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春のはじまり

作者: せせり

――だったら、おれとつき合ってみる?

そう言われた時、時が止まった。

わたしは息をするのを忘れていた。


女子たちが輪になって恋の話をしているときの、くすぐったそうな、恥ずかしそうな、うきうきと飛んでいきそうな、はしゃいだ雰囲気が好きじゃない。

だって、わたしにはわからないから。恋する気持ちが。

わたしは、今まで一度もだれかを好きになったことがない。

小学校の修学旅行の夜、グループの子たちが「好きな人暴露合戦」をしていた時も、わたしは寝たふりをしてごまかしていた。

親友の由真も、わたしと同じだった。ふたりして、「男子なんてバカだしガキだし、好きになるとか絶対にありえない」なんて、こっそり笑いあっていた。

恋愛より、友情のほうが大事。由真とわいわいふざけているほうが断然楽しい。

まわりのみんながどんどん新しいステージにうつっていっても、大丈夫。取り残されたなんて思わない。由真がいるから。

そう、思っていたのに。

帰りのホームルームが終わったばかりの、ざわめく教室。新学期特有の浮ついた空気の中、由真がわたしの肩をぽんと叩いた。

「じゃあね、はるか。また明日」

ほんのりとほおを桃色に染めて、由真はいそいそと教室を出て行った。

となりのクラスの佐野が廊下で待っている。ふたり仲よく一緒に帰るんだろう。

2年生に進級してからすぐ、由真は佐野とつきあい始めた。

ちょっとどういうこと? って、問い詰めたら。

「実はずっと気になってたんだ。だから、告白されたときは信じられなかった」

なんて言って、由真は恥ずかしそうにうつむいたんだ。

聞いてないし。気になるひとがいたとか、聞いてないし。

仲間だと思っていたのに、ちがったんだ。

男子を好きになるとかありえないって言ってたのに。うそだったんだ。

今日から家庭訪問期間だから、すべての部活が休みになる。わたしと由真の所属する合唱部ももちろん休み。

由真は佐野くんと一緒だし、他の友だちと遊ぶ気にもなれない。

あーあ。つまんない。わたしはひとり。

川沿いの遊歩道を、ぶらぶらと歩く。多くの生徒がこの道を通学路として使っている。車も通らないし、公道を行くより近道なのだ。

川面は春の午後の光をはね返してきらきら光っている。

土手のそこかしこにたんぽぽやハルジオンが咲き、やわらかい風にゆれていた。

「あっ……。由真」

思わず、つぶやきがこぼれ出た。川をはさんだ向こう側、橋の下の近く。

由真と佐野くんが、ふたりして、土手に座っているのが見えたのだ。

寄り添いあって、何かおしゃべりしている。ふたりのいる場所だけ、あたたかい光に包まれているみたい……。

気づいたら、わたしは駆け出していた。そして、道のくぼみに足をとられて、派手に転んでしまった。

「……っ、たあ……っ」

膝に、うっすら血がにじんでいる。痛い。膝も痛いし、胸も痛い……。

しゃがみこんで動けないでいると、背後で、自転車のブレーキ音がした。

「おまえ、なにしてんの?」

ふり返ると野村匠がいた。

小4の二学期に席が隣になって以来、しょっちゅう口ゲンカをしている腐れ縁。

今年もまた同じクラスになってしまった。

「なにしてんの? って、見てわかんない?」

ぎろっとにらみつける。

匠は道の脇に自転車を止めると、わたしのそばに寄ってかがんだ。

「コケたんだろ? どんくせーな。ガッコ戻って手当してもらうか?」

「どんくさくて悪かったね。手当してもらうほどのケガでもないし大丈夫」

立ち上がってスカートについた砂を払う。

中学生になってから、匠の背はタケノコみたいにぐんぐん伸びて、となりでしゃべっていると見上げなくちゃいけなくて首が痛い。むかつく。

「そのわりには、涙ぐんでるじゃん」

冷静な声でつっこまれて、わたしは匠の脇腹にグーパンチをかました。

「いってえ。何だよ急に。マジで凶暴だなおまえ」

「泣いてないから。これしきのことで泣くわけないじゃん」

そこは訂正しておかないと。転んで泣くとかダサすぎる。

「それじゃ、なんで泣いてんの」

 匠はきょとんとしている。

「だから泣いてないって」

由真を佐野にとられた気がして、さびしくて涙ぐんでしまったとか、転んで泣くよりもっともっとダサい。ダサいというかガキっぽすぎる。

ちがう、さびしいとかそういうんじゃない、ちょっと感傷的になってしまっただけだ。わたしらしくもなく。

「あっ、あれ」

 匠は川向こうの土手を指差した。

「伊藤と佐野じゃん。あいつら、つきあってたんだ。知らなかった」

わたしは黙って、自分のかばんを拾いあげて砂を払った。

「そうか……。それで、おまえ……」

 匠は小さくつぶやくと、なぜか、うつむいた。

「おまえ、佐野のこと好きだったんだな」

って、ちょっと待って! どうしてそうなる!

「ち、ちがう! それはちがうから! 佐野のことなんて、一ミリも、一ミクロンも、なんとも思ってないから!」

あさってな方向に誤解されてしまって、わたしは大慌てで否定した。

匠はまだ怪訝そうに眉を寄せている。わたしはため息をつくと、

「由真を佐野にとられて拗ねてました! どうぞ笑ってください! ガキくさいわたしを笑ってください!」

ひと息に言いはなった。もうヤケだ。

「拗ねてたっていうか。さびしいっていうか。由真に置いて行かれたみたいでさ。わたし、まだわかんないし、キャラでもないから。好きなひととか、そういうの」

だからヘンな勘違いだけはしないでほしい。万が一、わたしが佐野を好きだとかいう話が由真の耳に入って、誤解されたら大変だ。

「キャラじゃない、って……」

匠は少し首をかしげた。

とにかく、一刻も早くこの場を立ち去りたい。

「じゃあね!」と言い捨てて走り去ろうとしたら。

「待てって。はるか!」

匠がわたしの腕をつかんだ。

「な、なに? 痛いんだけど!」

「ご、ごめん」

慌てて匠は手を離すと、わたしのかばんをひったくって自転車のかごにのせた。

「ちょ、返して」

「家まで送る。おまえケガしてるし」

「たいしたケガじゃないって言ってんじゃん」

「いいから」

匠は赤い顔してわたしから目をそらして、だまって自転車のスタンドを上げた。

匠、なんだか、へんだ。

そのまま、なんとなく、流されるようにしてわたしは匠と一緒に帰った。

自転車を押して歩く匠はなにもしゃべらない。ますますおかしい。

結局、ひとことも言葉を交わすことなく、わたしの住むマンションの目の前まで来てしまった。

「ど、どうもありがと。じゃ、また」

「はるか。……あの」

「なに?」

「おまえ、好きなやつとか、そういうの、まだわかんないっつってたよな」

「? ……うん」

「だったら、おれとつき合ってみる?」

 時が止まった。

匠とわたしが、つきあう? ど、どうして……?

匠は真っ赤になっている。顔だけじゃない。首も。耳たぶも。

「その。ためしに、でもいいから。そうすれば、何かわかるようになるかも……」

匠はわたしの目を見ない。しきりに、自分の耳の後ろを掻いている。

わかるようになるって、何を?

「冗談、だよね……?」

「ガチだよ」

沈黙が降りた。

「と、とにかく考えといて! じゃ!」

 匠はひらりとサドルにまたがると、すごい勢いで自転車をこいでいった。

いきなり、何? 匠までへんなこと言わないでよ。

心臓止まるかと思った。息をするのも忘れていた。

真っ赤にそまっていた匠の耳たぶを思い出すと、自分の耳も熱くなって、わたしは心の中で、やめて、やめて! と叫んでいた。

一度止まりかけた心臓は、いまや猛スピードで拍動していて、わたしは自分がへんになったんだと思った。

 

女子の間で「恋バナトーク」が始まると、わたしは決まってだれかに「はるかは野村でしょ?」と言われていた。そのたびに思いっきり否定していて、ほんとうにめんどくさかったんだ。

いわく、匠はいつもわたしにだけちょっかいを出すんだと。

他人から見れば仲がいいように見えるのかもしれないけど、それは絶対に、恋とか愛とかそういう類のものじゃない。

あいつは小学生の頃から足が速いことだけがとりえで、中学では陸上部に入って毎日気がすむまで走りまくっている。ようするに陸上バカなわけで、恋愛なんかには目もくれないはずなんだ。百歩ゆずって興味はあるとしても、相手はわたしじゃない。

わたしじゃ、ない。断じて。そう思っていたのに。

その日の夜は眠れなかった。

翌日。

目はしょぼしょぼするのに頭の芯のほうは冴えていて、教室でぼんやりしていても、クラスメイトたちの話し声や足音が、いやにクリアに響いてくる。

とりわけ、匠の声が。妙に大きく聞こえる。

わたしはへんになったのかもしれない。

匠のほうは普段通りに見えた。午前中も変わったところはなかったし、昼休みの今も、平常運転で男子たちとふざけ合っている。

「はるかっ!」

いきなり、由真に背中をぽんっと叩かれた。わたしは驚いて「うわっ」とへんな声を漏らしてしまった。

「どうしたの? 今日、ずっとぼんやりしてるじゃん」

「そ、そうかな」

「野村がどうかしたの?」

「えっ」

「さっきからずっと見てるし」

「みっ……! 見てない見てない見てない!」

「ふうーん」

由真は腕組みしてにやにやしている。

「ムキになるところがあやしいなあ。はるか、ひょっとして野村のこと好きになった?」

「ばっ、ばかなこと言わないでよ! 絶対ちがうし!」

わたしはがたんと派手な音をたてて立ちあがった。その勢いで椅子が後ろに倒れかけた。

教室のみんながいっせいにこっちを見たのがわかる。でも、止められない。

「自分に彼氏ができたからって、わたしのことまでそんな目で見るのやめてよ!」

言い捨てると、わたしは教室から出た。

勢いにまかせて階段を駆け下りて、一階まで来たところで、少し冷静になった。

そして、……自己嫌悪。

いくらカッとしてしまったからって、あんな言い方はなかった。

外の空気に当たって頭を冷やそう。そう思って靴を履きかえて中庭に出た。

花壇にはビオラやパンジーやデイジーが咲き乱れ、花たちの間をぬってモンシロチョウがひらひら飛んでいる。

ため息しか出ない。

「……はるか」

 声がして、わたしはぴくりと震えた。心臓が早鐘をうつ。

 ふり返れない。どんな顔して匠と話せばいいのかわからない。

「さっき。その、伊藤と派手に言い合ってたろ? 大丈夫か?」

「い、言い合ってないし。匠には関係ないし」

「ごめん。なんか、気になって。ほっとけなくて」

 目の前をモンシロチョウがひらひらと通り過ぎていく。自分の心臓の音がうるさくて、うざったくて。わたしはさっとふり返ると、匠をにらみつけた。

「そんなことで追いかけてきたりしないで。ほっといてよ」

「無理だよ。気にするよ。きのう、言ったろ?」

――つき合ってみる?

――ガチだよ。

一気に脳内によみがえって、とたんに、かあっと顔に熱がのぼった。

「おまえ、恋愛とかキャラじゃないって言ってたけど、そんなことないと思う。少なくとも、おれは。前からずっといいなって思ってた。はるかのこと」

匠はまっすぐにわたしを見つめた。

 ふざけてバカやってる時の顔と、ぜんぜんちがう。わたしの知らない匠。

「返事は、いつでもいいから。ゆっくり待つから。だから……」

「ま、待たなくていい」

 息が苦しくて、耐えられなくて、匠のことばをさえぎった。

「つき合うとか、できるわけないじゃん。無理だよ。わたし、ぜったい無理。た、匠なんて好きじゃないし」

 ぬるい春風が吹く。匠のみじかい前髪がゆれる。

 わたしは目をそらした。

「この先何があっても、匠とだけは、無理だから! だからもう、二度と、へんなこと言わないで」

 息が苦しい。

「迷惑だから、こういうの」

 長い沈黙。空気が、重い。

「……そっか」

 やがて、匠がぽつりとつぶやいた。

「そこまで嫌がられてると思わなかった。おれ、まじでバカみてえ」

 わたしはずっと匠の顔を見れないまま。

匠の声はいつもより低くて、さびしげで。

 胸がぎゅっと痛い。

 匠は何も言わず、わたしの前から走り去った。


 それから、匠はわたしを避けはじめた。

 いっさい、話しかけてこなくなった。休み時間も、放課後も。

 目が合ってもそらされる。

 廊下ですれちがっても何も言わない。以前なら、かならず「おす」と言ってにっかり笑いかけてくれていた。

 わたしは匠のことが嫌いなわけじゃない。まさか告白されるなんて思ってなかったから、混乱してしまったんだ。

 どうすればいいかわからなかったし、いまもわからない。

 でも……。あの時は言いすぎた。

 わたしはいつもそうだ。言ってしまったあとでわれに返って後悔する。

絶対無理とか、迷惑だとか、ひどすぎるよね。

 明日からゴールデンウイーク。しばらく学校で顔を合わせることもなくなる。

あやまるなら、今日しかない。

 帰りのホームルームが終わって、匠が友だちに手を振って教室を出て行く。

 あわてて追いかける。けれど、匠は、わたしに気づくと、逃げるように走っていってしまった。

わたしはのろのろと自分の席に戻って、力なくつっぷした。 

匠はわたしのことを嫌いになったんだ。

そりゃそうだよね。あんなに無神経なこと言ったんだもん。

前みたいにしゃべりたい。どうでもいいことで笑い合ったり、おたがい文句を言い合ったりしたいよ。

わたしはずっと匠のことばかり考えている。匠のすがたを探してしまうし、目を閉じてもあいつの顔が浮かんでくる。

 わたしは本格的にへんになってしまった。


 家庭訪問期間も終わり、部活が再開した。

 なのに、合唱部の練習に、ぜんぜん身が入らない。新一年生が入部して、わたしも先輩になったのに、ふがいない。

 去年の今頃、わたしは由真をさそって合唱部に入った。

 由真、驚いていたっけ。「はるかが、合唱?」って。

 歌うことがずっと好きだった。だけど、みんなには隠していた。ひねくれもののわたしは、音楽の時間も、とくに興味ないふりをしていた。

 ただ、あいつだけが知っていた。

 偶然、知られてしまったんだ。あの時、匠は、わたしに……。

「はるか。はるかっ!」

 呼ばれて、われに返る。由真だ。

「早く帰ろう」

 由真がわたしの腕をとった。

 校舎を出ると、空はもう透き通ったオレンジ色に染まっている。春の夕暮れは、どこかやわらかい、やさしい色合い。見つめていると涙が出そうになる。

 わたしは、由真と並んで歩き出した。

 グラウンドからは、まだ練習をしている運動部のかけ声が聞こえてくる。

思わず足を止めて、フェンス越しに、ぼんやりと見つめた。

「はるか。最近元気ないけど……。どうしたの」

「そうかな。そんなことないけど……」

 由真は、やれやれ、と、ため息をついた。

「ほんっとに、素直じゃないよね。悩んでることがあるなら、話してくれればいいのに」

 素直じゃない……か。

 由真はわたしの肩に、そっと手を置いた。

「明日、さ。部活休みだし、どっか遊びにいこっか」

「わたしと? 由真、明日、佐野と約束とかないの?」

「ん。あるけど……。また今度にしてもらう」

 由真は、にこっと笑う。

「はるかと遊びたいし、いろいろ話したい」

 由真。わたしの気分が明るくなるように、連れ出そうとしてくれてるんだ。佐野とのデートをキャンセルしてまで。

「由真。ごめんね。わたしは由真にキツいこと言ったのに。なのに由真はわたしを心配してくれてる」

「そりゃ、友達だからね!」

 へへっ、と由真は笑った。

「わたしのほうこそ。調子にのって、からかうみたいなこと言っちゃって、ごめんね」

「由真……」

 彼氏ができても、恋をしても、由真は由真のまま。ちっとも変わっていない。わたしを置いてけぼりになんてしない。

 鼻の奥がつんとする。うつむいてしまったわたしの頭を、由真は、ぽんぽんと撫でた。

「わたしね。最近、へんなんだよ。自分のことを嫌いになりそう」

 うん、うん、と、由真はうなずく。

「わたし、匠に告白された」

 思い出すだけで胸の中が熱くなって、そして、きゅうっと縮まる。

 だって。だってわたしは。

「迷惑って言っちゃったんだ。匠に」

 だめだ。泣いてしまいそう。こんなの、ぜんぜんわたしらしくない。

 由真の肩に、こつん、と、自分の頭をぶつける。

由真はわたしの背中に手をまわして、とんとんと撫でた。

「バカだね、はるかは。あまのじゃく。迷惑なんかじゃないくせに」

「でも言っちゃったんだもん。好きじゃないって。迷惑だって」

「ほんとはどうなの?」

「……ん」

「ほんとの、気持ち」

「わ……かんない」

 ずずっ、と鼻をすすった。

「こわい。匠のことでいっぱいになっちゃうの、こわい」

 つき合わない? って言われた瞬間に。

 くるりと世界が反転して。わたしの目は勝手に匠を探すようになってしまった。

 今まで、たんなる友達だと思ってたのに。

 もう戻れない。

「ほんっとに、バカだね。はるかは」

「バカだと思う」

 ひどく恥ずかしかった。由真に、こんなに弱いところを見せたのははじめてだ。

 涙を拭こうとポケットを探ったけど、今日は忘れてきたみたいで、ない。

 由真がため息をつきながら、自分のハンカチを差しだしてくれた。

「ほんと、ごめん。こんなわたしなんかのどこがいいんだろう、あいつ」

「それは本人に聞いてみればいいんじゃない?」

 ほら、と、由真はフェンスの向こうがわを指差した。

「練習終わったみたいだよ。野村」

見ると、陸上部の部員たちが、ハードルを片づけたり、トンボでグラウンドをきれいに均したりしている。

「はるか、行きなよ」

「でも」

「傷つけたままでいいの? ホントの気持ち、言わなくていいの?」

「だって、自分でもわかんないのに。ホントの気持ちなんて」

 由真はにっこり笑う。

「さっき、あたしに話してくれたこと。そのまま野村に伝えればいいんだよ」

 そう言って、わたしの背中を、とん、と押した。

 わたしはゆっくりうなずくと、駆けだした。

 ありがとう、由真。

 正門をくぐって、学校の敷地へ戻り、グラウンドへと駆けていく。

さっきまで片づけをしていた陸上部の生徒たちは、もうだれもいなかった。

きっと着替えをしているんだろう。わたしはクラブハウスのそばで、匠が出てくるのを待った。

どきどきする胸を押さえて、深呼吸をくり返す。

やがて匠はあらわれた。仲間たちと楽しそうにじゃれあいながら。

「匠!」

 わたしは叫んだ。わたしを見たとたん、匠の顔から笑みが消えた。

ぎゅっとくちびるを固く引き結ぶと、わたしから目をそらす。

 そして、そのまま通り過ぎようとしたから。わたしは急いで追いかけて匠の前に立ちはだかった。

「待ってよ! 匠!」

 匠は立ち止ると、決まり悪そうに、うつむいた。

 匠といっしょにいた男子たちが、「先帰るわ」と言って匠の肩をたたく。

 そしてわたしたちはふたりになった。

 夕暮れの空は、どこまでも澄んだオレンジ色。

「匠。わたし……」

「ごめんっ!」

 わたしが言いかけてすぐに、匠の声がかぶさって、わたしのせりふはさえぎられてしまた。

「ごめん、はるか。おれ、まだ無理だ」

「む、無理って、何が」

「前みたいな友だちに戻りたいって思うけど。でも、きつくて。おまえの顔見てらんなくて。避けてた」

「た、たく……」

「平気になるまで、時間をくれ。おれ、がんばるから」

「待って。わたしにも話をさせてよ」

 匠の髪が西日にふちどられて光っている。わたしは匠の目をまっすぐに見つめた。

 なにから話せばいい。

 ほんとの気持ち。由真に話したことを、そのまま……。

「あ。あのね。わたし。匠につき合おうって言われてから、その」

 すうっと、息を吸いこむ。

「匠のことが頭から離れなくなった!」

 ひといきに、言い放った。

「わたし、どうすればいいの!」

 匠はぱちりと目をしばたたいた。ぽかんと口を開けて、あっけにとられている。

「匠のことばっかり考えて眠れないし、口きいてくれなくなってからは、さびしくて。……さびしくて」

 自分の顔が熱い。耳たぶも、指先も、胸の中も。ぜんぶ。

「はるか。おれ、てっきり、嫌われたんだと……」

「あまのじゃくでごめん。ごめんなさい。わたし、匠といっしょにいたい」

 言えた。

 素直な、気持ち。すとんと、降りてきた。

 匠といっしょにいたい。

「それって。……彼女になってくれるってこと?」

 こくりと、うなずいた。

 そういうこと……だよね。

「わたし、匠のことが好きなんだと思う。……たぶん」

「たぶん?」

「だ、だって! まだ、ほんとに」

 芽生えたばかりの気持ちだから。

 はじめて出会った気持ちだから。

 匠は苦笑した。

「たぶん、でもいいよ。すげーうれしい。地獄から天国って感じ」

「な、なに? それ」

 恥ずかしくて、もぞもぞと落ち着かなくて。わたしはふいっとそっぽを向く。

「おれは、はるかのことが好きだから」

 だから、恥ずかしいんだってば!

 匠のほおも赤い。夕陽のように赤い。

 匠はだいぶ変わってる。わたしなんかがいいだなんて。わたしって、素直じゃないし、ひねくれものだし、つき合うの、すっごくめんどくさいと思う。

 ふと、由真に言われたことを思い出した。

 本人に聞けば? って。

「あの、さ」

 思いきって口をひらく。聞くなら今しかない。

「わたしなんかの、どこがいいわけ」

「それ、聞く?」

「知りたい」

 匠は首のうしろを掻いた。

「6年生のとき。おまえ、ひとりで歌ってたことあったじゃん。あの時から」

 あの時……。

 春だった。わたしだけ課題の作文を出せてなくて、ひとり教室に居残りして書いていた。

 だれもいないと油断して、授業で習った「おぼろ月夜」を、口ずさみながら。

 そのうち気分がのってきて……。気づいたら、けっこう大きな声で歌っていたんだ。

 まさか、廊下に匠がいたとも知らずに。

「めちゃくちゃきれいな声だって思ったんだ。ふだんとのギャップすごくて。おれが教室に入ってきたとき、すげー真っ赤になったのも、『ぜったいだれにも言わないでよ!』っつって怒ったのも。その」

 匠はそこで言葉を区切って。

「か、かわいかった。から……」

 消え入りそうな声でつぶやいた。

 わたしの、歌。歌が好きだってことが匠にばれた、あの時。

「ば、ばかっ!」

「な、なんだよ! おまえが言えっつったんじゃん! なんで逆ギレすんだよ!」

 だって想像以上に恥ずかしかったんだよ。

ふわあっと、羽毛で背中を撫でられている感じ。もぞもぞとくすぐったくて、耐えられない!

「もう無理! 帰る!」

 わたしは走り出した。

「ちょ。いっしょに帰ろうってば」

 匠は追いかけてくる。

 わたしもほんとはよく覚えている。あの時、匠、わたしに、

「知らなかった。歌、すげーうまいんだな」

 って言ったんだ。目をきらきら輝かせて。

 それでわたしは、中学生になったら合唱部に入ろうって決めた。

 なんて単純。わたしって、ひねくれてるわりには、そういうとこ、単純。

 ほめられて、やる気になったり。

 告白されて、急に気になりだしたり。

 でも、それはきっと、匠だったから。匠に言われたことばだったから……なんだ。

 匠はあっという間にわたしに追いついた。

「逃げんなよ。おれ、これでも短距離のエースだし、おまえごときが逃げ切れるわけねーんだからな」

 匠はわたしの手をとった。

 どきんと心臓が跳ねる。

「ばか! 調子にのんな!」

 あわてて振り払った。

「おまえ、そんな怒ってばっかだと体に悪いぞ」

「だったら怒らせないように気をつかってくれる?」

「無理。怒りのポイントが多すぎる」

 ぎゃあぎゃあ騒ぎながら、ふたりで駐輪場まで歩いた。

 なーんだ。いつも通りじゃん、わたしたち。

 つきあいはじめたわけだけど。彼氏と彼女になったけど。一応。

 気が抜けるぐらい、変わらない。

 空にはいつの間にか、白い月がのぼって、一番星が光っている。

「はるか。これから、毎日、一緒に帰ろう」

 匠が笑った。

 わたしも。うん、と、うなずいて。

そして、笑った。



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― 新着の感想 ―
[一言] 早い子は小学校の高学年、中学生になると嫌でも周りにそういう子がどうしても出てきてしまう時代ですよね。 はるかちゃんのはじめての気持ち、自分の中でどう処理していいか分からない気持ちを持ちながら…
[一言] お久しぶの夜野作品に身悶えして読みました!! なに、このかわゆい生き物たちは! かわゆい。かわゆい。かわゆいの洪水でした。 素直になれない主人公と、直球勝負の匠くん。この二人はこれからもぎゃ…
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