第1話「ほら、休日に知り合いに会った時とか、他人のふりするでしょ」
停滞する高校生活のある日、英国帰りの幼なじみの芽愛が突如転校してくる。主人公の高明の日常は、少しづつ変わり始める。
六月中旬の月曜日、通学時間。
「……日曜日が終わるのって、早いよなあ」
昨晩は夜更かししたので、少々眠い。眠さを押し殺しながらも、通学路を歩く。
「……また、代わり映えもしない一週間が始まるのか」
そんなこんなで、いつしか死ぬんだろうな。
「……今日も、相変わらず高いな」
いつものようにそびえ立つ摩天楼、いつしかそこに建っていた摩天楼。
「……プラネット……タワー」
下町には似合わない近代的なフォルム。
「……いつ頃に建ったんだっけな」
小学生低学年の頃は、確かに建っていなかった。気が付いたら、いつの間にかにそこにあったという感覚が強い。
「……えっと、今は高二だから」
恐らくは、小学校高学年くらいから、中学生くらいの間に完成したのだろう。
「……あいつがいなくなったのも、それくらいの時期か」
まあ、今となっては赤の他人か、連絡すら取っていないし。
「おはようございます!」
見慣れた女生徒による、朝の挨拶。当然、自分に対するものではない。
「……校門の前か」
いつの間に、ここまで来ていたようだ。
「おはようございます、あっ、おはようございます」
彼女は今日も相変わらず、四方八方、せわしなく挨拶の言葉をばらまいていく。
「……初台……立英」
本当に、愛想が良いよな。
「……生徒会、か」
彼女は生徒会に属している。この愛想の良さはそこに裏付けがある。
「……本当、可愛いよな」
更に彼女は、整った目鼻立ちであり、スレンダーでもある。競争率はかなり高そうだ。
「……僕には、関係が無いことだ」
彼女の挨拶の言葉が、僕に向けられることもないのだろう。クラスも違うし、面識もないし、まあ当然だ。
「……ラノベアニメじゃ、あるまいしな」
現実は、ラノベアニメのように都合よく展開しない。理想的な女子と交流できるなんてイベントは起きるわけがない。
「……別に、悲観すべきことでもない」
恐らく、彼女と僕、今後も接点が生まれることはないと思う。別に悔しくもない。それがありのままの現実なんだから。
「西原さん、おはようございます!」
「……」
……僕の名前は西ヶ原高明。断じて西原さんではないので、僕に挨拶の言葉が飛んできたわけではない。
「……それに、女子みたいだしな」
彼女が声を掛けているの対象は女生徒だ。僕の方など、全く見向きもしていないじゃないか。
「……教室、行くか」
下駄箱で靴を履き替えて、二階にある教室を目指す。
ざわ……ざわ……ざわ……ざわ……
「……なんだろう、騒がしいな」
突如として、異能バトルでも始まったのかな。
「……僕はモブというわけか」
異能バトルが始まったとしても、その主役は僕ではないのだろう。
「お! 高明!」
階段を上がり終える頃。
「おはよう、小村井」
「……おはよう」
彼の名前は小村井。クラスメイトの一人。
「お前、見たか?」
「……何を?」
「その返事で、見てないってわかったよ」
「……何があったんだ?」
「実はな……」
ヒソ……ヒソ……ヒソ……
「……金髪美少女?」
「ああ、謎の金髪美少女が現れたんだよ!」
……あいつも、金髪だったな。
「……それでこの騒ぎか」
「ああ、うちの制服着てたし、もしかすると転校生かもしれないな!」
「……なるほど、その可能性はありそうだな」
「もし転校生なら、うちのクラスだといいなあ」
「……教室で待とうか」
「ああ、 教室で待ってようぜ!」
「……うん、そうしよう」
……ここまで、はしゃげるものかな。
スタ……スタ……
二年二組の教室。
「……そんなに、都合の良いことがあるのかな」
何年生かもわからないし、可能性はそこまで高くはない気もするが。
「……よいしょっと」
教壇から見て、一番右奥の窓側の席。ここが僕の指定席だ。
ビュー…………
窓が開いているので、程よく冷たい風が入ってくる。そろそろ夏という感じの時期なので、窓側の席は悪くない。
ざわ……ざわ……
一つ手前が、小村井の席。しかし席には着いていない。
「……よくもあんなに、話し続けられるよな」
小村井は教室の真ん中の方で、興奮気味に話している。またも、例の転校生の話で盛り上がっている様子だ。
「……真似、できないよな」
僕は、長い時間話すことがそこまで得意じゃない。皮肉を抜きにして、ここまで話し続けられる小村井は凄いと思う。
トコ……トコ……トコ……トコ……
「……来たか」
担任の中神先生が教室に入ってきた。
「はーい、みなさん。ホームルーム、始めますよー」
教壇の上から、清涼な声が教室中に広がる。
ガヤガヤ……ガヤガヤ……
「……まあ、いつものことか」
小村井含めた何人かが、まだ会話を続けている。
「こら、小村井君、席に着かなきゃダメよ」
「あ、先生、ごめんなさーい」
小村井は、悪びれずに席に戻ってくる。
「……悪意は、無いんだろうな」
話し続けると止まらなくなるというか、純粋に話に夢中になってしまって、先生が来ても気が付かないのだろう。
シーン……
「……まるで、台風の目だな」
うちのクラスの男子は、小村井が中心になって会話することが多いので、自然の成り行きだな。
「はい、それでは気を取り直して、ホームルームを始めたいと思います。それでは出席を……じゃなかったわね……」
あれ、出席確認じゃないのかな。
「出席確認の前に、皆さんにお知らせがあります」
これは、いつもと違う展開。ホームルームはいつも、出席確認から始まるのが基本なのだが……
「なあ、高明、やっぱり……」
小村井が後ろ側、つまりは僕の方を向いてきた。やはり思うことは同じだな。
「……小村井の言う通り、転校生かもな」
「だよなぁ!」
……声のボリュームに、気を付けて欲しいものだな。
「こら、小村井君」
しかし、中神先生の声は天使のようだな。
「あ、先生、ごめんなさい!」
またも悪気はないのだろう、最初は声のボリュームを抑えていたし。
「小村井君、気を付けてくださいね。えーっと、転校生の話だったわね……」
「転校生!」
……懲りないなあ。
「小村井君……まあ、しょうがないわね……」
中神先生は諦めた様子。小村井がこうなのはいつものことだし、仕方がないだろう。
「はい。本日から、転校生がうちのクラスに転入します。神楽坂さん、どうぞ」
ん? 神楽坂? なんだか聞き覚えのある名字だな。昔見たカードゲームアニメのキャラクターに、そんなのがいた気がする。
「はい!」
……この声、どこかで。
ガラガラガラ……
「……見覚え、あるんだよなあ」
金色の長い髪の毛を揺らしながら、例の転校生は教壇へと上がってくる。小村井が言っていた女子のようだが。
「……矢野口、権莎」
そうだそうだ、好きな恋愛ゲームのヒロインに、こんなフォルムの女の子がいたな。だから見覚えが……
カリカリ……
「……チョークの音か」
転校生の女子は、自分の名前を黒板に書く。
「神楽坂・アースキン・芽愛です。家族の都合で、英国から転校してきました」
……あれ、アースキンって、どこかで聞いたことがあるような。
「色々慣れない部分あると思いますが、今日からどうもよろしくお願いします!」
……英国、金髪、碧眼。
ざわ……ざわ……ざわ……
「……神楽坂……アースキン……芽愛」
転校生と黒板を、交互に見つめる。
「あ!」
「こら、西ヶ原君!」
「あ、ごめんなさい……」
思わず席を立ちあがり、あいつを指差して声を上げてしまった。全くの無意識だった。
「……やらかした」
迂闊だった。みんなから注目を浴びるようなことをしてしまった……
「ん? 西ヶ原……」
あいつ……いや、芽愛が、明らかにこちらの方を凝視している。
「どうかしたの、神楽坂さん?」
「ねえ、中神先生。今の西ヶ原君って人の下の名前、高明……だったりしますか?」
「え? あ、うん。彼は西ヶ原高明君よ。何で知っているの?」
「いや、なんとなくです」
「……なんとなく知ってることって、あるのかなあ」
「まあ、あまり気になさらないでください」
「あ、うん……」
ダメだ、こちらまでは声が聞こえてこない。一体、何を話しているのだろう。
「……」
芽愛は改めて、こちらに視線を向ける。
「……あっちも気付いたのか」
やらかした、あんなことをすればバレてもおかしくないよな。
「……視線、外れたな」
……いや、バレたと考えるのは早計かもしれない。
「えーっと……気を取り直して……皆さん、神楽坂さんと仲良くしてあげてください」
「「「「「はーい!」」」」」
……小村井、一番張り切ってるね。
「神楽坂さんの席は、えーっと……西ヶ原君の横の席が空いてるから、そこにお願いします」
「はい、わかりました!」
芽愛は、こちらの方に向かって歩いてくる。クラスメイトはみな、芽愛に注目している。
「おい、高明、隣の席だってよ……」
「……ああ、そうだな」
全く気が気でない状況。正直、小村井と話している場合ではない。
「お前、さっきからどうした? なんか様子が変だぞ?」
「……いや……なんでもないよ」
「そうか、ならいいけどさ……」
そんな間にも、芽愛は僕の隣の席まで来ている。芽愛は鞄を置き、黙々と席に着く。
「……」
黒板の方をただ見つめる芽愛と、その芽愛を凝視する小村井。
「……」
芽愛は、特にこちらに気をかける様子もなく、そのままホームルームは終了した。
※ ※ ※
「……心配、しすぎたか」
芽愛がこちらの正体に気が付いたというのは、どうやら思い込みだったようだ。
「……何も、言ってこないもんな」
ホームルームの後、一限目へと授業は続いたが、特にあちら側からのアクションはなかった。
「……しかし、人気者だな」
一時限目の後の、十分休憩の時間。クラスメイトたちのトレンドは、当然ながら、芽愛……いや、転校生の神楽坂さんであった。
「英国から来たって本当? その割には日本語上手すぎない?」
「うん、昔は日本に住んでたから」
「髪の毛綺麗だね!」
「うん、お母さん譲りなんだ」
芽愛は、次々と来る質問をテキパキとかわしてゆく。
「……人気者、確定だな」
ルックスも悪くない、初日からの掴みはバッチリという様子である。
「……しかし、あの芽愛がなあ」
僕は芽愛……いや、神楽坂さんを知っている。
「……」
今知ったとかではなくて、前から知っていた。子供の頃によく、芽愛と一緒に遊んでいた。それこそ、家族ぐるみの付き合いだった。
「……間違いない」
人違いということは多分ない。母親譲りの白い肌と青い眼、底のない明るさ。
「……名前も、完璧に合致する」
彼女は間違いなく、僕が幼き頃に遊んだ、あの芽愛である。
「……だが、あっちは気が付いてない」
芽愛が気付いていない以上、僕としてはクラスメイトの『神楽坂さん』として接するつもりだ。
「……これでいいんだ」
馴れ馴れしく、こちらから声をかけるなんてことはしない。転入先の、西ヶ原高明という一クラスメイトとして、接するのみだ。
「……目立つのは……本意じゃない」
今までに出来上がったクラスの空気を壊してまで、僕は名乗り上げたりはしない。
「……本当に、失敗だった」
さっきの紹介の時は本当に迂闊だったが、多分大丈夫だろう。
「……休憩時間、もうすぐ終わりか」
※ ※ ※
昼休憩。
「……やっと、飯が食える」
二時限目以降の合い間の休憩時間にも、芽愛の周りにはクラスメイトが集まっていた。
「……何もしていないのに、疲れた」
あの後、ずっと芽愛のことを気にしていたからな。
「……さて、どこで食べようか」
今日は購買でパンを買ってきた。いつもなら、小村井やクラスメイトと一緒に食べたりするが……
「……教室、誰もいなかったしな」
今日は一人で食べることになりそうだ。まあ、気楽で良いことだ。
「……屋上でも、行こうか」
※ ※ ※
「……ご馳走様」
所詮は購買のパン。不味くも旨くもなかった。パンの空き袋をビニールに詰め込む。
バンッ!
「……誰か来たのか」
昼休みの屋上の利用は禁止されていないので、特段慌てることもない。まあ、一人だけの空間でなくなってしまうのは、ちょっと残念だが。
「……まさに、青天だな」
澄み切った空、大自然は本当に素晴らしい。
「ねえ! あなた高明でしょ!」
「……え、あ……え?」
「高明?」
「め……神楽坂さん?」
「なによ、その他人行儀な呼び方」
……しまった。急に声を掛けられたので、対応策を考えていなかった。
「ねえ? 聞いてるの? 高明」
どうやら、僕の最初の勘は的中していたようだ。芽愛は僕の正体を分かっている。
「……なんで、ここに」
「なんでって、みんなに聞いたのよ」
みんなに聞くなんて、行動力凄いな。僕はそう軽々と人に道案内は頼まないから。
「って、やっぱり高明なのよね?」
「……はい、そうですね」
まあ、隠すのは最初から無理だったか……やはり僕は詰めが甘い。
「やっぱり、高明なんだ!」
むぎゅっ……
「ちょ……」
芽愛の身体の成長を肌で感じる。芽愛はもう女性なのだと実感する。
「わー、高明だー、高明だー」
芽愛はまるで子供のように、いや、子供の頃と同じように、無邪気にも僕の身体を抱きしめ続ける。
「……おい」
僕の様子などに気にも留めずに、七年分の成長を極めてわかりやすく伝えてくる。これはなかなか不味いものある。
「高明だー」
こういうことに免疫がないので、もうなんか色々とヤバい。なんか女の子みたいな香りもするし。
「ちょっ……体が痛い」
本音とは違う理由で、解放を促してみる。
「あ、ごめん高明。七年? ぶりの再会に、つい興奮しちゃって」
芽愛はそう言うと、僕の身体を解放する。
「……ああ、別に大丈夫だよ」
色々とヤバかったけどね……痛み以外の部分で……
「よかったー、ほんとにごめんね」
「……大丈夫」
芽愛は七年前から何も変わらないな……あの時のまま成長した感じだ。
「高明、だいぶ変わったね」
「……そうかな?」
「うん、身長がかなり高くなったし」
「……180センチはあるかな」
……まあ厳密には、179だけどな。
「そりゃ大きいわけだね。あと、雰囲気も変わったね」
「……そう?」
「うん、なんか堅苦しくなっちゃったね」
「……よくわからないな」
「その話し方なんて、まさにそうだよ」
「……そうなの……かな?」
「うん、絶対に堅苦しくなったよ」
「……それで、よく僕だとわかったね」
「そりゃ分かるよ、あんなに露骨に驚くんだもん。先生に名前聞いたら高明だって言うし」
そうか、あの時に僕の名前を聞いていたんだな。やはりそうだよな……見通しが甘すぎた。
「あと高明、最初他人のふりしようとしてたでしょ?」
名推理。まさにその通り。
「いやあ……あれはその……」
必死に言い訳を考えるが、頭に沸いてこない。
「まあ、いいんだけどさ」
「……そうか」
「うん」
こういうドライなところも、昔のままだな。
「……そろそろ、時間ヤバいんじゃないかな?」
「ん? 時間?」
もっと直接的に伝えるべきだったか。
「……昼休憩そろそろ終わるし」
「あ、じゃあ戻らなきゃだね」
「……うん、あとさ」
「なによ、高明?」
「……クラスの中では、西ヶ原君って呼んでくれないか?」
「え? なんで?」
せっかく出来上がったクラスの空気をぶち壊したくないからです。
「……いやあ、その、なんか恥ずかしいしさ」
まあ、そんな感情は全く持っていないが。
「理由がよく分からない、恥ずかしいってどういうこと?」
変に白黒つけたがるな……英国育ちが影響したのだろうか?
「……いやあ、その」
「なに? ハッキリ言ってよ。理由次第では、ニシガハラ君って呼ぶこともやぶさかじゃないから」
こりゃ、逃げられそうもない。不本意だが仕方がない。
「……クラスの空気をぶち壊したくないんだよ」
「クラスの空気?」
「……僕のキャラってのが、クラスの中では既に出来上がってるんだよ。そんな中で芽愛と幼なじみなんて知れたら、台無しだろ?」
「よくわからないけど……ふーん、それなりに事情はありそうだね」
おっ……押し切れるかな……
「いいよ、ニシガハラ君って呼んだげる」
「……ご理解ありがとう、僕は神楽坂さんって呼ぶから」
「神楽坂さん? やっぱり他人行儀な感じだなあ」
「……じゃあ、なんて呼べばいいんだよ?」
「いや、特に対案はないけど」
「……じゃあ、神楽坂さんって呼ぶよ」
「いまいち釈然としないけど、対案が用意できない以上は、仕方がないか。いいよ、神楽坂さんで」
「……あと、もう一つお願いがある」
「まだあるの?」
「……ああ、僕のことはクラスメイトの西ヶ原君として接してくれ」
「それもさっきの理由?」
「……ああ、そうだ」
「ずっとそう接しなきゃダメ?」
「……基本的にはそうだね」
「二人でいる時くらいはいいでしょ?」
「うーん……」
「じゃなきゃ、西ヶ原君とも呼ばない」
くっ……これも仕方がないか……
「……分かった、二人でいる時は幼なじみの西ヶ原高明として接していいよ。呼びも西ヶ原君じゃなくていい」
「高明はなんて呼んでくれるの?」
「……え?」
「二人でいる時はなんて私のこと呼ぶの? 芽愛? それとも神楽坂さん?」
「神楽坂さ……」
「芽愛って呼ばなきゃ交渉には乗らない」
「……どうしてもか?」
「どうしても」
「……本当に、どうしてもか?」
「じゃなきゃ高明困るんでしょ?」
くそ……仕方がないか……
「……わかった」
「よし、交渉成立だね」
「……ああ」
「普段はクラスメイトとして接する、呼び方もそれで合わせる。でも二人の時はこれまでのまま、呼び方も同じく、これでオーケー?」
「……ああ、オーケーだ」
「じゃあ、これからよろしくね、高明」
「……ああ、よろしく、芽愛」
「じゃあ教室戻ろうか、高明」
「……あ、ちょっと待ってくれ」
「まだなにかあるの?」
「……別々に、戻ろう」
「あ、そういうことね、分かった」
こうして、七年ぶりの幼なじみとの再会イベントが終わった。これからの学校生活、どうなるのか不安だ。
※ ※ ※
「じゃあ、ここで別れようか、高明」
「……うん、そうしよう」
屋上から出るための扉を開け、二人で階段を降りたところで、芽愛が別れを切り出してきた。
「あれ、高明君じゃない?」
芽愛とはルートを分けて教室に戻ろうとした刹那、聞き慣れた声が耳に入ってくる。
「朱苑、先輩?」
「ん? 高明?」
僕は、その声の持ち主を知っていった。
「やっぱり高明君だあ、こんなところで何していたの?」
「あ、昼食を食べていたんですよ、朱苑先輩」
「そうなんだあ、それで、この人は? 見かけない顔だけど」
「今日、僕のクラスに転校してきた神楽坂さんですよ」
「転校生さん? 神楽坂さんっていうのね?」
「はい、神楽坂・アースキン・芽愛って言います。今日から転校してきました。ええと、あなたは……」
「あ、自己紹介がまだだったわね、私は王子朱苑。三年生よ。高明君が入っている新聞部の部長をやっているわ」
「新聞部、そんなものに入っていたのね、こうめ……西ヶ原君」
「あ……うん」
こいつ、今高明って言いそうになったな……先行き不安だな……
「それにしても高明君やるわね。一日で転校生、しかもこんな可愛らしい娘と仲良くなっちゃうなんて。一緒にお昼ご飯食べていたの?」
「あ、いや、それは、その……違います。ちょっと道案内していただけです」
「道案内? ふーん」
朱苑先輩は頬杖をついて、僕たちのことを見回す。
「そうなんだ、道案内ね。やっぱり高明君優しいわね」
「いえ、そんなことないですよ。人助けは人間として当たり前のことです……」
「まあ、そうかもしれないけど、偉いと思うわよ」
「ありがとうございます……」
「それで……芽愛さん、だっけ?」
「はい、神楽坂・アースキン・芽愛です!」
「お、元気でいいわね、私元気な子好きなのよ」
「それはその、ありがとうございます」
「それにしても、髪の毛綺麗ね」
「ありがとうございます。母親譲りなんです」
「お母さまは外国の方なのかしら?」
「はい。母は英国生まれで、父は日本生まれです。私はそのハーフです」
「……英国」
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもないわ。気にしないで」
「はい。英国から日本に戻ってきて、転校してきたって感じです」
「ふーん、高明君、芽愛さんって凄いわね。まさに帰国子女って感じで」
「え、ああ、そうですね……」
「あんまり驚いていないのね?」
ぐっ……これは不味い。
「それはその、クラスで話しているのを聞いていたんですよ……」
あながち嘘ではない、はず。
「ああ、そういうことね」
「はい、そうですよ……」
なんだろう、この違和感。気にしすぎか。
「あ、もうすぐ五時限目始まっちゃうわね」
「あ、そうですね……」
「時間取らせちゃって、ごめんなさいね」
「いえいえ、大丈夫ですよ……」
「それじゃあ私、教室に戻るわ」
「はい、僕たちも戻ることにします……」
「では、芽愛さん、これからよろしくね」
「あ、はい、王子……先輩、よろしくお願いします」
「朱苑でいいわよ」
「分かりました。朱苑先輩、どうぞよろしくお願いします」
「よろしくね、芽愛ちゃん」
僕たちに手を振って、朱苑先輩は三年の教室の方向へ歩いて行った。
「高明、あの人って私が好きなタイプの人だよ」
「……その名前で呼ばないでくれ」
「今二人きりじゃん」
「……ここだと、誰かに見つかるかもしれない、さっきの朱苑先輩みたいに」
「なるほど、それもそうだね。分かったよ、西ヶ原君」
芽愛って、納得すると物分かりは早いんだよな。昔からそうだ。
「……じゃあ戻るとするか。気を取り直して、別々に」
「うん。戻ろうか、西ヶ原君」
芽愛はニヤニヤしている。
「……じゃあ戻ろう、神楽坂さん」
僕は他人行儀に、クラスメイトの西ヶ原高明として、芽愛に返答する。
「はーい、西・ヶ・原・君」
「っ……」
「どうかした?」
「……いや、なんでもない。行こうか」
「あ、うん」
……芽愛も、やはり女子なんだよな。
※ ※ ※
「……着いた」
五時限目が始まるギリギリの時間、二年二組の教室に着く。
「……あっちの方が早かったか」
芽愛は既に席に着き、隣のクラスメイトの女子と話している。
「……迷わなかったんだな」
あいつ転校生なのに、よく迷わずに教室に戻れたな。
「……」
まあ、そんなことは今どうでもいい。すでに予鈴が鳴っている時間だ。席に戻ろう。
「おお、高明。珍しいな、お前がこんなギリギリなんて」
既に着席している小村井が、こちらを向いて声をかけてくる。
「……うん、ちょっと油断した」
「高明でもギリギリで戻ることあるんだな」
「……うん、ちょっとね」
「……そっか、それにしても神楽坂さん凄いよな、かなりの人気者だ」
今度、小村井は芽愛の方向を向く。
「……うん、そうみたいだな」
「なんか反応薄くないか? 高明」
「……いや、そんなことはないよ」
「そうか?」
「……小村井の気にしすぎじゃないか? ほら、授業始まるぞ」
「ん? ああ、そうだな」
小村井は黒板の方を向き直す。
「……」
よし、完璧だ。完全に誤魔化せている。あとは芽愛さえ言うことを守ってくれれば、僕の学校生活は保守できる。
キーンコーンカーンコーン……
さて、五時限目の始まりだ。教科は、ええっと、英語だったかな。教科書とノートを用意しないとな。
※ ※ ※
二年二組の教室中が、喝采で沸く。その喝采は、我が幼なじみに向けられたものであった。
「神楽坂さんすごーい。流石英国帰りだね!」
「いやいやー、こんなもんだよー」
芽愛がちょっと照れくさそうにしている。
「……」
教科書の音読が芽愛に回ってきたのだ。英語の教科書の音読は、基本的に挙手制になっている。そして今回は、芽愛が挙手をしたので芽愛がやることになった。
「……全く、初日からよくやるよな」
芽愛はまだ登校初日ということもあったので、英語の先生は無理押しはしなかった。
「……誰も、手を上げなかったしな」
しかし、芽愛がどうしてもやりたがったのもあり、この運びとなった。
「流石だな、高明。本場の英語の発音って感じだぜ」
「……そうだな」
「……だよなー」
僕の知っている芽愛も英語が上手かった。それがより、洗練されている感じがする。
「……」
みんながこうも持ち上げていると、自分の実力でもないのに、なんだか少し誇らしい気がした。まさに本場の発音って感じだ。『凄い』の一言である。
「やっぱ高明、そんな驚いてないよな?」
「芽愛は昔から、英語が上手いんだ」
……いや、驚いてないなんてことは無いよ。
「え……高明、お前」
「……え?」
「え?」
え? なんか変なこと言ったかな? 何故だか芽愛からの視線も感じる。
数秒前に自分が何か言ったのかを思い出してみる。
「……」
……しまった。
「いや、なんでもないよ……」
さっきから、隣の席から笑い声が聞こえるが、気にしないことにした。
「いやいや、明らかにおかしいだろ……」
小村井からのツッコミが入る。
「いやあ……これはその……」
「昔ってなんだよ!」
流石に無理があるか。よし、諦めよう。
「いやあ、その、幼なじみ……かな?」
「……」
小村井が絶句した。と思ったら……
「えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
その叫びは恐らく、隣のクラスにまで聞こえたんじゃないかと思う。
「……」
気が付くと、みんながこっちを見ている。先生は突然のことに言葉を失っている。
「ふふっ……」
隣の席から、不敵な笑みが聞こえる。
「ふふ、ははははは。高明、自分からバラしてどうするのよ。おかしくて笑っちゃうわよ」
芽愛が、片手で頭を抱えながら笑っている。
「こ・う・め・い?」
「ああ、うん、幼なじみだしな……」
目を点にした小村井の心を察して、言葉をかける。
「ああ……そうか、そうだよな」
小村井は上を見上げて、天井を見つめている。小村井の目からは虚無すら感じる。
「……」
しかし、あれだけ芽愛に釘を刺した僕が、こうもあっさりとバラしてしまうなんて、僕は詰めが甘いのかもしれない。これは欠点だな。
「なんで隠してたんだよ!」
息を吹き返す小村井。
「……いや、隠してはいないよ。言わなかっただけさ」
まあ、嘘はついていない。
「それを隠してるって言うんだよ!」
「そうだよ。高明、隠そうとしてたじゃん」
小村井と芽愛から正論が飛んでくる。
「ああ、まあ、そうかもしれない……」
「いやまあ、それはいいんだけどよ……」
……割とドライだよな、小村井。
「そんなことより、神楽坂さん! 幼なじみってほんとなの?」
「うん、高明とは幼なじみ」
芽愛が小村井に回答する。
「いやちょっと、脳の処理ついていかないわー」
小村井は頭を抱えている。
「あの……小村井君、あと西ヶ原君、神楽坂さん、今、授業中だよ?」
僕たちを見かねたクラスメイトの女子が注意にやってきた。三人揃って相槌を打つ。
「あ、先生、授業を再開しましょう」
「あ、そうですね……」
先生は突然のことに、咎める気すら起きなかったようだ。あまりにも堂々と授業中に会話していたし、内申への影響はちょっと心配だ。
「ええと……」
促された先生は授業を再開する。どこまで授業をやっていたかを再確認している。
「……」
ともあれ、とりあえずはこの場は沈静化された。とりあえずは……
「ふふっ……」
芽愛はこちらを見て微笑んでいた。僕はそれを横目に、授業に戻るために脳の切り替えを試みた。
※ ※ ※
あれ以降、全く授業には集中できなかった。先生の話が一切頭に入ってこなかった。
「……」
そして気が付けば、休み時間。
「ワー! ギャー!」
「……小村井君って元気な人だね、高明」
一人で叫ぶ小村井を傍目に、芽愛がヒソヒソと話してくる。
「……そうだな」
てか距離が近い。芽愛の片手は僕の耳の辺りに密着し、その声は僕の聴覚にダイレクトに響いてくる。更には女の子特有の香りが嗅覚をくすぐってくる。
「高明、なんか返事がぎこちなくない? もしかして、どっか調子悪い?」
「……いや、大丈夫、なんでもないよ」
君が原因っちゃ原因だけどね……
「そう? ならいいけど」
芽愛は元の位置に戻る。僕の嗅覚をくすぐる香りが薄くなる。
「……」
さっきから、クラスメイトたちの視線を強く感じる。偉い注目されることをしてしまったものだ(現在進行形)。
「まさか高明に、こんな可愛い幼なじみがいたとは……」
「可愛い、だなんてそんな。小村井君、ありがとう」
可愛いというワードを聞きつけたのか、芽愛はお礼の言葉を投げかける。特に、照れた様子はない。
「……」
まあ、英国暮らしが長いのだし、そんな特別なことでもないのか。
「いえいえ、どういたしましてー、って、そうじゃなくて! 高明、お前なー」
こっちの世界に戻ってきた小村井に、いきなり背後から首をホールドされる。
「ちょっ、苦しいって、小村井……」
そこまで力は入っていないので、実はそんなに息苦しくはない。
「あ、悪い……」
小村井の腕から解放される。
「いやあ、でもなんかとりあえずスッキリしたわ。神楽坂さん、これからよろしくな!」
「よろしくー、小村井君」
目の前でフランクなやり取りが交わされていると、休憩終わりのチャイムが鳴る。
「あ、六時限目だねー」
芽愛は自席に戻る。
「よし、これさえ終われば今日は帰れるぞ!」
小村井は自席で最後の気合を入れ直す。
「……杞憂、だったのか」
なんか大きな騒ぎになったが、思ったよりは案外普通というか、日常にちゃんと馴染んでいる気がする。これはこれで、そんなに悪くもない気がした。
「……さて」
いよいよ六時限目。弛緩した気持ちを切り替えて、本日最後の授業に臨むとしよう。
「……」
とりあえずはひと段落した感じもあるし、五時限目のようなことにはならないだろう。
※ ※ ※
「よし、終わった!」
小村井が伸びをする。六時限目が終了し、今日の全授業をやり終えたからだ。
「高明、どっか行こうぜ。今日は部活動ないだろ?」
いつものように誘いが入ってくる。やりたいゲームがあるので、実は行きたくないのだが、無下に断るのもあれだしな、どうしようか。
「ごめーん、小村井君。高明は私が予約してるから」
隣の席から、援軍登場。ただ、芽愛と何かを予約した覚えは一切ない。
「え、そうなのか? 高明」
「いや、まだ高明には伝えてない。高明、今日は一緒に帰ろう」
事後承諾で、予約も何もあるのだろうか。
「神楽坂さんが言うんじゃあなあ、俺は邪魔できないな。今日は神楽坂さんに譲るよ」
やけに、あっさりと引き下がるね……
「ちょっ……待てって小村井」
確かにゲームやりたいのは確かだが、芽愛と一緒に帰ることになったら、余計注目されかねない。こっちはこっちで受容しがたい。
「いいからいいから、七年ぶりの再会なんだろ? 水入らずで一緒に帰ってあげなって」
小村井はそう言い残すと、クラスメイト数人を連れ出して、教室から出て行った。
スタ……スタ……スタ……
それに乗じるように、他のクラスメイトも教室から出て行って、気が付けば芽愛と二人きりの教室。
「ということで高明、帰ろうか」
他には誰もいなくなった教室、していないはずの約束の履行を迫られる。
「……予約した覚えはないぞ」
「いいじゃん、堅いこと言わずにさ」
いくら幼なじみとはいえ、女子と共に下校するような、周囲から目立つようなことはしたくない。
「……いや、一人で帰る」
「分かった、そういうことなら仕方ないね」
おっ、案外簡単に引き下がったな。
「あれ、クラスのみんなにバラしちゃおうかな」
ぐっ……甘かった。
「あれって……なんだよ?」
昔は毎日のように芽愛と遊んでいたので、バラされることといえば、結構身に覚えがある。
「アレだよ、アレ」
「……具体的に言ってくれ」
「それは言えないかなあ」
待てよ、実はブラフなんじゃないか? 七年も前だし、そんなに覚えていないかもしれないぞ?
「……帰る、どうせハッタリだろ」
いかんいかん、危うく引っかかるところだった。
「ハッタリじゃないよ。高明、私が英国行くって言った時、大きくなったら芽愛を迎えに行くって……」
「……そんな柄にもない約束はしていない」
いや、覚えがある。若さゆえの過ちだが、芽愛が転校する時に、そんなことを口にした記憶が確かにある。
「えー、私鮮明に覚えてるんだけどなー。嬉しかったんだよ。高明、本当に覚えてないの?」
ハッタリを使った罪悪感が湧いてくる。
「……いや、覚えてる」
僕は、窓から見える大河を眺める。
「やっぱり、覚えてるじゃん。もしかして高明、照れてるの?」
「……照れてるわけないだろ、昔のことだ」
「嘘、頬が赤くなってるもん」
僕の席の左横に回ってきた芽愛は、僕の顔を直視する。僕は咄嗟に、顔を俯ける。
「まあ、いいか。ねえ一緒に帰ろうよ」
芽愛は一呼吸おいて、またもお誘いの言葉をかけてくる。もはや断る方が体力やら精神力やらを消耗しそうだな。
「……仕方ない、今日だけだからな」
「うん、とりあえずそれでいいや」
『とりあえず』という文言は気になったが、ひとまずは芽愛からの攻勢を防げそうなので良しとしよう。あんなことを追及されては全く身が持たない。
「じゃあ高明、行こうか」
「……ああ、うん」
僕は芽愛と共に、教室から出た。当然、電気も消した。最後に出た人が消さないと、先生にうるさく言われてしまうからな。
※ ※ ※
「本当に高いよね、あれ」
川辺の道。通称、水辺のテラスを歩くさなか、隣の芽愛がプラネットタワーを指し示した。
「……ああ、うん。高いよな」
「流石に高明は、もう見慣れちゃってるよね」
「……うん」
「私が英国行ってから建ったんだよね」
「……確か、それくらいだな」
「登った?」
「……いや、登ってない」
「え! なんで!」
「……いや、特に登る理由ないし」
そう、僕は一度もプラネットタワーに登ったことは無い。理由は、今述べた通りだ。
「じゃあ今度一緒に登ろうか」
「……断る」
「釣れないなー。いいよ、そのうち連れ出してみせるから」
「……やれるものならやってみろ」
そんなデートみたいなこと、僕がやるわけがない。
「わかった。私は有言実行だからね、覚悟しててね」
「……はいはい」
しばらく共にいると、電車の高架が見えてくる。
「ねえ、高明」
「……なんだよ」
「ここって、電車走るところだよね」
「……うん、そうだけど」
「あそこ人歩いてない?」
確かに、線路の鉄橋の下にあるスペースには、人影が見えた。
「……あそこ、歩けるようになったんだよ」
「昔歩けなかったよね?」
「うん、割と最近開通したんだ。通称、住吉・リバーロード」
「カッコイイ名前だね、住吉・リバーロード」
「……ああ、そうだな」
「ふーん、あそこ歩いてから帰ろうか」
「……あそこ通ったら、回り道になる」
ここを渡った先は、家とは逆の方向だ。わざわざ渡る意味がない。
「えー、歩きたいんだけどなー」
「……今回は無しだ」
「え? また一緒に下校してくれるの?」
「そうとは言ってない。今回きりだ」
しまった、油断した。
「大丈夫、説き伏せてみせるから」
「……好きにしてくれ」
疲れるのが目に見えているので、抵抗はしない。
「まあそれはともかく、一回登らなきゃいけないね」
「……そうだね」
線路のある鉄橋の下には水門がある。つまり、道はここで行き止まり。帰るためには右手にある丸太の階段を登らねばならない。
「じゃあ、行こう」
芽愛が先に階段を登り始める。階段の幅は若干狭いので、気を付けないと転んでしまう。
「……」
僕も続いて登ろうとした、その瞬間。
「きゃっ!」
芽愛が転んで、こちら側に倒れてきた。僕は咄嗟に、受け止める姿勢に入った。
「……くっ」
芽愛の全体重が、僕の身体へと被さってくる。
「危なかったあ……高明、受け止めてくれてありがとう」
僕の腕の中で、胸を撫で下ろす芽愛。
「……気を付けろよ」
「はーい」
芽愛は何の気なしに、僕の身体から離れる。
「……」
芽愛と体を密接させるのは、本日二度目。成長した芽愛の身体と直接的に触れ合うのは、とても心臓に悪い。
「じゃあ、行こっか」
「……ああ」
ともあれ、丸太の階段を二人で注意して登る。
トコ……トコ……トコ……
登った先には、緩やかな下り坂。二人でここを歩いていく。
「うわあ、よく見えるねえ」
「……ここは見晴らしがいいんだ」
坂を下りた眼前には、障壁なしのプラネットタワー。間に高い建造物がないので、ここはプラネットタワーの全身を見るには絶好のスポット。
トコ……トコ……トコ……
またしばらく歩くと、小さな橋がある。左手には、先ほどテラスで見た水門が見える。
トコ……トコ……トコ……
芽愛が五メートルほど先行する。僕はそれに合わせるわけでもなく、芽愛の後ろを歩く。
「ねえ高明! あそこにお店がたくさんあるよ!」
右斜めの方向を指し示して、興奮気味に言葉をかけてくる。
「……さっきの線路の下の通路、あれと合わせて、この通りに店ができたんだよ」
芽愛が指差した先、線路の高架の下には道が通っている。そこには様々なテナントの店が軒を連ねている。
「なるほど! 昔と比べて、随分と活気が出てきたね!」
「……ふふ」
「なに笑ってるのよー、高明」
「……別に、なんでもないよ。さあ、行こう」
「変な高明だなあ」
僕は顔の表情を元に戻して、芽愛に先行して道を前に進む。
トコ……トコ……トコ……
芽愛は色々喚きながら、僕の五メートルくらい後ろについてくる。僕はいちいち反応をしない。
トコ……トコ……トコ……
線路の鉄橋をくぐった先には横断歩道がある、横断歩道の先には生い茂る樹木が沢山そびえ立っている。
「え、これもしかしてあの公園なの?」
「……そうだよ、最近整備されたんだ」
この空間の正体は公園だ。『住吉公園』という名前だ。
「随分、綺麗になっちゃったね」
「……うん」
「こっちから帰るのもありかもね」
「……川沿いを歩くんじゃないのか?」
そう、帰りは川沿いを歩いて行くつもりだった。その希望者は他ならない芽愛である。
「高明はどっちがいい?」
「……僕に決定権あるのか?」
「そこは聞いてから考える」
「……強いて言うなら、川沿いを歩く気分になってたかな」
「そっかー。うーん、じゃあ今回は予定通り、川沿いを歩こう」
「……次回はないぞ」
「大丈夫、どうにか連れ出すから」
さっきもしたような会話を繰り返す。先ほどと同じく、疲れるのでスルーした。
「ほら、高明、置いて行っちゃうよ!」
「……一人で帰れるなら、それで文句はないんだけどな」
「もう、釣れないなあ」
芽愛がちょっと残念そうな表情を見せる。
「……大丈夫だよ、今日は一緒に帰る約束だから」
約束を破るのは主義に反する、どんな過程で交わされた約束にしても。
「あ、うん……」
キョトンとする芽愛を差し置いて、僕から先に歩き始める。
「……ここを行くと、川の上を歩いていける」
横断歩道から後ろを向いた先には通路がある。先ほど話に出た『住吉・リバーロード』に通ずる道だ。
「なるほど、ここ行くと渡れるんだね」
「……ああ」
「ねえ、高明」
「……なんだ?」
「やっぱり渡らない?」
「……渡らない」
「やっぱダメかあ」
「……さっきも言っただろう、遠回りになる」
「まあ、今日はいいや」
なんか不吉な独り言が聞こえたが、気にしないことにした。
トコ……トコ……トコ……
話した通り、水辺のテラスに戻る。戻るとは言っても、道を戻るわけじゃない、水門を挟んだ先に、あのテラスは続いているのだ。
トコ……トコ……トコ……
川を左手に、芽愛が僕の先を歩く。
「……」
しばらく無言で歩いていると、芽愛は突然、体をこちら側に向けた。
「それにしても高明、なんだかんだ変わってないよね、昔のまま」
「……いきなり何の話だ?」
「ええっと、何の話ってこともないけど……」
ちょっと野暮な返しだったかな。
「……昼休みは逆のこと言ってなかったか?」
「ああ……話してみて思ったんだよ、高明はやっぱり高明だなあって」
「……そうか、芽愛も昔のままだと思うよ」
これに関しては、嘘偽りが一切ない。
「ちゃんと名前で呼んでくれるんだね」
「……そういう、約束だからな」
「そう、ありがとうね、高明」
芽愛は川の向こうを見つめる。
「……」
こうして二人で共に歩んでいると、昔日の記憶が走馬灯のように蘇ってくる。なんだか懐かしく、なんだか安心感がある。
「でも本当、昔のままでよかったよ。なんか安心した」
芽愛は川の方を向いたまま、口を開く。
「……そうか、それは良かったな」
「なんか……他人事な感じ」
芽愛はこちらを向き直す。
「……そんなことはないよ」
確かに、他人事な言い回しをした自覚はある。しかし、そうでもないと本心が洩れてしまいそうだったので、仕方がない。
トコ……トコ……トコ……
しばらくは互いに無言で歩く。
ビュー…………
川からの風が、絶妙に心地いい。
トコ……トコ……トコ……
住吉川は海に繋がっているので、深く呼吸をすれば、海水のような香りが僕の嗅覚に伝わってくる。僕はこの香りが好きだ。繋がる海の壮大さを感じられるからなんて言ったら、少々大げさかな。
「やっぱ住吉川は良いよね、なんか落ち着く」
芽愛が沈黙を破る。
「……そうだね、そう思うよ」
まあ、これくらいはいいか。
「おっ……なんか高明の本心が聞けた気がする」
……勘が鋭いな。
「……そんなことはないよ、社交辞令さ」
「まあ、それならそれでいいけどさー」
芽愛は何の気ない様子で言葉を返してきた。
※ ※ ※
住吉川からは既に離れて、家の近くの十字路。車道には車が走っている。
「……あの神社に帰るんだろ?」
「うん、そうだよ。分かって歩いてたでしょ?」
「……うん、まあ」
芽愛の家は神社だ。この十字路を左に進んだ先に、芽愛の家がある。
「じゃあここで別れようか、これから改めてよろしくね」
横断歩道を渡り終えると、芽愛が右手を前に差し出してくる。
「……ああ」
むぎゅっ……
なんてことはない、ただのシェイクハンド。ただ、体温を感じる面積の広さから、僕も芽愛も大きくなったことを実感する。
「グッバイ、高明」
芽愛は自身の手を僕の手から放すと、片手のひらを上げて、別れの挨拶を口にする。
「……グッバイ」
僕も同じく、片手の手のひらをちょっと上げて、別れの挨拶を交わす。
「……」
芽愛はニコッと一瞬だけ微笑んで、金色の長い髪を揺らしながら、家に向けて走り去っていった。
「……なんで、英語なんだ」
……バイバイとか、さようならで良かっただろうに。
「……」
芽愛が去っていった十字路。なんとなく寂しい感じがした。
「……うーむ」
……そうか、僕は案外、芽愛との再会を楽しんでいたのかもしれないな。絶対に本人には言ってやらないが。
「……さて、僕も帰るかな」
こんなに早い時間に帰るのは、案外久しぶりかもしれない。基本的には新聞部の活動か、小村井たちと遊ぶか、だったしな。
「……まだ、ライトが付いていないんだな」
まだ光のドレスを纏っていない、我が町の摩天楼を右手に見ながら、僕は自宅へと歩を進めた。
トコ……トコ……トコ……
さて、この踏切を渡れば、あと少しだ。
※ ※ ※
人気がない住宅街の路地を歩く。
ピーポー……ピーポー……
どこからかパトカーのサイレンの音が聞こえる。まあ、どうでもいいことだが。
「……げっ」
今になって、制服のシャツが汗で少しにじんでいることに気が付く。帰ったらシャワーでも浴びたいな。
「あれ、お兄ちゃんじゃん」
……ん、この声は。
「今日は随分と早いんだね」
「……ああ、ちょっとな」
我が妹の杏だ。妹なので、姓は僕と同じく『西ヶ原』。現在は中学三年生。どうやらどこかに出かけるみたいだ。
「ふーん」
「……で、どっか出かけるのか?」
「ああ、うん。高橋神社まで」
「……高橋神社?」
「うん、芽愛ちゃん帰ってきたでしょ、ご挨拶行こうと思ってさ」
ちょっと待て、なぜに我が妹が、芽愛が帰ってきたことを知っている?
「あ、お兄ちゃん。芽愛ちゃん元気そうだった?」
「いや……」
ちょっと待て、なぜに芽愛の話を……
「え? 同じクラスだったでしょ」
「……いや、まあ、そうだったけどさ……そもそも何で知ってるの?」
「え? 一週間前に連絡あったじゃない」
なん……だと。
「……ごめん、聞いてない」
「あれ、言わなかったっけ?」
「……うん、確かに聞いてない」
「そうだったかなあ、まあいいや」
いや……良くない。
「それじゃ、行ってくるね」
「あ、ああ……」
杏は小包を片手にして、僕が来た道を走っていった。
「ふう……」
なんだか、疲れたな。さっさとシャワー浴びよう。
カチャ……
僕は、自宅の玄関のドアに手をかけた。
※ ※ ※
「ふう、旨いな」
シャワー上がり、リビング。
ゴク……ゴク……ゴク……ゴク……ゴク……
グラスに注いだサイダーを一口で飲み干す。シャワーを浴びた後の天然水サイダー、この世の至福だと思える。
「……この清涼感」
初夏の気候も相まって、まるで昇天しそうな旨さだ。
「さて……宿題でもやろうかな……」
空のグラスを洗って、食器棚に戻す。手早く宿題を終わらせてしまおう。
※ ※ ※
自室。
「……ダメだ」
どうにも、身が入らない。
「……進みが遅い」
一時間くらい机に向かっているのだが、宿題がなかなか進まない。
「……どうして、今日に限って」
いつもは難なく、こなせているんだけどな。
「まあ、原因は分かってるよ……」
正直なところ、頭の中は勉強どころではなかった。嫌でも頭の片隅には、今日のあれこれが浮かんでくる。
「……はあ、ちょっと休憩しようかな」
集中できないのに勉強を続けても、身には付かない。ここは開き直って、休んでしまおう。
※ ※ ※
誰もいないリビングでテレビを眺める。画面に流れるのは、いつも夕方に放送されているニュース番組。
「……大臣のスキャンダルばかりだな」
政治への関心は、比較的強い方だ。歴史が好きなので、その延長で興味を持つようになった。しかし政策とか、専門用語とか、そういう知識はあまりない。政治の流れ、いわゆる政局を追うのがメイン。
「……バーチャル国会か」
最近のネットでは、僕と同じ高校生が、グループを作って政治の議論とかをしているみたいだが、そういうこともやろうとは思わない。
「……なんか、違うんだよなあ」
なんというか難しい言葉ばかり使っていて、いまいち入りにくい部分があるからだ。基本的にはグループなどにも入らずに、ロム専門という感じだ。
ガチャ……
玄関の方から、扉が開く音がする。本日、両親は遅く帰ってくるという話なので、恐らくは妹の杏だろう。芽愛の家……高橋神社から帰ってきたのかな。
ドドドドドッ……!
玄関に繋がる廊下の方から、走る音が聞こえてくる。
「お兄ちゃん!」
瞬く間に、杏はリビングへと入ってきた。
「……おかえり、どうした? そんなに走って」
「どうした? じゃないよ!」
「……え? なんかあったのか?」
「お兄ちゃん、芽愛ちゃんと一緒に下校してきたんじゃん!」
「……え、ああ、そうだけど」
「なんでさっき、他人事みたいな返事しかしなかったの!」
「……いや、そんなことは聞かれなかったしさ」
「知らないんだから聞くわけないでしょ!」
「……いや、時間取らせても悪いかなあと」
「もう……まあいいや……なんか疲れる」
杏は何故だか、顔を真っ赤にしている、
「……なんか悪いな」
「いいよ、別に……」
言葉とは裏腹に、やはりなんだか機嫌が悪そうだ。このままってのもなんだか面倒くさいな。
「……なあ杏、今日は外食にでもするか」
「え?」
「……いや今日、帰ってこないだろ、お金も置いてあったしさ」
「あ……うん……そうだね」
杏の昂りが少し落ち着いたようだ。いつもは僕からこんな誘いはしないが、機嫌を取る必要のあるこういう場合では、誘うのが吉だと判断した。
「……さて、どこ行くか。いつものとこでいいか?」
「え? 今すぐ行くの?」
僕は杏の帰りたての姿を眺める。
「……いや、悪い。一時間くらいしたら行こう、行く場所は後で決めようか」
「あ、うん……」
杏は一旦、二階の自室に戻った。
「さて、あと一時間、残りの宿題でもするかな」
いつも通り進まなかったとはいえ、宿題の量はあとわずか、待ち時間で十分に終わる量だろう。
「よし……」
僕は、テレビの電源とリビングの証明を消して、階段を上がった。
※ ※ ※
「……ふう、美味しかった」
家から割と近い、お手頃な値段のファミレス。僕はハンバーグプレートを食べ終えて、水を飲み干す。
「いつも思うけど、お兄ちゃんって食べるの早いよね」
向かいの椅子に座る杏は、まだ食事の最中。食器にはまだパスタが半分くらい残っている。
「……そうか?」
「うん、絶対早いよ、よく噛まなきゃ健康に悪いよ?」
「……そうなのか?」
「うん、満腹中枢とかが満たされないらしいよ、よく噛まないと」
「……ふーん」
「どうせ直す気ないでしょ?」
「いや……」
「分かってるよ。お兄ちゃん、そういうところあるから」
ん? そういうところ?
「芽愛ちゃん、可愛くなってたね!」
「ぶっ!」
「ちょ……お兄ちゃん! 大丈夫?」
「ああ……大丈夫だ……」
唐突の話題に、水を吹き出してしまった。備え付きのナプキンで体を拭く。
「もう……」
「……食事中に、悪いな」
「いや、それは良いんだけどさ……」
「……それは良いんだけど、なんだよ?」
「お兄ちゃん、今でも芽愛ちゃんのこと好きでしょ?」
「……」
「ん……お兄ちゃん?」
凄い爆弾をぶっこんでくるぜ……
「……いや、そんなことはない」
「えー、でも昔、芽愛ちゃんのこと好きって言ってたじゃん」
「……あれは、若さゆえの過ちだ」
「今も若いじゃない」
「……それは屁理屈だ」
「まあ、昔のことはいいや、お兄ちゃんって、いつも思ってることと逆のことをやるんだよ」
「……え?」
「露骨に芽愛ちゃんのことを気にしてない素振りとか、むしろめっちゃ意識してるんだなあって感じだよ? 凄く分かりやすい」
「そ、そんなことは……」
「まあ、別にいいんだけどね」
「……そうか」
「うん、なんとなく思っただけだし」
「……分かった」
「じゃあ、残り食べちゃうね」
「ああ……」
杏は残りのパスタをフォークに絡ませた。
「……全く、油断ならないな」
「お兄ちゃん、何か言った?」
「……いや、なんでもないよ」
「そう」
……絶対に、好きとかじゃないんだからな。
※ ※ ※
自宅。自分の部屋のベッドの中。
「ふわぁ……」
杏との食事を済ませた後、そのまま帰宅し、あれやこれやと時間がすぎて、就寝時間。
「眠いのに、眠れない……」
午後十一時くらいにベッドに入り、もう午前三時くらいになるが、未だに眠れない。
「好き……か」
ファミレスでの杏の言葉が、何度も頭を駆け巡る。確かに、昔は芽愛のことが好きだったし、そこは否定の余地はない。
「だが……」
しかし恋愛とかはよく分かっていない年齢だったのも確かで、それが恋愛的に好きなのかについては議論の余地がある。
「これは、好きとかじゃないはず……」
そう、それは今にしてもそうなのだ。単に昔にそういうよく分からない感情を抱いていたので、体が幼少時の感覚を思い出しているだけで、恋愛的に好きとか、異性として意識してるとかではないはずだ。
「……ダメだ、消えない」
しかし、そのはずなのに、寝ようとすれどもすぐに芽愛のことが頭に浮かんでしまう。昔の名残とはいえ、なかなか頭から離れない。
「明日は、そういう意識を見せないようにしないとな……」
明日というか、既に本日か。クラスも同じなわけだから、当然、顔を合わせることになるだろう。
「いかんいかん、これじゃあいつまでも眠れない」
時計を見ると、既に午前三時半くらい。本格的に不味い時間帯だ。
「こういう時は、姿勢をよくして、深呼吸……だな」
背筋をピンと伸ばし、深く息をする。すると、徐々にだが睡魔が襲ってきた。