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入口の門を入ると、そこから下り階段がはじまっていた。灰色の岩を彫って作った無骨な作りの階段が、まっすぐひたすらに地下深くにのびている。シーマが最初に言った通り、中は完全な闇というわけじゃなく、壁のところに、ところどころ、オレンジ色の魔法の炎がともされている。現実世界だと燃料の油がどうとか、そういう話になるところだけど。ここはゲーム世界なので問題ない。魔法の炎のビジュアルが、足元の階段をほんのり黄色に染めている。とは言え、うす暗い階段だ。ずっと下の闇の部分からゴウゴウいう水音が聞えてくるのも、天井からときどき大きな水滴が落ちてくるのも。あまりこれは、気持ちの良いものではない。さっさとここを抜けたいと、その一心でシーマについて段をひたすら降りてゆく。
「ねえ、さっきの話、本当だと思いますか…?」
わたしの後ろで、こっそりリリアがささやいた。基本的に幅の狭い階段だ。先頭をシーマ、少し遅れてわたし、その後ろがリリア。という順番でここまで降りてきた。
「どうかな。でも、ログアウトができないのはリアルよね」
わたしは振りかえらずに、足も止めずにささやきかえした。
「まあでも、時間の処理がどうとか。HPゼロになると死ぬかもしれないとか。そのへんは今も、半信半疑ね」
「わたしなんだか、少し怖くなってきました」
リリアがふうっと息を吐いた。心なしか、体感温度がさきほどまでより少し下がってきているようだ。まあ、寒いと言うほど寒くもないけど。ちょっぴり肌寒い、くらいの。だいぶ地底深くにおりてきた、それもちょっとは関係しているのかも。
「まあでも、とりあえず、どこか。島を出る、出ないは別にして。ログアウト可能なポイントまで、とにかく行くしかないわよね」
わたしも深くため息を吐く。やれやれ。出だしからしてちょっぴり怪しい話しではあったけど―― まさかログアウト不可とか。そんなシビアな設定のフィールドたとかは、まったく想像もしなかった。とんでもない仕様のゲームだ、これは。
「でも。この島のどこかに、ほんとにいるのかな?」
わたしはふと、そんな言葉をつぶやいた。リリアに言うわけでもなく、特に誰かに言うつもりでもなく。
「お姉さん、ですか?」
階段を踏む足を止めずに、リリアが静かにささやいた。
「うん。わたしにとっては、ね。でも、」わたしは素直にうなずいた。「あなたにとっては、弟さん、よね?」
「…ですね。なんだか、だんだん、ここがほんとにゲームの中なのか、よくわからなくなってきました。なんだか妙な気分です。この階段―― なんだかどこか、別の世界に、降りていくみたいで」
「…言えてる。なんか、時間の感覚とかもぜんぜんわかんないし―― あ、見て!」
わたしは小さく叫んだ。
長かった階段が、少し先で終わりになっている。
階段を下りきったその場所は――
「湖、なの…?」
わたしは息をのんだ。大きい。先の方が見えない。
地底湖。おそろしく広い、地下の水たまり。
いま、リリアとわたしは方形に岩を削ってつくった小さな石の広場のような場所にいる。そしてその四角形の二辺は―― 深い水と、直接接していた。地下の岸壁、というのか。そこに五、六艘の朽ちかけた小さなボートが、紐でつないであった。地下の水がわずかに上下し、ボートをかすかに揺り動かしている。
「ここからは舟で行きます」
シーマがそう言って、器用な手つきで小舟を石の岸壁につなぎとめている古いロープをするするとほどいた。そしてそのまま60センチほど石の足場から浮上し、そのままきれいに平行移動、ロープを解かれた小舟のへさきの位置に移動した。
「まあ、じっさい僕はとくに舟は必要ないのですが。お二人は、モーション的に水上歩行はムリ、ですよね?」
「あたりまえでしょ! 歩行どころか。水泳アビリティとかも、わたしぜんぜん身に着けてないし! だいたいこんな地底湖で水泳とか! 考えるだけでも鳥肌立つわ!」
「では、乗ってください。ここからウトマまで、まっすぐ水路がつながっています」
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水は恐ろしく澄んでいて、その透明さに息をのむ。湖の底はそれこそ百メートルとかもっとさらに深いと思うのだが。その、いちばん底の底の部分までがここからクリアに見える。船のへさきにともされた小さく輝く魔法の炎が、はるか水底までを光の色に染めている。あきれた透明度だ。じっと水をのぞいていると、なんだかまるで自分が空を浮遊しているかのような。平行感覚が、なんだかおかしくなってくる。
ここでは特に誰もオールをこいだりとか、ボートを進める動作はしていない。それなのにボートはひとりでにするすると水の中を進む。オートパイロットという感じ? まあ、ゲームの世界でこういう演出はそれほど珍しくもないけど。まあでも、実際体験すると、やっぱりちょっと妙な気分。リアル世界の物理の法則が、こっちではあんまり当てにならない。人形キャラのシーマ君も、さっきからずっと、舟のへさきの上、20センチぐらいの位置に浮遊したまま。見た目の印象では、なんだか彼の発する見えない浮力が、この小さな舟を前へ前へと引きよせているように見えなくもない。
ちゃぷちゃぷした水音が、ここにある唯一の音。なんだかちょっと気分がしんみりしてきたから、何か景気良いBGMとかないのかな? と思ってユーティリティーウィンドウをひらく。でも、「背景音楽」の項目が、ホワイト表示になっている。選べない。音楽オプションが、どうもここでは、もともと用意されていないらしい。あきらめてわたしはウィンドウを閉じ、ボートの底に、ずしりと深く座りなおした。
「まったく。島に来る時も船で、またここでボートとか。こんなにも水上尽くしになるなんて、ゲーム始める前には、想像すらしてなかったよ――」
わたしがそういう無駄なひとりごとを言いかけたとき――
「ア、アリーさん!」
リリアが、いきなり横からわたしの肩をつかんだ。かなりの力で。
「なによ? どうしたのリリア?」
「下を! 今、ボートの下を、何か大きなものが横切りました!」
「ええ??」
わたしはボートのへりから身をのりだして、水の下をのぞきこむ。
影が。見えた。
おそろしく大きい。おそろしく長い。
それも、ひとつやふたつじゃない。すごい数。水底の岩の割れ目から、どんどん湧き出るように、次々にこっちにむかってせり出して――
あれは、何――
そのうちひとつを、ターゲット、してみた。そしたら表示が出た。
シー サーペント
LV 98 HP 24200
レベルが、98! HPが――
「ちょッ! なんでこんな、地下の湖に、海系のモンスターが、いきなりいたりするわけよ??」
わたしはなかば絶叫していた。その声は地下の空洞に大きく反響してわんわんと鳴り響いた。まるでその音に反応するように、水の下でうごめく影が、つぎつぎと体をくねらせて反転、そいつらが立てる波が、ボートを底から揺り動かした。
「ちょ、ちょっと。アリーさん。サーペントを刺激しないでくださいよ。もともと、特には好戦的なモンスターじゃないわけで――」
「だから! なんでシーサーペントが、海でもないこんな地下湖にうようよいるのかって、わたしは聞いてんのよ!」
「あッ! また数が増えました! もうこれ、二十とか、そんな数ではないですよ!」
リリアがわたしにしがみつく。ブルブル、身体がふるえている。まあでも、ムリない。こっちはレベルが3とか、13とかだ。相手はレベル90超で、しかもビジュアルはあんな、巨大なウミヘビ系―― しかもこれ、数、多すぎ!!
「この洞窟は、深い部分で海とつながっているのですよ。だから、海のイキモノも、自由に出入りをしています」
あくまで冷静にシーマが言った。
「ちょっと! それ、早く言いなさいよ!」
ザバッ!
揺れた。いま、巨大なサーペントの一匹が、ボートの底をかすめるように水中を横切った。ボートが大きく揺らぐ。波のしぶきが降りかかる。
「大丈夫。このあたりは、ウミヘビたちの巣になっているんです。でも、特にこちらから手を出さなければ―― って、あ、もう、アリーさん! ターゲットとか、やめてください。間違えて魔法攻撃とかしちゃったら、それ、タイヘンなことになりますから!」
「って、攻撃なんかしないわよ! ただ、HPとかのステータス見てるだけで」
「それも、リスクあるからやめてください! ターゲットの動作自体、間違えのもとです!」
「もう! だったら、最初からこういう危ないところ通りますから、とか。ちゃんとあなた、警告しといてくれたら――」
「うーん。困ったな。サーペントの何体かは、攻撃モードに入ろうとしてますね。これは何とかしないと」
シーマが言って、首を何度か左右に振った。それほど慌てた感じでもなく、ちょっぴり思案をしてる感じで。
「じゃ、二人は舟の底に座って。そこから動かないでください。僕が鎮めます」
「しずめる? しずめるって何よ??」
「静かに。ふたりは声を出さないで。そして動かないでください。これ以上、サーペントたちを不要に刺激しないように」
へさきの上、2メートルくらいの高さに浮遊し。
人形のその子が―― 目を閉じて。空中で静止した。
同時に舟も動きを止めた。今そこにあるのは、ザブザブと舟の横を打つ波音。澄み切った湖底からは、何十メートルもありそうな大蛇が、つぎつぎ湧き出して。たがいに絡み合いながら―― うねうねと、水のなかでのたくっている。ザブザブと、巨体がたてる多くの波が、舟を下から突き上げる。揺れる。揺れる! なにこれ。本気でもう、ヤバくない??
ただ1匹だけでも、たぶんしっぽの一撃で舟そのものを沈めてしまいそうなイキモノなのに―― それがもう、無数だ。ゲームとわかっているけれど。これはゲームと、心で何度も復唱しても。わき起こってくる恐怖感は、まぎれもなく本物だ。
「ねえ、アリーさん。あの子はいったい、今から何を――」
あたしの腕をギュッと握ったリリア。その腕を通して、その子の震えがこっちまで伝わってくる。
「しっ。黙って。声出すなって、言ったよあの子。ひとまずあの子にまかせよう。今はとにかく――」
あたしはリリアを黙らせて。
強く、その子の肩を抱き寄せた。あたしも怖い。正直言って。
空中に静止し、目を閉じたシーマの体が。
いま、かすかに白く光りはじめた。
白い光が、薄暗い洞窟内部にさざ波のように広がって。水の中にも、静かに深くしみてゆく。
そしてそのシーマが目をひらく。色素の薄い青の瞳が、どこか遠くに視点を定めた。
そして私が聴いたのは。
歌、だったのだと思う。
そう、それは歌。
シーマがつむぐ言葉の波が。不思議し静かなメロディーにのせて、世界の全部に広がっていく。何語の歌かは、わからない。あたしは外国語とか、ぜんぜんさっぱりわからないし。でもそれは、不思議とやさしい、息の音がたくさん混じったあたしの知らない言葉だった。歌詞はぜんぜん、わからない。けど。そのメロディーと言葉の感じが、あたしに伝える印象は――
~~ 誰も、誰ひとり見ることのない山の中の湖に、雨が、静かに降り注ぐ。湖面に波紋がいくつも広がって、けど、その波紋の広がる模様を、そこで見る人は誰もいないのだ。そういう、とっても寂しい山奥の―― とてもきれいな、水の上に降る雨のうた。
なんでなのかは、わからない。けどその、はかないイメージが、あたしの心に広がって。不思議と心が、凪いでいく。さっきまで心臓を激しく騒がせていた冷たい恐怖が―― そこから急に、消え去った。後に残ったのは―― とてもやさしい静けさと。そしてかすかな、悲しみと。あとそれと何か温かい―― あたしには名前を言うこともできない、とてもきれいで繊細な、静かな気持ちと。
「見てください! アリーさん、蛇たちが――」
リリアが舟から身をのりだして、そっちの湖面を指さした。
蛇たちが。
すべてが全部、動きを止めた。
何十という、絡みあい、うごめいていた巨大な長い化け物たちが。
しずかにそこで。ただ水中をただよいながら。その、ヘビたちのもつネコの目みたいな鋭い瞳――
そこには怒りも、何もない。ただ、静かに。見てる。水の中から。舟の上の空中で、歌うシーマの白い輝き。その小さなかすかな光の方を。すべてのヘビが。動きを止めて――
「何? ひょっとして聴いてる、の? このヘビたちも――?」
そうだ。たぶんきっと、そうみたい。
その、見るからに狂暴そのものの、錆び色のウロコにつつまれたウミヘビの化け物たちも――
じっと聴いてる。歌に、聴き惚れてるんだ。
ネコの目みたいな、表情のない、冷徹そうな蛇たちの巨大な瞳から。不思議と敵意が消えていた。
何十匹という巨大なサーペントたちが動きを止めたことで。さっきまでざわついていた水面も、波うつことをやめていた。歌はまだ、それでも静かに流れ続いて。シーマの体が発するかすかな白い光が。歌のメロディーの上下に呼応するように。わずかに明るく広がって、またかすかに光を弱めて。
「ん~。そうか。これってたぶん、マジックチャントの、一種って感じ?」
「チャント? それは何ですか?」
あたしのそばで、リリアがこっそりささやいた。
「敵や味方の状態を変える、魔法の歌スキル、みたいな感じだと思う。今のこの場合は、鎮静効果とか? そっち方向の、マジックチャントっぽい。なんかでも―― 魔法とかスキルとか抜きにしても。とってもいい歌ね。声もきれい。聴き惚れちゃう」
「なんだかドイツ語のようにも聞こえますね」
「…そうなの? リリアってば、あなたドイツ語できる人??」
あたしはちょっぴり尊敬の眼差しで、リリアの顔をのぞきこむ。
「いえ。なんとなく、です。音が、そんな感じに聴こえる気がするだけです。あたしも、歌詞はぜんぜん、わからないですから」
「さて。ひとまず、サーペントたちの攻撃モードは、解けたと思います」
シーマが―― 人形のシーマが、歌をとめて。音もなく、あたしのそばまですべるように移動してきた。
「ほら、見てください。帰っていきますよ。ほら、」
船のへりに降り立って、シーマが水の方を指さした。
大蛇たちが―― 潜っていく…? ぜんぶそろって、水底の方に。巨大な体をゆすって、くねって。けど―― 巨体に似合わず、とても静かに。ここの水面にまでは、わずかの波も立てない感じで。はるかに澄み切った深い深い水の底へ。散っていく。戻っていく。気の遠くなるような、深みの底へ――
「でもすごい。びっくりしたよ。シーマ君が、あんなすごい歌魔法、使えるなんて」
蛇たちの姿が、ほとんど視界から消えてから。あたしは言った。その彼に向けて。
「いえいえ。今のは僕が使える、数少ないスキルです。それほどたいしたものではありません。水ヘビ以外では、効果を与えられるモンスターの数も、それほどないですし」
人形のシーマが。わずかに口元をゆるめ、ふわっと笑った。
「じつを言えば、あれは僕の母が、昔よく歌っていた古い歌なんです。それを歌うと、水ヘビたちが静かになるって。前にここに何度か来た時、偶然わかったものですから。それ以前には、僕にそういうスキルがあること、自分でもわかっていませんでした。ほんとに偶然ですね、使えるようになったのは。でも、あの歌に限らず―― 水ヘビたちはなぜか、歌がとても好きなんです。静かなメロディーだったらば、どんなものでも、黙って水の中でしずかにいつまでも聴いているんですよ」
「ん~。。見た目はあれだね。見るからにヤバそうな、超ハイレベルなスペシャル危険度のモンスターだったけど。なにげに歌心がある、って。そういう設定なの…? なんかあれね。わりに深いね、このゲーム。そもそものゲームの作りが、なんだかとても――」
あたしはちょっぴり感心し、今はもう、水面からは遠くなり、視界の中から、もうほぼ消えようとしているその海系のモンスターの去り行く姿を―― ちょっぴりしんみり見送った。ヘビたちが消えた湖は―― 鏡のような静けさで。わずかに舟が上下に揺らす小さなかすかな波以外には。もう何も、ここで動きをつくるものはない。
「さ。じゃ、行きましょうか。地下水路はこの先、けっこう長いですからね。ちょっぴり急がないと、夜までかかってしまいます」
シーマが言って、ふたたび舟のへさきのポジションで、わずかに20センチほど浮上する。わずかに浮いて。視点を前に固定して。そのあと彼が、舟をすすめた。舟はしずかに水面を割りながら―― どこまでも奥行のある地底の湖を。まっすぐ進んだ。暗がりの下。まるでクリスタルみたいな澄み切った水の上。まっすぐずっとどこまでも。
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