよ?
むしろ俺、鼻血を出して倒れた被害者なんだけど?
そんな思いが頭の中をぐるぐる巡るが、とにかく黙っていよう。
何も言わずに黙っている俺を見て、茅場はもう一度ハァー、と深いため息をつく。
「……まあいいけど。とにかく美沙ちゃんって、人との距離感がすごく近いの。特に自分が興味あるものを見つけたり、一生懸命になったりすると、すぐ相手構わずどんどん身を寄せていっちゃうの」
うんうん、よーくわかります。
「美沙ちゃん、あの……なんというか、その、立派な、というか、恵まれた身体してるでしょ? 寄って来られたら、たいてい男の人は変になっちゃう。彼女にその気がなくても誤解させちゃうの。わかるでしょ?」
思わずウンと言いそうになるのをグッと堪える。
「天然なだけで悪気はないのよ。でも周囲の人には勘違いさせがちなの。だからもし万が一、美沙ちゃんが東くんに寄ってきたとしても期待しないで。それ、たぶん東くんの勘違いだから」
「!」
「それを知ったうえで、美沙ちゃんの担当する患者さんとしてうまくやってほしい。それがお願い。美沙ちゃんにとって、東くんはひとりで初めて担当する患者さんだからさ。そしてこの話は美沙ちゃんには黙ってて」
…………。
……まー、そうだよなー。
俺もそうじゃないかと思ってた。
神楽坂さんが俺に興味をもつなんてないよな。
けど、あらためて他人から正面切って言われると、かなりショックが大きい。
今まで舞い上がっちゃってただけに、反動が大きすぎる。
なんか、落ち込むなあ……。
あ、あれ? 膝のうえに水の粒がぽたぽたっと何粒も落ちてくる。
あれあれ、ほっぺたが……濡れてる?
「えっ、東くん……いったいどうしたの? ……なんで……泣いてるの?」
びっくりした声で茅場が立ち上がり、動揺した様子で慌ててこちらへ近寄ってくる。
大丈夫だから、ちょっと驚いただけだから、と答えようとしたが、なぜか声が出ない。
胸とノドになにかが詰まったみたいで苦しい。ただ涙だけがこぼれてくる。
「あ……う……ううっ……」
「あ、東くん大丈夫? な、なんか……ごめん。そんなにショックだったんだ……どうしよう」
頭をブンブンと左右に振って、大丈夫だと茅場にアピールする。ただ涙は止まらない。
「ほんとごめん……そうだ、ちょっと……ちょっとじっとしてて」
その声と同時に、後ろから茅場が遠慮がちに、両腕で俺の頭を包むように抱え込んだ。驚く俺の両目に茅場の両腕が押し当てられ、涙が両袖の布地に吸い取られる。
「……んんっ、あっ、うっ……」
「動かないで……少しの間、おとなしくしてて。動かれると、その……こっちが恥ずかしくなるから」
後頭部から背中にかけて茅場の体温を感じ、そのリアルな存在感に狼狽する。
想定外の出来事に驚愕した俺は、驚きのあまり声が裏返って、元どおり声が出せるようになった。
「や、ちょ、ちょっとやめろよ」
そんな俺の言葉を茅場は静かに聞き流す。
「いいから、ちょっとそのままおとなしくしてて……おちついて」
「も、もう大丈夫だから。ほっといてくれれば――」
「本当に大丈夫なひとは突然涙こぼしたりしないよ。いいから今は、黙って優しくされなさい」
「…………」
真剣な口調で言う茅場。
くそっ、なんなんだよコイツ。
なんで俺なんかに優しくするんだよ。
ほとんど見ず知らずで、ちゃんと話したのも今日が初めてなのに、なんでこんなに優しくできるんだ。
「……そう、そうやって、じっとしてて」
俺の頭を小さな身体で包み込みながら、茅場の手のひらが俺の髪をゆっくり優しく撫でている。
撫でられるごとに、安らぎが広がっていく。
心に沁み込んでいく。
自分の中にこんな感覚が眠っていたことに、俺は今日初めて気づかされた。
☆☆☆
「……茅場、悪りぃ……ほんとにもう大丈夫だから」
落ち着いた俺は、茅場にそう告げる。
「そう。わかった」
茅場が抱え込んでいた俺の頭をゆっくりと解放していく。神楽坂さんとはまた違った、茅場の甘い香りがすーっと引いていくことに、ちょっとホッとする。
「おまえさ、俺みたいなの相手にいったい何やってんだよ。……でも、まあ……ありがとう」
照れ臭くて、とてもじゃないが茅場の顔を見ることができない。
俺の発言に、茅場はプイッと俺に背を向ける。
「いやこっちこそ……急にゴメン。どうしていいかわかんなくてさ……」
音楽室からはトランペットとクラリネットの掛け合いのフレーズが聞こえてくる。きれいな音色だ。
「むかし、わたしがワンワン泣いてるときに、美沙ちゃんがわたしに同じようにしてくれたことがあったの。ふとそれを思い出しただけ。……でも東くんは、わたしがしたことを絶対に、さっさと、忘れるように!」
茅場は発言の途中でこちらを振り返り、俺に釘を刺した。
「そんなのわかっとるわ。さっさと忘れないと、俺だっていつまでも恥ずかしいっつーの!」
とは答えたものの……この衝撃的な体験を俺はそう簡単に忘れられるだろうか。
「……じゃあ、そろそろ教室に戻ろうか」
「そう、だな」
俺たちがお互いにそう言い合ったとき。
突然、社会科資料室の引き戸がガラガラッ、バシーンと音を立てて開いた。
「茅場せんぱーい、ヒマだから部室来ちゃいましたー! 遊んでくださー……いっ? いーっ???」
一年の制服を着た女子が部屋の入り口で、俺たちがふたりでいるのを見て驚き、慌て、そして最後は目を見開いて口をあんぐり開けた状態で固まった。
「あ、あの、センパイ、もしかして……お邪魔……でしたよね?……あわわ、言わなくて結構ですお邪魔しちゃってすみませんすみません、ワタシなにも見てないです聞いてないです、誰にも言わないです――」
「落合、まあ落ち着きなさい。あなたきっと誤解してるよ」
「あああ、ほんとにだいじょぶなんで、センパイが男子と密会してたなんて絶対バラしませんから、だから許してください、もう帰ります帰ります帰してください――」
「落ち着けって言ってんでしょうが! 人の話を聞け!」
どうやら落合と呼ばれた一年生は、オンケンの部員らしい。
落合が来るのがあと数分早かったら、もっとヤバい場面を目撃されてた。俺と茅場との関係を確実に誤解されるところだった。あぶねー。
とりあえず茅場は、興奮する落合をいったんイスに座らせた。
座らせたのはいいが、茅場は俺たちのこの「密会」をどう説明するつもりなのか。
クラスも違うし、接点もない。落合をうまく納得させられなければ、変なウワサになりそうだ。
正直に神楽坂さんの話をするのは話が長くなるし、さすがにセンシティブ過ぎるよな。
「落合、わたしたちがここで会ってたのは……」
ゴクリ。
「葛西の友人であるコイツを、オンケンに勧誘するためなの。ちょうどよかった。落合もいっしょ説得して!」
……は?
ええーっ!
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