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【 メ・リフェ島北部

     「色のない水」北端 】


「北の尾根」と呼ばれる岩がちな山々のもっとも北、山並みが海に尽きる所。

「フォーの聖所」はそこにあった。

 メ・リフェ島の北部のその場所では、雨が降り止むことはない。

 世界にこの島ができて以来、雨は一度も止んだことがない。

 と言っても、それほど強い雨ではない。

 傘をささずに長くそこに立っていたとしても、体をひどく濡らすほどではない。

 尽きない雨が、その場所にひろがる浅い水面に、無数の波紋をつくっている。「色のない水」と呼ばれるこの土地は、水深があまりに浅いため、水には覆われているものの、誰もが湖とは認識していない。そこはあくまで水に覆われた大地であり、南から北へ、また北から南へと、ここを歩いて渡ることには何らの支障もない。

 冬が来て島の峰々に雪がおりても、この場所に降るのはやはり雨だ。大地よりも空よりも、ここでは雨こそが、この場所にあるもっとも本質的なものであり、これからもそうであり続けるのだろう。「フォーの聖所」は、そのような土地にある。


 誰が最初にその名でここを呼び始めたのかは、今ではもうわからない。

 この島の主たるフォー自身は、自分を何か聖なる者だと考えたこともなかったし、ほかの誰かに、この場所を神聖視するよう命じたこともなかった。しかし―― 幾年もの風が吹きわたり、幾代もの雨が大地を濡らし、今では誰もが当然のように『聖所』とここを呼ぶようになった今、また新たに別の名でここを呼ばせよう、『聖なる』の文字を不使用にさせよう。などと、考えるほどにフォーは暇ではなかった。だから、呼ばれるにまかせていた。「フォーの聖所」。その響きは、最良の名ではないにせよ、それほど悪いというものでもあるまい。フォーはそのように考えていた。いや、考える、というほどに、じっさいには深く考えたこともなかったのだが。


 降りつづく雨の中、「島守り」のかしらをつとめるイーダという名の紫髪の娘が落ち着いた足取りで聖所の門をくぐった時、フォーは「黒の間」と呼ばれる高層の広間で、「人形」をつくっていた。人形づくりは根気と精神力を要する作業だ。ひとつ人形を作るたびに、フォーは自分の全身が固い石の床に何度も打ちつけられた後のような、重く冷たい痛みと疲労を感じ、立っていることすらつらいと感じたが、そのつらさを、あえて周囲の者に訴えるつもりもなかった。言って痛みがやわらぐわけでもないし、誰かの同情が欲しいわけでもない。

 ただ、やはり疲れる。とても重い疲労感。これは何度経験しても変わらない。

 フォーのいる『黒の間』は、その名の通り、広間の全部を暗黒が覆っている。初めて入る者の目には、黒一色の虚無、とも見えるであろう。しかしフォーは、繰り返される日々の大部分の時間を、この黒の間で過ごしてきた。だからフォーには、見えている。フォーは知っている。ここは単なる、闇だけの広間ではない、ということを。

 蝶だ。

 幾万もの蝶が、舞っている。

 蝶の色は黒。闇にまぎれてその形を見ることは難しい。

 難しいが――

 フォーは、五感で、その形を捉えることができた。

 五感のうちのどの感覚が、実際に蝶の存在をフォーに知らせてくれるのか。

 それはフォー自身にも、言うことができない。

 ただ、わかった。フォーにはわかる。

 そこに、彼らがいるのだと。

 そこにはつねに、彼らが、舞っている。

 フォーは暗闇の中に手を差しだし、

 ひどく繊細な、かすかななめらかな動きでもって、

 その、幾万の蝶のうちの、ひとつを、かすかに、指先でつかむ。

 壊してはいけない。けっして壊したり、脅かしてはいけないものだ。

 ただ、触れる。ただ、そっと、指の先で、その蝶に向かって語るのだ。

 なんじ、移行する魂よ。

 なんじは、形を、欲するか。

 なんじは、生を欲するか。

 生きたいと、願うのか。

 ここで形を。生を。ふたたび輝かせたいと。

 おまえは確かに、思うのか。

 蝶よ―― 

 フォーの指は、このように語る。

 そして蝶は、答えるのだ。

 生きたい、と。

 その答えを、フォーの指は待っている。

 指はそれを受け止める。

 フォーが命をつかまえる。

 そして――

 闇の中に、光が生まれる。

 それは白い光。

 光は徐々に輝きを増し――

 いつしかフォーの両腕は、光り輝く人形――

 人間の美と端正さを小さく凝縮したそのデザイン、

 人とは呼べない、人以下ではある、

 しかしたしかに、美しい、その小さな人形を。

 フォーは、闇の中から抱き取って、聖所の冷たい石の床に、

 世界で最も高貴なる宝石を扱うのと同じ、最大限の敬いの手つきで、

 しずかにフォーは、人形を置く。

 そしてフォーは身をかがめ、その人形の唇に、かすかな口づけを与え、こう言うのだ。

 さあ、おまえは再び、自由。

 行って、生きなさい。

 ここはお前の島。いかなる他者も、ここではおまえを傷つけまい。

 移行する魂よ、移ろいゆく者よ、

 生きよ。ここで。心ゆくまで。

 ここはおまえの島なのだ。

 その命、ふたたび尽きて、闇がおまえをふたたび捉える、

 その、抗い難き破壊のときまで。島が、おまえを護るだろう。

 さあ、立ちなさい。

 わたしの愛しき、わが島の子よ――



###################


「また、成形の儀式ですか。体がよく、もちますね」


 声が鳴った。


 儀式を終えて朽ちかけた体を引きずるように階下の謁見の間に戻り、

 しばしの休息の淵の底でまどろんでいた、小柄な少女の肉体を持つ、聖所の主。

 フォーが、ようやく視線を上げた。

 そこにひとりの島守りの娘が立つ。

 薄紫の長い髪を無造作にたなびかせ、体の線にぴたりと合った黒の短衣は、きわめて東洋風のデザインだ。三つの「カタナ」を背中に帯びたその長身の娘。

 名前はイーダ。「島守りの長」の称号を持つ。その東洋風の剣を振るわせたら、イーダを凌駕できる相手はおそらくいない。今まで誰にも負けたことはないし、これからも負けるつもりはない。娘はそのように、とても単純に考えている。

「東浜、シュメーネ河口で戦っていたメルダとウィルジーナから、報告がありました」

「聞こう、」

 フォーが奥の台座からおりてきた。流れたなびく黄金の髪が、薄暗い謁見の広間に光を放った。先ほどの儀式の疲労が、ぬぐいきれない重みとなってフォーの表情を鈍らせている。が、特に気分が悪い、ということもない。ただひどく、疲れているだけだ。

「報告。島の脅威は排除されました。グマの侵攻軍は全滅、です」

「うむ。よくやってくれた」

「しかし、まだ終わっていないんですよ。これがね。」

「と、言うと?」

「増援が。海を超えて、十六個師団の規模で軍船団が新たに接近中との情報」

「多いな、それは」

「敵も、飽きないですね。そして懲りない。まあでも、今回レベルの兵士らであれば、我々の敵ではありません。ただ、それを上回るレベルの兵で軍勢を組んで攻めてきた場合には――」

「ちと、やっかいだな」

「はい。あまり楽観はできません。まあ、だからと言って悲観もしていませんが」

「うむ。護るしかあるまい?」

「はい。その通りです。シンプルです。選択肢はない。戦いましょう。そして勝ちましょう。勝てます、おそらく、私たちは。」

「島守りを、召集。」

 フォーが、円形の大窓の外に煙る、水に覆われた大地の彼方に。感情の読めない、金色と深い赤の入り混じった小さな瞳をそちらに向けた。

「連戦につぐ連戦で申し訳ないのだが。私には、おまえたちを頼る以外に術がない」

「ご心配には及びません。我ら、全力を尽くしてお護りしますよ。ではすぐ、召集をかけましょう」

「しかし、あれだな。ヤンカは、今――」

 思い出したように、フォーが言う。

 視線を広間の中に戻し、初めてイーダの方を見た。

「妹と面会中、ですね」

「む。大事な時間だな」

「でも。戦力的に、ヤンカが抜けるとキツいです」

「では、呼ぶか?」

「はい。ちょっぴり、気の毒ですが――」

「ふむ――」

 フォーは少し、迷ったようだ。視線を下げて、自分の両手を、右、左、右と、かわるがわる目で追った。まるで手の中に残った、蝶たちの羽根の軽さ、あるいはその羽根の重さ。それをあらためて、記憶の底から思考の淵へと呼び戻すかのように。




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【 メ・リフェ島中部

    ヒョルデ渓谷内 工房都市ウトマ 】


 行かなきゃダメだ、とまりあは言った。

 その朝、ようやく二人は会ったばかりなのに。

「召集がかかったの。島守り全部が、フォーの聖所に。行かなきゃならないわ」

 ヤンカのビジュアルの姉のまりあ。小麦色に光る大きな瞳を鋭く細めて遠くを見た。

 子供達の家の庭、芝生の上に毛織のラグを広げてテーブルがわりに、みんなが朝食をとっている時のことだ。まりあはティーカップの紅茶を一気に飲み干し、立ちあがった。

「あんたたち二人は、すぐにも島を出た方がいい。ここに長居すると、また戦闘に巻き込まれる」

「ええ! そんな。だって、やっと会えたのに」

「ぐずぐず言ってる暇はない。今ならまだ、西側のラシーデの浜から小舟で出られる。そっちの海は、まだしばらく安全」

「でも――」

「『でも』も『だけど』もない。万一ここで何かあったら、あんた、ほんとに死んじゃうんだから。世界から消えちゃう。あんたのそのレベルじゃ、防戦とかもムリそうだし―― ん?」

 まりあが視線をわたしから外した。どこか、視界の左下のあたりを見て、そこに指をもって行く。そこにたぶん、何かのポップアップ・メッセージが出たのだろう。

「またメッセージ来た。えっと… 何?」

 まりあが一瞬、みけんに眉をよせて難しい顔をつくった。

「『ヤンカ・ヤンカは、フォーの聖所まで「リリア」を送り届けること。家族との面会に関して、フォー様が、直接リリアに話をしたいと言っている』だって。へえ。珍しい。フォー様が外の誰かに会うなんて」

「えっと。では、私はどうすれば?」

 リリアが横からきいた。トマトとツナのサンドイッチを食べる手が、すっかり止まっている。

「ん。あなたは、じゃ、今から移動ね。あたしがそこまで送って行く。ちょっぴり距離はあるけど。まあでも、そんなにすごい遠くというほどでもないわ」

「ちょ、ちょっと、おねえちゃん! わたしはどうなるのよ!」

 わたしは全力で抗議した。

「あんたは、そうね。この、人形の子たちの案内で、このあとラシーデの浜まで下りなさい。そこから舟で――」

「嫌だよ!」

「嫌とか、言わないの。これね、あんたの命、かかってる話よ?」

「わたしも行く! その、なんとかの聖所!」

「行かせない。そっちに行くのは、リリアだけ。あんたはすぐに島を出る」

「出ない!」

「出なさい」

「出ないから!」

「って、もう、あんたが頑固なのはわかってたけど――」まりあがバリバリっと右手で頭をかきむしった。「こんなときにまた、姉妹ゲンカか。相変わらず感心な姉妹だわ、あたしたち」

 まりあが唇のはしで笑い、それからまた、ウィンドウを呼び出して、右手の指で何か操作した。そのあと真剣な表情で、そこに表示された何かを読んでいる。

「いちおう、許可、とった。あんたも、一緒に来てもいい。」

「ほんと? よっしゃッ!」

「ただし、リリアの用事が済みしだい、二人はすぐに、聖所の北の船着き場からすぐさま島を出る。これが条件。長居はできない。あくまで、リリアの用事が終わるまで、だよ」

「わかった。でも、じゃ、それまでは一緒だね!」

 わたしはまりあの腰に飛びついてギュッと強く抱きしめる。バーチャルだけど、バーチャルなりの姉のぬくもりとやわらかさを感じる。もうこれ、放したくない!

「ったく。こんな非常時に、べたべたなつかれてもねぇ」

 まりあがグシャグシャとわたしの髪を乱暴になでつけた。

「さ、じゃ、行こう。移動するよ。フォーの聖所」



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