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【 メ・リフェ島 最北端
「聖所の入り江」 】
垂直に近い角度で切り立った断崖を、
秘密の小道を伝って、三人は船着き場まで降りてきた。
リリアとわたしと、そしてまりあと。
深い岩場の底に、黒青色の石を刻んだ岸壁と、ささやかな入り江があった。
二艘の黒の小舟が、そこに浮かんでいる。
そのうちの一艘のロープを解いて、まりあがわたしに、乗るようにうながした。
海のうねりが、かすかにボートを下から上へと押し上げる。わたしは揺れるボートの上に立つ。リリアもとなりに乗りこんだ。
「じゃ、元気でね、カナナ。リリアも―― ごめん。ほんとの名前は知らないから、とりあえずそれで呼んじゃう。カナナもリリアも。あっちで、元気でね。もしもカナナがバカをやりそうでどうしようもない時は、ぜひ、リリアが、カナナを止めてやってね」
「ちょっとまりあ。わたしを何だと思ってるの??」
「冗談、だよ。もちろんあんたは大丈夫。そんな無茶は、しない、よね?」
「いろいろ、ありがとうございました」
リリアが律儀に頭を下げた。
「ここでいろいろ、してもらったこと。見せてもらえたこと。わたしは忘れず、全部、持って帰ります。」
「ん。そうしてくれると助かる。ついでにカナナも、あっちまでお願い。途中で引き返すとか言って、島に戻ろうとしたら、リリアが、殴ってでもいいから、とめてやってね」
「ちょっと! さっきから。最後のお別れなのに! そういう話、ばっかりじゃない!」
「ばか。あたしは涙とか、苦手なんだ。空気読みな。これでもムリして、こらえているんだぞ?」
まりあの声が、最後は少し、うらがえり、
大粒の涙が、金色の瞳の上に盛り上がった。
「元気で。カナナ。来てくれて、ありがとう」
「おねえちゃん――」
ふたりは強く抱き合った。雨が世界に降りている。冷たくもなく、暖かでもなく。温度を持たない中立な雨が、二人の身体にふりかかる。リリアもそばで、小さく鼻を鳴らした。
それからリリアが、舟をすすめた。
霧が出始めて、島は、まもなく霧の向こうにかすんで、やがてもう見えなくなる。今では見えるのは霧だけだ。白一色の世界。波がうねり、うねり、しぶきが舞って上下にボートを揺らせていたけれど、リリアはしっかりと前方に定めてボートを進ませた。
霧がひときわ深くなったところで、
ポンッ、という、いささか場違いな電子音が響き、
二人にどちらも見える形で、視界に赤字でメッセージが表示された。
『メ・リフェ島の近海フィールドから、出ようとしています。フィールドへの再エントリーはできません。本当に、フィールドの外に出ますか?』
リリアが指で、『はい』を選択しようと手をのばす。
「あ、待って、リリア!」
わたしは無意識のうちに、リリアの腕を強くつかんでいた。
「アリーさん…?」
「少しだけ。待って。まだ、押さないで」
「でも――」
そのときわたしの心に押し寄せてきた突風のような感情は、とても言葉では言い表せない。二つの声が、激しくそこでせめぎ合っている。戻れ、という声。戻って、まりあと、一緒に戦うんだ。ずっとずっと一緒に。二人で一緒に。ふたりはもう、離れたりは、してはいけない。ここに残るのよ、カナナ。ここがあなたの場所だよ。わからないの??
戻ってはダメ。もう一方の声が言う。あなたは、ここを、出て行くの。それが約束。それがまりあの、希望、でしょう。それはわたしの希望でもある。だから。戻ってはダメだ。そこはまりあの世界。そこはフォーの統べる世界だ。わたしの場所は、また別にある。そこで、わたしは戦うんだ。わたしはそこで。わたしだけの、わたしひとりの戦いを――
戻りなさい、カナナ。今ならまだ――
戻ってはいけない。行くのよ、カナナ。行きなさい。
「アリー、さん、」
リリアがわたしの腕を、そっと、しかし力をこめて、握りかえした。
「まりあさんは、行けと、いいましたよ。」
「うん。」
「だから。行きましょう」
「うん。」
わたしは泣いていた。
涙がもう、止まらない。止めることができない。
わたしは泣いて、涙で、のどを、つまらせながら、
それから大きく、腕で顔の涙を払い、
それから指で。左の腕を大きくのばし、その指の先で。
『はい』を選択。
警告メッセージは解消して視界はクリアになり、
ボートはいつしか、霧の外に出ていた。
空一面を雲が覆い、そこに太陽は見えなかった。
ふりかえると、そこには広漠とした海霧のおおう海域があった。
そのさらに向こうに、フォーの島が、あるはずだ。
でももう、戻れない。わたしはもう、そこに戻らない。
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【 パフィン海 北部海域 詳細位置不明 】
わたしはリリアにかわってボートの前に立ち、
ずっとずっと先、可能な限りの海の向こうを視線でターゲット。
ボートを前へ、進めた。見わたす限り、海の上には何もない。
ひたすらに暗い色をした陰気な北の海が、はるか先まで広がっている。
「アリーさん、出ました」
「え?」
「ログアウトのオプションです。ユーティリティーの選択肢が。ほら。生き返りました。点灯しています。抜けたんですね、本当に。わたしたちは」
「うん。そっか。出れたか。」
わたしは何だかドッと疲れて、舟の底に、座りこんだ。
「終わったんだね」
「はい。」
「ん。そうか。これで、家に、帰れる、わけか」
「あまり帰りたく、なさそうですね?」
「だね。うん。帰っても、あそこに誰もいないもの。暗い、みすぼらしい、安い部屋のみじめな暮らし。そこがわたしの家だから」
「でも、」
「ん?」
「あとで、ログアウトのまえに。住所とか。メールとか。教えて、頂けますよね?」
「うん。いいよ。もちろん。」
「ですから。少なくとも、誰かはいます」
「え?」
「わたしも、そこの住人ですから。同じ世界の、仲間です」
わたしはリリアを見返した。
リリアの、大きなつぶらな輝く瞳を、はじめてこの近い距離で、とても深く、いま、わたしは見つめて。そこにある光に。気づいた。きれいな目だと思った。とてもきれいな。
「うん。ありがと、」
わたしはリリアの右手を、わたしの左手で。そっと、軽く、触れて、それから静かに、包み込んだ。その手を握った。少し、強く。
「でもあれだね、リリア、」
「はい?」
「リリアは、けっきょく、一回も撃たなかったよね、それ」
わたしは視線を、そちらに振った。
リリアの背中のロングボウ。光のないこの雲の覆う海域の上でも、その弓は、見とれるくらい綺麗に輝く銀色だ。
「アーチャーなのに。一回も、撃たなかったね」
「撃った方が、よかった、ですか?」
リリアがわたしの顔をのぞきこむ。
「ん。いや、ちょっとね。今、言ってみただけ」
「もしあれでしたら、いま、海のどこかに向けて、撃ってみてもいいですよ?」
「いや。撃たなくていい。というか、たぶん、リリアはそれ、撃たない方がいい」
「…そうですか?」
「うん。たぶん、あれだね。役割とかって、それぞれ違ってて。ほんとの意味での武器で戦う、まりあみたいな役目もあって。でも、あたしとか。そしてリリアも。たぶん、また、きっと、別の何かがあるんだね。そこには別の戦いが。なんか今は、そう思う」
「別の――」
「うん。戦うっていうことは、何も、殴ったり、撃ったりするだけじゃなく。きっといろんな、戦い方がある。だから。リリアは、たぶん、撃たない方がいい。そういうキャラじゃ、ないんじゃないかな。たぶん。わからないけど」
「わたしはたぶん、ゲームとかは。あまり、向いていないと思います、」
「うん、」
「でも。ほかに何か、できることがあると思います」
「うん。」
「アリーさんも。」
「わたし?」
「はい。きっと何か、たくさん、できることがあるでしょう?」
「ん、どうかなぁ?」
「ありますよ」
「ある?」
「はい。あります。必ず」
「うん。そうかな。そう、思いたい」
「あります」
「うん、」
暗くなりゆく世界の中で、リリアとわたしは、
固く、しっかりと抱き合った。
波が、舟を揺らしたけれど。
風が、二人に吹きつけたけれど、
二人は固く、体をよせて。
長い時間、その海で。
どこでもない、そこで――
リアルと虚構と、そのほかのどこかの、ただ中で――
ずっとずっと、そこで。
果てしない世界の片隅の、その名前のない海の上で。
ふたつの魂は、いま、とても、近く。
とても二つは、近い距離で。
それぞれの温度を、とても近くで、感じていた。
とても近くに。もう、この指で触れられる、その近い場所に。