ー兄とイモウトー
父と母に伝えたいことは全て伝え、タワーから出る。楓も後からついてくる。
「楓も今日は疲れただろう?何か食べて帰ろうか。何が食べたい?」
そう言いながら、楓の方を振り向く。楓は喜んだ様子も無く、少し震えている。おかしい、いつもなら「桜にぃ大好き!」と抱き着いてきて、俺が現金な妹だと呆れる流れのはずだ。心配する俺の視線に気づいたのか、恐る恐るいった形で楓は駅の方を指さした。
「桜にぃ、人が倒れてる。しかもいっぱい。それに、あ、あれ。」
振り返って、駅までの道を見る。まばらではあるものの、何人も道に倒れているのが分かる。そして、その人々の近くには異形の存在が立っていた。
顔の前面は布に覆われており、見えないが体長はゆうに3メートル程あるだろう。モコモコとした体形とその体を拘束する鎖、頭に付いているねじれた角、大きい手の爪に蹄。信じがたいが、目の前にはそんな化け物が存在している。この世のものではないからだろうか、恐ろしい見た目であるにもかかわらず、何処か目を奪われる美しさがある。
見とれていた俺だったが周りの人が叫び、逃げていく音で我に返る。どうやら皆もあの化け物に気付いたらしい。化け物は逃げる人々には目もくれず、ゆっくりとした足取りでこちらへと向かって来る。逃げていた人々も、俺たちと同じように立ち止まっていた人々も、次々に倒れていく。どうやら化け物から出てくる薄紫色の煙を吸い込んでしまった結果らしい。今のところ、俺と楓に影響は無いものの、あの化け物の近くにいても安全というわけではない。早くここを離れなければならない。
「楓、逃げるぞ!」
俺は楓の手を引っ張るが、動かない。
「逃げるってどこに?そんな場所…うっ」
そういうと楓は苦しそうに膝をついた。楓と俺にだけ煙の効果が現れないと思っていたが、そうでもないらしい。楓が言った通り、今いるタワーの出入り口から先には化け物がおり、逃げるにはタワーに戻る以外の選択肢がない。俺は楓を抱きかかえるとタワーの中へと戻り、エスカレーターを駆け上がり、できるだけあの化け物から距離をとることにした。
二階に上がったところで破壊音と共に床が揺れた。さっきまで俺たちのいた出入り口の所に化け物が立っている。そして奴はこちらを向いて、口を大きく開き、吠えた。
『Grrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr!!!!!!』
視認するまでもなく、窓ガラスという窓ガラスがヒビを立て割れていくことが音で分かる。俺は立ち止まり、ぐったりとしている楓の耳をとっさにふさぐ。俺の手は四つあるわけでもなく、奴の叫び声が容赦なく俺の鼓膜を揺さぶる。しばらく経つと満足したのか、奴は叫ぶのを辞めて再び歩き出した。俺も楓を抱きかかえ足を進める。二階にもすでに煙が蔓延しており、そこら中に人が倒れている。頬を熱いものが伝う。ペロッと舐めてみると鈍い鉄の味がした。先ほどの叫び声によって鼓膜か分からないが、やられてしまったらしい。かろうじて音は拾えるものの、いつまで持つかはわからない。
二階へのエスカレーターの軋む音がする。振り返ることはしない。今は一歩でも足を進めなくてはならないから。奴の体重に耐えきらなかったのか、エスカレーターが崩れる音と一階の床が砕ける音がした。どうやらもうしばらく猶予ができたらしい。これからどうするのかは決めていた。俺は二階の最奥の家具量販店に入った。ここにも人がちらほらと倒れているが、気にしてはいられない。今まで抱きかかえてきた楓をベッドに寝かせる。楓も少し楽になったのか目を覚ます。
「桜にぃ、その傷は!?さっきの怪物はどうしたの?」
やはり、他の人に比べて症状が軽いようで安心した。これならしばらくは大丈夫だろう。
「それはいったん置いといて。楓は災害のことを覚えてるか?」
これまで生きてくるのに必死で災害の会話、両親の最後について話合ったことは無かった。
「ごめんなさい、それより前とそれより後のことは覚えてるけど、あの時のことは全然。」
楓が覚えていないというのも仕方ない。それよりも伝えるべきことを伝えなければ。
「楓、父さんと母さんは最後に俺と楓、二人を、そして家族を愛してるって言ったんだ。その時俺は頼まれたんだ、楓を守れって。だからアイツは俺が何とかする。俺が帰ってくるまでここで休んでおくんだ、しばらくすればきっと助けが来る。もし、俺が帰ってこなかった時は荊を頼れ。荊は楓の力になってくるはずだ。」
「いや、いや。行かないで。桜にぃもここにいればいいじゃん。ここで私を守ってくれればいいじゃん。いや、いやぁ、一人にしないで、私だけ置いていかないで……」
ベッドから降りて楓が俺の服の袖を掴み、泣き崩れる。俺だって楓を一人にはしたくないし、離れ離れにはなりたくはないけれど。父さんと母さんとの約束を守るために、俺はより確実な方法を選ぶ。気づかないふりをしていたが、俺は全くあの煙の効果を受けておらず、俺と共にいた楓の症状は軽い。そして何より、こちらに向かってくるあの化け物の足音が聞こえる。理由は分からないが、奴の狙いは俺にあるらしい。そろそろここを離れなければならない。
「楓、さっきは帰ってこなかったら、なんて言ったが俺は出来るだけ帰ってくるつもりだ。信用できないなら約束しよう。」
未だに俺の服の袖をぎゅっと握りしめている楓に小指を差し出す。
「約束……?」
楓も掴んでいた左手を離し、俺に向かって差し出す。
「あぁ、約束しよう。姿が変わっても記憶を失っても、どんなことがあっても俺は必ず楓を迎えに行く。もしも出会った時、俺が楓に気づかなかったらその時は兄ちゃんを殴れ。妹を悲しませた罪は未来の俺に払わせる。」
小指が絡みあい、準備が整う。
「うん。私に会った時に桜にぃが気づかなかったらボコボコにするね!」
楓は涙を貯めつつもニコッと笑った。良かった。悲しい別れほど嫌なものはない。
「指切りげんまん~嘘ついたら桜にぃをボコボコにする~」
「指切りげんまん~嘘ついたら楓にボコボコにされる~」
今日は約束をすることが多い。荊と楓。あの化け物に殺されに行くのではない、両親との約束、荊と楓との約束を守り、あの化け物を倒し、生きて戻る。これが俺のすべきことだ。
「じゃあな、行ってくる。」
笑うのは苦手だが、精いっぱい笑って見せる。
「行ってらしゃい。」
楓も微笑み、手を振る。そして、安心したのか煙の効果なのかは分からないが、ベッドに倒れこんだ。寝息をたてている所を見ると大丈夫みたいだ。俺はぐっすりと眠った楓の頭を少し撫でて、更に近づいてきている足音に向かって走り出した。
妹のため、桜走るっ