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「短い時間でしたけど、お二人と話せてよかったです」
エルナが言って、ニコッと目を細めて人形らしい綺麗な笑顔を作ってみせた。
ウトマの街の船着き場、湖に浮かべたボートに、いま、わたしとまりあとリリアの三人は乗りこんだところ。エルナとシーマは桟橋の上から見送ってくれる。
「今度来るときは、もっとゆっくり、家で遊んで行ってくださいね。小さい子たちもきっと喜びます」
「ちょっと、シーマ。」エルナがシーマをひじでこづいた。「もう、次はないのよ。二人はこれからリアルの世界に戻るのだから――」
「あれ? でも、もしリアルで、どこかで二人が、うっかり死んじゃったりしたら―― そしたらまた、もしかしたら、二人はここに、戻ってこれるかもしれないでしょう? フォー様が、ふたりを――」
「ちょっと! あまりそういう、縁起の悪いこと、お別れのときに行っちゃダメ!」
「あは。いいよいいよ。シーマ君の言いたいこと、わかるよ。シーマ君なりに、気をつかって言ってくれてるんだよね。」
ボートの上でわたしは笑った。
「いろいろ、ありがとう。もっとほんとは、ゆっくり話して、お菓子ももっと食べたかったけど―― またそれは、いつかね。もし来れたら。もし、また、機会があれば。」
「ありがとうございました、」
リリアが律儀に頭を下げる。
「とても綺麗なお庭で、心が癒されました。また、子供達とも遊びたいです。またいつか、来られることがあれば。その時は必ず、お邪魔します」
「じゃ、行くよ。舟を出す。落ちないように座ってて」
まりあがロープを解くと、舟は自然と水の上に滑り出す。
オールのようなものはなく、たぶん、舟のへさきの部分に立つまりあが、前方を視線でターゲットし、舟をそちらに進める仕組みっぽい。シンプルで便利な方式だ。
「さようなら」「さよなら!」
桟橋の上で、二人の人形が手を振っている。
エルナとシーマ。姉と妹が、小ぶりな白い腕を、ずっとずっと、振り続けていた。
やがてボートは渓谷の底の湖の奥深くへと。二人の姿は、もう、視界の中には見えなくなった。ウトマの街が、少しずつ、視界の奥へと遠のいていく。
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――おねえちゃん、
――ん? 何?
――むかしさ、潮干狩り行ったの、覚えてる?
――何? しおひ? 何?
――海にさ。三人で、貝、取りに行った。
――ああ、行ったね。行った行った。あのときはあれか。まだ、あの人がいたんだっけ。
――うん。まだ、親子だった。三人で、電車乗って。今だとハヤマってそんなに遠くに思わないけど、あのころは、なんだか世界の果てに行くぐらい遠く感じたよ
――うん。あたしは五歳かそこらで―― あんたは三つ、とかだったよね?
――うん。それぐらい、だったと思う。
――で、何? その、海が何?
――ううん。特には、何も。ただちょっと、思い出して
――まあ、あれね。考えてみると、あれが最後の、親子の思い出、か。あのあとずっと、あたしたちは、二人になった。あの人はもう、あたしたちを捨てて、二度とは返ってこなかった。
――でも。どうかな。捨てたの、かな?
――ん?
――わたし、ちょっと、思ったんだけど
――何?
――もしかしたら、同じ、だったのかもしれないよ。
――同じって何? 何と同じ。
――おねえちゃんと。
――あたし? なんで私?
――おねえちゃん、言ったよね。わたしを―― あんたを、巻き込むことはできない、って。できなかったって。だからひとりで、冬の海に――
――ん。つまり、あれ? 母親も―― あの人も、何かトラブルあって、それで、あたしたちを置いて逃げた―― そういう何かに、あたしたちを、巻き込みたくなかった、ってこと? そう言いたいの?
――んん。わからない。そうかもしれないな、って。今朝、ちょっと思っただけ。
――でも。きつかったよ。あのひと消えてから、あたしたち。毎日、食べるものもろくになくて。部屋に暖房もないし。寒かった。いつもお腹すいてた。お金もなかった。ろくに服も、買えなかった。熱いお風呂も入れなかった。ないものばかりで。そこのところは、やっぱりちょっと、許せない、かな。
――うん。別にそこは、許さなくても、いいと思うよ。きつかったものね。わたしも今でも夢に見るよ。
――夢?
――うん。おねえちゃんと、ふたりで。冬の部屋で。ずっと、二人で、座ってるの。日が暮れてきて、部屋はどんどん暗くなる。そしてどんどん寒くなる。でも、暖房ないし。照明もない。暗くなっていく、ゴミでうもれた冬の部屋で、二人でじっと、抱き合ってるの。抱き合ったままで、じっとじっと、座っている。そういう夢。今でもたまに、見たりする。
――そっか。うん。あれはでも、キツかったものね。うん。
――おねえちゃん、
――何?
――どうしてひとりで、行ってしまったの?
――行って? 何? あたし、今ここにいるじゃない?
――でも。本当のリアルでは。もう、おねえちゃんは、いない。
――ああ。それね。その話。でも、だって、それは今朝、いろいろ、詳しく、話した――
――でも。わたしは、お姉ちゃんに、行って欲しくなかった
―― ……
――生きていて、欲しかったよ
―― ……
――おねえちゃんには、ずっと、そばにいて欲しかった
―― ……
――家族、だもん。たったひとりの。わたしの、たった、ひとりだけの
―― ……ごめん、カナナ。きっとあたしは弱かったのよ
――うん。誰でも、弱いことはある。特に、そのことで怒ったりはしてない。だから謝ることはない。ただ――
――ただ?
――さびしい、よ。さびしい。ただ、それだけ。
――カナナ…
――ねえ、
――んん?
――こっちでは、さびしくない? お姉ちゃん?
――ここで? あたしが?
――そうだよ。ひとりで、こっちで。お姉ちゃんは――
――ん。どうだろう。でも―― さびしいとは、たぶん、感じていないと思う。
――…そう?
――うん。だって、あたしこっちでは、島守りって言って、いろいろ、島の子たちのために、戦ったりとか。役割があるよ。こっちで生きてる意味がある。誰かに頼りにされてる感じする。大事にされてる感じする。そういうの、あっちの世界ではなかった。リアルでは。全部が使い捨てで、あたしなんて、ゴミと同じの、道具に過ぎない
――そんなこと、なかったよ
――そういう世界に、あたしはいたの。だから……
――おねえちゃん……
――こっちでは、フォー様っていう、わりとまともなボスがいて。その人が、ここの、ちっちゃな綺麗な島を、すごく大事に考えている。その、まっすぐな、護りたい気持ち、あたしもけっこう好きだから。だから。
――………
――あたしも、あの、フォーっていう人の、大きなわがままというか。あの人がやりたいこと。大事に護って、つくりたいもの。つくって。そして。護り続けたい場所。そういうの、一緒になって、大事に、護っていけたらなって。ちょっぴり今は思ってる。使命、とかは、大げさな言葉はあんまり好きではないけど。でも。使命、かな。役割。やること。それは自分の生きる意味。ここに自分が立っている、その、正しい意味が。ときどき、あたしたちには必要だ。今は、だから、それがある。それは悪い気分じゃない。だから。あたしはここで、さびしくはない。仲間もいる。たくさんいる。みんな、お互い、お互いを必要としてる―― えっと。あたしはちょっと、しゃべりすぎてる?
――ううん。いいよ。しゃべって。もっともっと、声を、聞いていたい。でも、
――んん?
――おねえちゃんは、今、誰と戦ってるの? 敵は誰?
――ひとつじゃないわ。戦う相手は。いろいろ、敵がいる。フォー様のやり方が、気に入らない者がいる。この島の存在自体が、許せない者がいる。いろんなやつが、いろんなやり方で、フォー様のやりかたを否定し、ねじふせたいと。どこか遠くで思っているみたい。あたしには理解できないけど。でも。世界には、いろんなひねくれた考えをするヒトが、あちこちいるみたい。まあ、じっさい相手がヒトなのかどうか、それもよく知らないけど。まったく。迷惑な話だ。で、目下の敵は、グマ帝国、っていうことにはなっている。
――グマの帝国兵って、でも、あれはゲーム内のイベントでしょう? そんなに大事な、戦いなの?
――まあ、純粋にゲーム内だけのメカニズムなら、それは平気なんだけど。でもたぶん違う。外部に、それを、やらせている者がいる。本来このゲームの中で、アスフォニア大陸のグマ帝国は、この島には干渉しない。興味すら持たない、はず。もともとそういう設定だから。
――じゃあ、なぜ? なんでこの島で、戦闘とか?
――わからない。誰かが仕組みを書き換えてる。この島を潰したいのよ。手段はあえて選ばない。いろんなやり方で攻めてくるわ。前には別の敵がいた。その前にも別の敵が。戦いは、ずっとここで続いている。
――そんな…… この島の、いったい何がいけないと言うの?
――わからないわ。それは相手に、こっちが聞きたい。こんど、グマの皇帝を後ろで操ってるその根暗なボスをとっつかまえて、直接きいてやろうかしら。でもさ、カナナ、
――何?
――あんたは生きなよ、あっちで。
――ん。まあ、努力はする。
――あんたはたぶん、あたしより、もっと実際、強いところある。厳しい暗いあっちの世界でも、あんたなら、うまく、生き抜いていける。というか、生き抜いて欲しい。希望だ、あたしの。
――希望…?
――そう。希望。もうダメになって投げ出した、ダメダメのあたしだけど。そんなあたしにも、人なみに、希望くらいある。だから。それがあたしの希望だ。生きて。生きて欲しい。カナナ。おねがい。生きて。
――おねえ……ちゃん、
舟の上では、ずっと、そういう話をしていた。
リリアはうしろで、だまって、過ぎてゆく水辺の景色を見ていた。
あたしとまりあは――
そこでたくさん、話をした。とてもとても、たくさんの話を。
今までずっと、話せなかったこと。今までずっと、思っていたこと。心にずっと持っていたこと。隠していたこと。隠さなきゃいけなかったこと。
それをぜんぶ、そこで。二人ははじめて、言葉にした。
水の上を渡る風は少し冷たくて、空は曇りで、その向こうにあるはずの太陽は、一度も姿を見せなかった。舟はひたすら進み続けて、水はどこまでも舟を導いて、そしていつも、そこには風があった。風はわたしとまりあの髪を揺らせ、服のすそをパタパタと揺らせ、そして後ろに通り過ぎていく。でもまた新しい風が、前からやってきて二人の髪の揺らし―― 風はいつまでも、止むことはなかった。冷たい風だったけれど―― でもわたしはその冷たさの中に、何か本当の、世界のまっすぐな澄み切った本当の言葉が、そこにはきっと含まれている。そういう感じが、ちょっとした。世界の言葉は、どこにでもある。そこにも、ここにも、あそこにも。ただ、それを。わたしはここにいて、そのまま、感じていればいいんだ。そんな、よくわからない、漠然とした思いがわたしを包んだ。わたしは風に包まれて―― そしてその人の―― いまは確かにそばにいる―― そしてもう、また、まもなく二度と会えなくなる。その、いちばん大事なその人の、かすかな熱を、そばに感じて。舟は―― 舟よ、もうずっと、ずっとこのまま、水の上をはなれないでと。思った。舟。もう、ずっと。二人をこのまま。しずかな水の上に、このままずっと、つなぎとめていて。時間よ、止まれ。もうここで。この瞬間を。これだけをもう、永遠の絵としてフレームに入れて、もう、どこにも。どこにも遠くに、わたしのそばから、持って行かないで――
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舟をおりてから聖所に着くまでは、これということは何もない。
道のない急な崖の斜面をまっすぐに登って、そのあとは、荒涼とした山の尾根を、ただ北にむかって歩いた。リアルだと、こんな過酷な登山は都会育ちのわたしにはとてもムリだろう。でも、ここはあくまでバーチャル。一歩一歩は軽く、急な斜面を登っても息は切れない。行きたい方向をしっかりターゲットしていれば、足をふみはずすこともない。ただ、風景がうしろへと流れて行く。そういう感覚に近い。だから移動は楽だった。
途中から雨が降りはじめた。強い雨ではない。ただ、世界全部をおおいつくす、冷たくもなく暖かでもない、とてもニュートラルな雨だった。雨のせいで視界はあまり広くなく、山の尾根道から見えるのは、深い青色をした山肌と、足元の砂利と、あとは雲だけだった。話すことはもう、舟の上でほとんど話し尽くしてしまった。わたしは無言で、先頭を行くまりあも、あえてこちらを振りかえりはしない。いちばん後ろを歩くリリアも、一度も何も言わなかった。話題がない、というのもあるけど――
なにかこの、島の北側の山々には、なにか心を、厳粛にさせるものがあった。雨がふりしきる中、あまり言葉は、適当でないというか。しずけさこそが大事な場所、という感じがした。聖所、という言葉が、頭に少しあったからかもしれない。
とにかく歩いた。歩いた。雨の中を。でも、体はとくに冷えなかった。ゲーム特有の、視覚だけに特化したエフェクトだということもある。でも―― なにか、この雨には、慈愛とは言わないまでも、何か包み込むような、しずかなきれいな力がある気がした。根拠はない。歩きながら、わたしがただ、そう感じただけ。
やがて尾根道は終わり、そこから先は平たんな高原のような場所がひらけた。いつからか、足元に水があった。深さは足首くらいまで。あまり深さはない。水はおそろしく透明で、その下の岩の地面がそのままクリアに見えている。ふりやまぬ雨が高原のすべてに波紋を落としている。とても静かで、何の音もしなかった。そしてわたしたちは、「フォーの聖所」に、いつしか足を踏み入れていた。
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