命を張った幼稚園教諭
園舎の青い屋根の上、それに負けない澄み切った青空が広がる。
「夢花先生、おはようございまーす!」
小さな体にカバンを背負って、スモックには親たちが施した思い思いの刺繍やワッペンが飾られている。
「おはようございます!」
元気に登園してくる子どもたちひとりひとりの顔を見て朝の挨拶をする。
『挨拶は、明るく、元気に、自分から』を園では子どもたちの目標のひとつとしている。
そのため、入園すると多くの園児たちが自分から人に挨拶をする習慣が身に付いてくるのだ。
園まで見送ってきた保護者には「お預かりします!」と言って笑顔を向け、安心して子どもたちを送り出していただく。
この瞬間、一日がまた始まることを実感する――。
幼稚園教諭として働く伊原夢花は、今日もまた子どもたちと過ごす一日のスタートに心弾ませていた。
幼稚園の先生になりたいという夢は、中学生の頃から固まっていたものだった。
ただ単に小さな子どもが好きだというのがきっかけの将来の夢だったけれど、脇目も振らず目指した進路は夢花にとって間違いではなかった。
「夢花先生、おはようございます!」
門を駆け抜けて入ってきた園児が、夢花に向かって駆けてくる。
元気いっぱいの表情に、夢花も負けない挨拶で出迎えた。
「風馬くん、おはようございます!」
「あの、夢花先生、ちょっとお話いいですか?」
「はい、おはようございます! どうかされましたか?」
夢花が受け持つ年少組、うさぎ組の山田風馬の母から声を掛けられ、夢花は風馬の母へと歩み寄る。
小柄で色白の風馬の母は、黒髪のセミロングヘアの髪をいつもサイドに一つ縛りにし、膝丈のスカートをよく着ている清楚な雰囲気の母親だ。
クラスの保護者の中でも控え目な印象だが、いつも風馬に向ける笑顔や言葉が愛情に満ちていて、夢花はとても好感を持っている。
「いえ、何かお話があって、ということではないのですが……先生、いつもありがとうございます」
「えっ……いえ、とんでもないです!」
風馬の母が改まってお礼を口にし、ぺこりと頭を下げたことに夢花は恐縮してしまう。
「風馬、あんなに行き渋っていたのに、最近幼稚園が楽しいって言ってます。夢花先生のおかげです」
「いえ、そんな……でも、風馬くん、幼稚園が楽しくなってきたのなら良かったです!」
「はい。今日もよろしくお願いします」
最後にまた丁寧に頭を下げ、風馬の母親は保護者で賑わう門へと向かっていく。
(よし! 今日も頑張ろう!)
夢花はその背中を見送りながら、心の中でそう自分に気合いを入れた。
一日の保育を終えると、夢花はバス通園する子どもたちをバスに乗車して送り届けにいく。
保育終了後バスに乗るか、園にお迎えにくる保護者を待ちながら子どもたちを見守るか、その業務は月交代で担当が変わる。
夢花は今月は早バスの降園車に乗り、その後は雑務を終業時間まで行うサイクルだ。
「お疲れ様でしたー」
夕方、五時――。
今日一日の業務を終え、職員室奥にあるロッカールームへと向かう。
「夢花先生」
デスクが詰められた職員室では、遅番の職員が数名まだ業務を行っている。
夢花を引き止めたのは主任の中屋可奈子だ。
「悪いんだけど、ホールの床掃除、お願いしてもいい?」
(えっ……)
「あ、はい。あの、今からですか?」
返事はしつつ、一応確認を取ろうと聞き返す。
中屋は「そうよ」と当たり前のように即答した。
「片付けしたあと、モップもかけたの? 床、汚れてるところあったわよ」
「すみません……見落としだと思います。確認してやり直します」
夢花の返答に、中屋は「ちゃんとやりなさい」と吐き捨て、バッグを手に職員室をあとにした。
「夢花先生、私やっておくから上がっていいよ」
中屋を見送り踵を返そうとした夢花に声を掛けてきたのは、同期の坂本千夏だ。
千夏は遅番の職員で、朝十時前に出勤をし、夕方六時に終わる延長保育までを担当している。
まだ自分は終業時間ではないため、上がるところだった夢花に声をかけたのだろう。
夢花のようにクラス担任を持つ職員は朝七時半過ぎには出勤をし、何もなければ五時に終業を迎える。
「上がるところってわかってて仕事押し付けるのとか……」
デスクを立ち上がった千夏は、他に聞こえない小声で「パワハラだよね」と夢花に囁く。
夢花は苦笑いを浮かべながら「大丈夫だよ」と応えた。
「ちょっと覗いて、チェックして帰るから。ありがとね」
「時間、大丈夫? 今日も行くんでしょ?」
「うん、なんとか大丈夫だよ。ダッシュで片付けちゃう!」
夢花は真っ暗に照明が落とされたホールへと入ると、明かりをつけ指摘を受けた床のチェックを始める。
しかし、目立つ汚れはなく、普段と変わらない様子だった。
(今日の可奈子先生のターゲットにされたかな……)
主任である中屋には誰も逆らわない。
意見をすれば厳しく当たられ、先輩職員の話によれば、これまでに何人も退職していった人がいるという。
しかし、全力で子どもと向き合う中屋は園児たちに絶大な人気があり、その指導の熱さは保護者からの信頼も厚い。
幼児教育に誰よりも熱心なのだ。
夢花は雑巾を持ってくると、床を見て回りながら細かな汚れを拭いていく。
明日、中屋のチェックが入ってまた呼び出しを受けないように、細心の注意を払って拭き掃除をしていった。
「――よし……これだけやったら大丈夫なはず」
床を這うようにして掃除をしていた夢花は、立ち上がり舞台横に掛けてある時計へと顔を上げる。
「やばっ、行かなくちゃ遅刻!」
気付けば六時近くになっていて、夢花は慌ててホールをあとにした。
* * *
「こんばんはー、遅くなりました!」
住宅街の中にある、なんの変哲もない一軒家。
開け放たれた門の周囲には花や動物のオブジェが並び、中へと入りやすい雰囲気で訪れた人を迎え入れる。
門の横には木造りで『ぽかぽかのいえ』と看板が掲げられていて、そこから見える庭の向こうでは暖かな明かりと賑やかな笑い声が聞こえていた。
幼稚園から自転車で約十五分。
幼稚園での勤務が終わった夢花は、平日のほとんど毎日のアフターファイブをこの『ぽかぽかのいえ』で過ごす。
ここは、片親や両親が仕事で帰りが遅い家庭で、ひとりで夕食を取っている子が多く集まる子ども食堂。
子どもだけの利用はもちろんのこと、仕事で夕飯を作る時間が遅くなってしまう親子での利用もでき、ひとり親家庭などにもありがたい食堂だ。
「夢花姉ちゃん! おっそいよ!」
自由に入れる玄関を入ると、馴染みの子どもたちの声が早速飛び交った。
「ごめんごめん、ちょっと仕事が長引いたんだ」
「今日宿題の丸付けしてくれるって約束だっただろー?」
「もちろん! 夕飯終わったら見てあげるね」
やってきた夢花に、子どもたちから次々と声がかかる。
笑顔で応えながらキッチンカウンターへと顔を出した夢花を、この子ども食堂を切り盛りする柿田夫婦がにこやかに迎えた。
「夢花ちゃん、毎日毎日ありがとうなぁ」
「仕事が長引いた日は、無理してこっちの手伝いしなくても大丈夫だからね」
柿田夫妻の聞き慣れたセリフに、夢花は「大丈夫ですよ!」と屈託のない笑顔を見せる。
「私が好きで来てるんだから、気にしないでください」
荷物を置き、畳んで置いてあるデニム地のエプロンをつけると、夢花は早速手を洗いキッチンへと入っていった。
『子どもたちに心が温かくなる食卓を』
そんな想いから、定年退職を機に柿田夫婦が始めたこども食堂。
夢花は短大二年になる頃にこの『ぽかぽかのいえ』を知り、自ら志願してボランティアをしている。
幼稚園教諭になって三年目になる今年、もうここに通って四年目に突入するのだ。
「気を付けて帰るんだよー」
一番最後の子を見送ると、時計の針は八時前を指していた。
リビングを改造して造られた食堂に戻ると、残された数人分のトレーをてきぱきキッチンへ下げていく。
キッチンでは、夫婦が揃って明日のメニューに入る肉じゃがの下ごしらえをしていた。
「夢花ちゃん、お疲れ様。冷める前に食べちゃいな」
じゃがいもの皮剥きをしていた手を止め、ご主人はカウンター上にあるトレーに目を向ける。
トレーの上には今日のメニューの豆腐ハンバーグとサラダのプレートと、お味噌汁とお茶碗に盛られたご飯が載っていた。
「私の分は気にしなくていいって、毎日言ってるのに」
「いいのよ、これから帰って夕飯取るなんて大変じゃない。明日も朝早いんだから、しっかり食べて帰りなさい」
遠慮してみても、柿田夫妻は毎日当たり前のように夢花に夕飯を用意する。
バイト代を払っているわけでもないボランティアで毎日来てもらっているのだから、夕飯くらい賄いだと思って食べていきなさいと言うのだ。
「いただきます」
でも、夢花はここの食堂のふたりが作るご飯が大好きだ。
他愛のない話をしながら笑い、温かいご飯を食べる幸せ。
夢花自身、子どもの頃はひとりで夕飯を取ることが多かった。
不動産関連の仕事に就く父は毎日帰りが遅く、母もフルタイムで働いていた。
そのため、仕事から帰宅後の母は子どもたちに食事を出して日中できない家事に時間を費やす。
夢花はテレビをぼんやり観ながら箸を進めることが多かった。
家族揃って今日一日の話をしながらテーブルを囲む。
それは両親の仕事が休みの日の、月に数度の機会だった。
「豆腐ハンバーグ、やっぱり絶品!」
「ほんと? 今朝、お豆腐屋さんが使ってって、たくさん持ってきてくれたのよ!」
「そうなんだ。ありがたいね」
ふわふわで柔らかい栄養満点の豆腐ハンバーグを頬張る夢花は満面の笑みを浮かべる。
この子ども食堂を支えようと、地域の人たちは多く柿田夫妻の活動に協力してくれている。
毎日の調理を手伝いに来てくれる人や、今日の豆腐屋さんのように間接的に支援してくれる人たちも多くいる。
『みんなに支えられて、うちはこの食堂が開けているんだ』
ご主人がいつもそう感謝の気持ちをしみじみと口にするのを、夢花は何度も聞いているし、その想いをよく知っている。
楽しく温かい食事をして、心豊かに成長してほしい。
大人たちのそんな想いが詰まった食堂に通ってくる子どもたちは、きっとそれぞれが何か大切なことを得ているのだろうと夢花は思っている。
「ご馳走さまでした」
食事を終えた夢花は、綺麗に片付いたお皿を持ってキッチンに入り、すぐにお皿を洗い始める。
コンロの大きな鍋からは、豚肉を炒めるじゅうじゅうという音が聞こえていた。
「明日は残業にはならないと思うから、もっと早くに来るね」
「ありがとう。でも、無理だけはしないようにね」
「うん、大丈夫。私も、ここに来てみんなからパワーもらってるんだもん。来ないなんて逆に調子狂っちゃうよ」
夢花の言葉に、柿田夫妻は揃って笑う。
子ども食堂のキッチンには、遅くまで和気あいあいとした楽しい声が聞こえていた。
翌日――。
明け方から登園時間にかけて降っていた雨も止み、どんよりとしていた空には眩しい太陽が顔を見せていた。
「夢花先生ー、お砂場で遊ぼう!」
午前中の製作の時間が終わると、各クラス園庭に出て自由遊びの時間となる。
アスレチックの遊具で遊ぶ子、三輪車などの乗り物を出してきて遊ぶ子。
年長組になると男の子はみんなでサッカーなどをするのも流行っている。
思い思いの自由時間を、担任たちは子どもたちを見守りながら一緒に遊んで過ごす。
「夢花先生」
子どもたちに誘われて砂場遊びを始めた夢花の元へ、小走りで千夏が呼びかけにくる。
クラスを受け持つ夢花は遅番出勤してきた千夏には今日初顔合わせで、「おはようございます」と子どもたちの手本になる挨拶をしてその場を立ち上がった。
「おはようございます。可奈子先生が、呼んでます」
そう言った千夏は夢花に顔を寄せる。
そして小声で「朝からイラついてるみたいだから、気を付けて」と警告した。
「え、ほんと……?」
夢花の表情が一瞬にして曇る。
(まさか、昨日のホールの床のことまた言われるとか……?)
残業までして掃除は滞りなくしたはずだ。
それなのに、まだ文句を付けられる箇所があったのだろうか?
それとも、また違うことで注意を受けるのだろうか……?
夢花は小さなため息をこぼした。
「みんな、ごめんね。ちょっと先生、職員室行ってくるから、千夏先生とバトンタッチね」
子どもたちに一言断り、小走りで砂場から賑わう園庭を突っ切っていく。
園庭をぐるりと囲むように造られた各教室は全てドアが開け放たれ、中には園児の姿は見られない。
時折子どもたちに声をかけられながら、夢花は砂場とは真逆の職員室に向かっていく。
その時だった――。
「きゃああぁぁぁぁぁ――」
背後で響き渡った誰かの叫び声。
遊びで出したと思えない声に、夢花はバッと振り返る。
そこに見た光景に、目を疑い一瞬にして血の気が引いた。
(な、に……?)
蜘蛛の子を散らしたように走る子どもたちと、動けなく子どもたちをかき集めるようにして誘導する職員。
そこにあったのは、幼稚園の園庭には似つかわしくないひとりの男の姿。
足を止めた夢花は、その手にある物に釘付けにされていた。
(うそ……嘘でしょ……)
学校などに侵入し、無差別に児童生徒を狙う凶悪事件。
そういった痛ましい事件を受けて、防犯訓練も毎年幼稚園では実施している。
だけど、まさか本当にこんなことが起きてしまうのか。
目の前の光景が信じられない。
だけど、時間は止まらない。
男が逃げていく子どもたちを虚な目で見ていることに、夢花はハッと覚醒するように咄嗟に地面を蹴っていた。
すぐ後方の園舎の脇に防犯のために常時かけてある刺又を掴み取ると、夢花は男に向かって駆けていく。
後方から「夢花先生!」という仲間の先生の叫び声が耳に届いた。
走ってくる夢花にまだ気付かない男は、そばで動けなくなっている園児に向かって手にする凶器を振り上げる。
その先にいるのが自分のクラスの風馬だと気付き、夢花は園内に響き渡る声量で叫び声を上げた。
「風馬くん――!」
突っ込むようにして男に刺又で激突する。
しかし、突き飛ばされた男はすぐに立ち上がり、今度は夢花に標的を変えて襲いかかる。
咄嗟に逃げようと背を向けたところで、ドスッと背中に衝撃が走った。
(えっ……――)
足がもつれ、視界がスローモーションして下りていく。
胸から勢いよく地面に倒れると、次々と悲鳴が上がるのを聞こえた。
背中が熱いと思いながら、夢花は必死に目を凝らす。
目の前に見える青々とした芝生の向こう、男が男性職員数人に取り押さえられているのが見えた。
(良かっ、た……)
「夢花先生!」
「早く、救急車を――」
周囲で聞こえるそんな声を聞きながら、夢花は意識を手放していった。