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千夜十夜物語

自殺者μの喜劇

作者: 穹向 水透

26作目です。「自殺者μの怪奇」の裏側です。



 彼は死を軽く見ていた。彼は死に鈍感だった。

 彼はゲームが好きだった。現実と異なる世界へのトリップ、現実と異なる自分の活躍、幾つもの魅力的なファクターが彼をバーチャルの世界に引き込んでいた。

 特に気に入っていたのは銃撃戦。FPSでもTPSでも構わない。何が魅力的なのかと言えば、人を殺すことができる、という点だ。他のゲームでも命の奪取は容易である。というより、RPGだって命の奪取がないと成立しないようなものだ。しかし、RPGよりも生々しく、リアリティを多少は残した状態で殺せるのはシューティングゲームの類いが一番だと彼は思っていた。

 例えば、敵の頭をピンポイントで撃ち抜いた時。敵は為す術もなく頽れる。この征服感だ。相手がデータ上にしか存在できないとしても、人の形を仕留めた時の征服感は圧倒的なものだ。

 彼はアサルトライフルやマシンガンは好きではなく、専ら狙撃銃ばかりを選んで使う傾向があった。理由は単純で、一発の弾丸で射抜いた時の達成感が素晴らしいからだ。彼は量より質を選ぶ主義だった。

 しかし、それは方法の話であって、対象に質は関係ない。多いほど楽しい。銃口を前にした命の価値に違いは生じ得ないのだ。

 ゲームの世界において命の価値は最底辺と言える。無限に現れる命を天秤にかければ、髪の毛一本と釣り合うか、それより軽いかのどちらかだろう。他人の命は勿論だが、自分の命の価値も無に等しい。死んだところで、また蘇る。いくらでもリスポーンして、死んで、またリスポーンしてを繰り返せる。時には死ぬことだって戦法のひとつだったりする。

 そんな世界の命に価値など付与される筈がない。

 彼曰く、人間の根底にあるのは「奪う」という願望で、誰もが隠している、抑え込んでいるそれを解放するのがバーチャルの世界なのだ。銃撃戦で構成されるゲームならば命の奪取は合法だ。奪ってこそ価値がある。存在するだけの命に価値などある筈もない。

 毎日毎日、お節介な死神の真似をして命を刈り取る。そうして、現実ではない、境界線の曖昧な世界で価値を高めていくのだ。

 プレイヤーネームは『μ(ミュー)』。戦績だけが彼の価値だった。



 現実の彼は客観的に見て大人しく、中性的な容姿の若者だった。人見知りなところがあり、人と眼を合わせることが苦手だった。家から出るのはゴミを出すときくらいで、あとは籠って仮想の自分として生きていた。

 彼に他人の命を奪うという願望がなかったわけではない。寧ろ奪いたいという衝動は強かった。しかし、それは実行されなかった。理由はシンプルに、狙撃銃が手に入らなかったからだ。ナイフやハンマーで奪うのは野蛮だと彼は思っていた。命を奪うのには、やはり、一発の弾丸さえあればいい。一発の弾丸で相手の頭を射抜く、それだけが唯一の価値だ。

 彼はゲーム内のチャットなどではムードメーカー的な立ち位置だった。つまりは道化だった。しかし、仲間内から本性はバレていただろう。自分が如何に卑屈で、反動として馬鹿みたいに矛盾した言動や行動をする戯け者になっていたということが。

 ゲーム仲間にξ(クシー)と呼ばれている人物がいた。話によると、ξは高校時代に人間関係のストレスで自殺を図ったことがあるらしく、部屋で練炭を焚いたが、窓の目張りが不十分だったために失敗したそうだ。彼はξの話を聞いてから、ξに死に関する様々なことを訊ねた。

「ξは首吊りとか考えなかったのか?」

「考えたけど止めた。めちゃくちゃ汚くなるらしいからな。死んでまで見苦しいとか勘弁だもん」

「あぁ、そうなんだな」

 十五秒間ほどの沈黙。

「なぁ、ξ」

「ん?」

「死んだ後って迷惑掛けるんかな?」

「そうだと思うけど、何で?」

「いや、何でもない」

 このチャットもきっかけのひとつだっただろう。彼は自殺をすることにした。しかし、死ぬ気はなかった。つまり、狂言自殺である。彼が確かめたかったのは命の価値と死への反応。考えを固めた彼は積極的だった。すぐにロープを用意し、遺書を残すことにした。狂言自殺だと勘づいてもらうために内容は深刻なものにしてはいけない。悩んだ末に彼は「死にます、グッバイ、アディオス」という文面のメールをゲーム仲間に送信した。最後の「アディオス」という単語で真剣な自殺ではないということに気付いてもらおうと考えた。メールを送信した後、天井にフックを刺した。根拠はないが、自分の体重程度なら数秒だけ浮かすことができると思った。

 フックにロープを掛け終わったタイミングでメールが届いた。ゲーム仲間のγ(ガンマ)からだった。γの家はこのアパートから十五分程度の場所にあり、γなら自分の姿を見に来ると言う確信があった。それが本当の自殺だと思って来るのか、お巫山戯に付き合うために来るのかはわからないが、取り敢えず彼はスツールの上に立ち、ロープが僅かに揺れるのを見た。準備は万端、あとはγの到着を待つだけ……だったが、γは来なかった。臨機応変さに欠ける彼は眠気に襲われつつスツールの上にいた。そして、準備万端から二十五分後に彼は眠った。最近の風邪気味の体調と朝までやっていたゲームが祟ったのだろう。彼は前のめりに倒れ、首はロープの輪の中へ。スツールがゆっくりとシフトし、彼は宙吊りになる。眠ったままの彼は気付かなかった。

 この事故とも言える結末には、彼のふたつの誤算が関係している。ひとつはフックが想定よりも丈夫だったこと、もうひとつはγが異国の地に出掛けていることだった。



 視界がぼやけている。曇りガラスを通したように、或いはカレイドスコープのように雑にキラキラとしている。朝、不本意に眼を覚ました時のような軽い頭痛を伴う不快感。

 僕は、あぁ、そうか、死のうとしたんだっけ。正確に言えば、死ぬ振りをしようとしたんだ。そして、いつの間にか落下していた。眠ってしまったんだろうか。何となく微熱があったような気がする。

 あぁ、失敗したんだな。

 僕は時計を見た。メールを送ってスツールに立った時刻から約三時間後だ。γは来なかったのか?

 僕はまだ揺れる視界をどうにか持ち直し、部屋を見渡した。何も異変はないと思った次の瞬間、僕の視界は鮮明になった。そう、見えたのは僕。天井から吊り下げられた僕。

 何だろう、夢か? γの悪戯か? 誰かが僕とそっくりなレプリカを置いていったのか?

 僕は僕を確かめるために立ち上がった。足元は今にも浮きそうなほどに不安定だ。

 僕は僕の顔に触れた。少し長めの前髪をずらすと、時折、鏡で見る顔が現れた。僕である。僕の命を失くした顔が、青ざめて冷たくなって僕の前にあるのだ。そして、僕は思った。どちらが僕なのか、と。まぁ、冷静に考えれば、生きている僕が本物なのだろうが。そう、僕は不思議なほどに冷静だった。この不可解な現象の原因を把握しているかのように冷静だったのだ。

 僕は思い出した。γは今、この国にいない。確かミュンヘンだったか、どちらにせよ異国の地にいるのだ。誘われた記憶もあるが、体調が悪かった僕は断ったのだ。

 なるほどなるほど。γが来ないわけだ。

 僕はパソコンを立ち上げてメールボックスをチェックする。そこにはγから無題のメールが届いていて、開くと「おう、グッバイ」というものだった。γは道化の戯れ言だと思っているに違いない。

 僕は愉快に思えてきた。

 同時に、自分の現状を受け入れ始めた。

 何らかの異常な事態の発生で、シュレーディンガーの猫のように、死んでいる僕と生きている僕の両者が生まれたということだ。

 原因を考えてみると、可能性があるのは、一週間ほど前に「行商人」というサイトで買ったサプリメントだろうか。「幽体離脱体験ができる」というもので、怪しいと思いつつも興味があったので買った。

 しかし、これは幽体離脱ではないのではないだろうか。まず、ベースだと思われる僕は死んでいるわけで、仮に幽体離脱ならば、ベースの僕に戻れる術がある筈だ。だが、色々な策を講じても戻ることはなかった。

 僕は諦めて、やはり、この状況を楽しむことにした。

「死んだ後って迷惑掛けるんかな?」

「そうだと思うけど、なんで?」

 ξとのやり取りが記憶に浮かぶ。どうせ死んだのなら、思いっきり迷惑を掛けてやろう。僕はそう思った。死ぬ過程で迷惑を掛けるよりも死んだ後に迷惑を掛ける方が良心的だと勝手に思っている。客観視したらどちらも迷惑なのだが。

 まず、もう一度僕の脱け殻を眺めた。ξが言っていたように汚い。確かに身体中の穴から液体が流れ出るとは聞いたことがあるが、想像に勝るほどに汚い。いくら死んでいるとはいえ、これは僕であり、あまりに汚いのはプライド(微少)が傷つく。僕をロープから降ろして、風呂まで引っ張っていった。そして、服を脱がせて丁寧に洗った。不思議な気分だった。飯事(ままごと)のように僕を綺麗にしたら、僕が思う最も洒落た服を着せてベッドに横にした。眠ったまま死んだからか、意外にも安らかで綺麗な顔をしている。僕は僕との決別も兼ねて布団を丁寧に掛けた。

 次にカーペットや服の処理をすることにした。すっかり汚れてしまったので、取り敢えずは全部を捨てた。しかし、カーペットがないのは寂しいので、仕方がないから夏用のカーペットを出した。季節と釣り合わないし、冬用のふわふわさも消えたが、ないよりはマシだという考えで引っ張り出した。カーペットと服をゴミ袋に詰めた。どうせならと部屋も片付けることにした。普段はゴミを撒き散らしたような部屋だが、面影がないほどに綺麗にしようと思った。僕のプライド(微少)を維持し、発見時の混乱を予想してのことだ。

 部屋の片付けには半日を要した。そして、その間、僕を訪れたりする人は誰も居らず、メールの類いも来なかった。僕が社会の枠組みの隅っこで孤立しているという現実が痛いほどわかった。それも今更なことで、最早どうにもならないのだが。

 時間的には深夜、僕はゴミを捨てるために外へ出た。まだ春というには早い季節で、いつもは夜になると真冬の顔を覗かせるのだが、今日は寒く感じなかった。ベースが死んでいるからだろうか。

 頬を抓った。痛くなかった。

 片付けの疲れは感じるのに、抓った時の痛みはなかった。生と死の両サイドに足を突っ込んでいるが故のことだろうか。それに、さっき気付いたことだが、足音の類いも出ないのだ。というより、僕が動いても音を発しないのだ。つまり、声を上げても誰も僕に気付かない。ポジティブに捉えれば、とても開放的なことだ。ネガティブに捉えると……どうでもいいか。僕は月が揺れる夜の空を眺めて、明日は本当に死んでしまうのかもしれないという不安と好奇心を募らせていた。

 不安を打ち消そうと僕は歩き出した。歩けば不安が消えると思った。こうしてアスファルトの道を歩くのは数ヶ月振りかもしれない。不思議な感覚だった。冷たい夜に浮かぶ月は、子供の頃に見たのと同じように冷酷な雰囲気を醸し出していた。もし向こうの世界なんかに行ったら、もう月は見ることができないのだろうか。

 僕は歩いて十五分程度の距離にある川を訪れた。水面は月の光を受けて銀色に輝いていた。この川は人為的な舗装が施されており、水深が浅く、魚などは棲息できない。ある種の死の川の水を手で掬ったが、何も感じなかった。

 楕円形の石の上に猫が寝ていた。色褪せた襤褸の首輪の猫で、夜の色に溶けて体色はわからなかった。何だか僕自身の色彩感覚が衰えてきているようだ。僕は猫に近付いて、背中を撫でた。猫は僕にまったくとして気付いていないようで、悠長に眠りを食べている。やはり、僕は死んだのだ、と改めて思った。生きている命と死んだ命は「ねじれの位置」にあり、互いに交わることは決してないのだろう。僕はふと気になって猫を殺そうとしたが止めた。死んだ命同士が交わることは何も意味を成さないことに気が付いたからだ。

 僕は帰る途中でコンビニに寄ってみることにした。しかし、いざコンビニに向かったはいいが、一向に自動ドアが反応してくれない。死者に世知辛い世の中だと思った。

 僕は帰って寝ようと思った。眠くはなかったが、寝ようと思ったのだ。しかし、ベッドには一張羅の僕が息も立てずに寝ている。僕は僕を退かすことを躊躇って、結局はソファで寝ることにした。眠りに落ちるまでテレビを観ることにした。テレビは大学進学時に買ったものだ。僕は母子家庭で育ったが苦はなかった。寧ろ、その方がずっと良かったように思う。無限の愛情を与えてくれた母親は高校三年の秋に亡くした。死因は……薬物のオーバードーズだったか。その僅かな遺産で買ったテレビだ。そういえば、遺産もそろそろ尽きそうだ。死ぬには良い頃合いだったのかもしれない。ただ、母親には申し訳ないと思っている。彼女が僕の現状を望んでいるわけがないだろう。

 テレビでは無名の漫才師による味気ない漫才が流れていた。僕の今の方が客の笑いを取れる、と思いながら僕は落ちていった。

 朝になって、僕は起きた。朝陽が僕を起こしたのだ。こんな人間らしい起床は初めてかもしれない。僕は点けっぱなしだったテレビを眺めた。雑多なニュースが流れていく。何処かで誰かが誰かを殺したとか、何とかっていう政治家が何かやらかしたとか、誰かが薬をやっていたとか、ある程度は名の知れたモデルが首を吊っていたとか……僕には関係のない、隔壁の向こうの世界の出来事ばかり。僕は想像する。そのモデルの死に様も、さぞかし汚かったのだろうと。

 僕は空腹感を覚えた。否、空腹感とは何処か違う、空っぽな感覚。胃からでも腸からでも心肺からでもない不確かな空虚が僕の中で生じて、僕は仕方なしに立ち上がってキッチンへと向かった。片付けたのでキッチンは料理ができるスペースがあった。流しに、コンロ、冷蔵庫、使った記憶が曖昧なキッチンだ。僕が作れるものと言えばひとつしかない。目玉焼きだ。しかし、僕は卵が嫌いだ。食べると肌に湿疹が現れる。アレルギーなのかどうかはわからない。卵製品というのは身の回りの360度何処にでもあって、小さい頃は誤嚥などの可能性を母親はずっと気にしていた。一度だけ、不注意で口にしてしまったことがあり、病院に連れて行かれたことがあった。まぁ、今となってはどうでもいい過ぎた話なのだが。

 僕は冷蔵庫の中を見た。我ながら寂しい中身だ。人間らしい生活の跡がない冷蔵庫の中を漁ってビールと卵とベーコンを引っ張り出した。卵は数日前に隣人から貰ったもので、ベーコンとビールはいつからあるのかわからない。傷んでいたところで死んだ身体に影響はない筈だろう。僕は慣れない手つきでフライパンに油を引いて、少し熱した後でベーコンを焼き、それが適度に焼けたと感じたタイミングで卵を落とした。数年振りの料理だったが、想像以上に上手にできた。素直に嬉しいと思った。

 目玉焼きを皿に乗せ、ソファ前のガラステーブルに置いた。美味しそうな匂いと熱を感じて、僕とは違う世界のものなんだと勝手に思った。

 ふと、僕は気になってベッドの僕を嗅いだ。あまり異臭はなかった。まだ寒い季節だからだろうか。夏だったら悠長にベッドに寝かせてはおけなかっただろう。僕は僕を捨てなければならなかっただろう。僕は、かつて僕だったであろう身体を完全に別の物体としか捉えていないんだと自覚した。僕はドライな人間なのだろうか。しかし、僕の身体に愛着はない。人間、自分の身体に愛着なんて感じないだろう。何故なら、そこにあって、ひとつであることが普通なのだから。

 ビールをキッチンに置き忘れてきたので取りに行ったが、そこで開けるのに失敗して中身を零してしまった。近くにあったキッチンペーパーで拭き取った。キッチンペーパーはゴミ箱に突っ込んだ。先客に半分になった卵の殻がいる筈だ。

 ソファに座って、まずはビールを飲んだ。相変わらず不味い。僕はビールが苦手だ。というより、アルコール類全般がダメだ。死んだら何か変わるのかと思ったが何も変わりはしなかった。次に目玉焼きを口にした。特に感想はない。湿疹はでなかった。

 僕は横になって天井を見上げた。何でもない白い天井。よく見れば、雑に開けられた穴があった。それはフックの穴だ。僕の死んだ跡だ。

 神様っていうのがいたとしたら、僕のことをどう思うだろう。頑張って作った人間という種がこんなに愚かであること、取り分け、僕のような劣等種だ。でも、きっと、神様は忙しいから、僕のような奴に眼は向けていないだろう。向けていたら……救われたか? いいや。僕がどれほど人間らしい人間に近付こうと努力したところで、僕が報われることはない。今までだってそうだっただろう。ただひとりの肉親のために頑張ろうと決めた。けれど、その矢先にそれは消え、その時点から僕は産廃も同然となってしまったのだ。

 今も憶えている。母の死んだ日、自転車で川原を走った。死んでしまっても良いように。風に肉体が拐われることを期待していた。その日に初めて煙草を吸って、ビールを飲んだ。どちらも吐きそうなほど苦しかった。死に近付こうと必死だったのだ。でも、今なら当時の僕に言える。

 酒や煙草で身体をじわじわと痛めつけていくよりも効率的な死への近付き方があった、と。

 僕は何で生きていたんだろう。

 母親のため、それだけだったんだよな。

 やっぱり、結果としては間違ってない。

 首を吊ったこと、正解だったんだ。

 空気が澱んでいくような気がして、僕は起き上がって、また外へ出た。今日は曇り空のようだ。空が何故曇るか、と考えたことがある。僕が思うに、晴れた空はありのままの空であり、あまりに無防備で、時々、憂鬱になる。その憂鬱、人の眼から逃れるために雲で身を隠す。僕らの時代は雲の上を行ける。あまりに征服的なことだと僕は思う。

 何で空を飛びたかったんだろう。

 神様を探そうとしたのだろうか。

 でも、そんなものは何処にもいないってこと、子供ですらわかっているだろう。探しているのなら、とっくに見つかっているだろう。それでも、この征服的な僕らの時代で見つけられないというなら、それはもう死んでいるか、最初からいないということなのだ。

 僕は行く宛もなく歩いた。幽霊のように、春を探すみたいに、空憶(うろおぼ)えの世界の片隅をふらふらと歩いた。大声で歌も歌った。誰の耳にも届かないからこそ意味があると思いながら。

 気付けば水面を見ていた。僕の足は自然と川を目指していたのだ。それは針金虫に乗っ取られた蟷螂みたいで滑稽だと思った。最早、僕の身体を動かしているのが僕であるという保証は何処にもないのだ。

 昨日の猫を探したが何処にもいなかった。僕は少し前に知ったことだが、命は流れていくもので、昨日生きていた命が今日も生きているとは限らないのだ。

 苦しくなっても、この川に入水はできないだろう、と僕は思いながら爪先を水面から反転させた。

 透明なまま帰宅して、ソファに深く座り込んだ。溜め息が出た。涙も出た。何が悲しくて泣いているのかがわからない。今更になって世界に愛着でも湧いたか? 僕が引き起こした結末だというのに何を後悔する必要があるのだろうか? 暫くの間、水滴の行方を眺めていたが、それは床に透過するように消えていった。

 僕は少し眠った。

 起きると適度な頭痛がパキパキと鳴っている。

 時間は俗に朝と呼ばれる頃で、不思議なことに人間の構造は、朝に目覚めるように作られているようだ。次第に狂いつつあることだが、誰しも朝に目覚めのイメージを抱いている。

 僕は寝惚けた眼で天を仰いだ。フックの穴を中心に天井が回る。朝、それは白銀のプラネタリウムのようにサイケデリックに寂しく揺れ動いて、軈ては収束する。昨日の残りのビールを持って外に出た。丁度、隣人がゴミ捨てから帰ってくるところだった。僕は通路の手摺に腰掛けていたのだが、隣人は何も言わなかった。隣人だって自分の隣室で住人が死んでいるとは思わないだろう。そう思うと何だか怖くなった。壁が一枚あれば、その向こうで何が起きているのか、どうしても不透明になるのだから。

 ビールの空き缶は投げ捨てた。死んだことの迷惑と比べるなら天と地ほどあるだろう。

 僕は部屋に入った。何もすることなんてない。何をするために生まれてきたかもわからなくなった。最低限の家具こそあれど、とても空虚な部屋だ。命が失くなったからだろうか。

 僕は本棚を眺めた。並んでいる大半が母親の持ち物だった。母親は小説の類いが好きでよく読んでいた。特にオスカー・ワイルドの作品を愛していた。僕も彼の著作をいくつか読んだが、薄い僕には重かった。僕が唯一読むのはエラリー・クイーンの作品だ。

 僕は漫画を引っ張り出した。一回読んでしまって新鮮味のなくなった漫画を読むことにした。

 こんなになってしまって、もう子供には戻れない。大人になんてなりたくないと思っていた僕はいつの間にか子供から脱してしまっていた。でも、それは完全な大人ではなく、所謂、モラトリアム人間だった。作り笑顔もできないし、言葉選びもできない。しかし、もう関係ない。死んだら大人も子供も関係ない。そうだろう?

 僕は自分に訊いた。無意味だと知っていながら。

 漫画を全て読み終わる頃、僕の意識は剥離しそうになっていた。呼吸が荒くなり、頭痛がした。全身が熱い。

 何だろう。

 愈々、死ぬのだろうか。

 それとも、戻るのだろうか。

 まぁ、そんなことはないだろう。

 死ぬんだ。

 死へ向かっている足音がする。

 心臓が薬物中毒者のように高鳴り、肺が必要以上に縮んで膨らむ。

 電気が流れたような痛み。

 昼下がり。

 幽体離脱ができるというサプリメントの効果は二日程度だった。

 今日は曇り。

 明日も曇り。

 ずっと曇り。

 ……。

 ……。

 意識が僅かに途絶えた。

 もう、確実に終わる。

 僕の中身の見当たらない人生。いや、昔はあったんだ。そう、中身を落としてしまった人生だ。それが幕を下ろす準備万端で待っている。次、意識が途絶えたら最期だ。

 ああ、このままだと漫画が散らかったままだ。

 でも、まぁ、いいか。

 迷惑は掛けられただろうか。

 不意にパソコンから音が鳴った。ゲーム仲間の誰かからのメールだ。しかし、パソコンのある場所まで行けない。最早、手も足も何も動かない。動くのは眼球と瞼、そして、心臓だけ。そのどれもが活動を停止しようとしている。バックアップの準備はない。データの復旧措置も存在しない。この要らない端末にさようなら。

 僕の物語に、名前を付けるなら、そうだ、エラリー・クイーンの作品から取って「自殺者μの喜劇」とでもしようか。そう、これは「悲劇」ではない。僕が遺す最高で最低な「喜劇」なんだ。

 うん、これでいい。

 そう、これで。

 ……。

 ……。

 ああ。

 ……。

 ……。

 ……。

 今からいきます。

 ……。

 ……。



 彼が発見されたのは、彼の完全消滅から一日後のことだった。警察が立ち入った時、ベッドに寝かされていた彼は、腐敗の兆候こそあったが非常に綺麗な状態で、その顔は少しだけ、ほんの少しだけ微笑んでいた。

 彼のゲーム仲間は彼の死について「自殺者μの喜劇」と呼んだ。それは奇しくも彼が今際の際に自身の人生の統括として心の中で吐き出した言葉と共通していた。

 彼の死はすぐに忘れられるだろう。人の死とはそういうもので、記憶への埋没は他の有象無象と同じ速度なのだ。

 彼の葬式はゲーム仲間などのごく少人数で行われた。

 そして、彼の遺骨は海に撒かれた。

 もう彼の行方はわからない。

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