春のはじまり
――だったら、おれとつき合ってみる?
そう言われた時、時が止まった。
わたしは息をするのを忘れていた。
女子たちが輪になって恋の話をしているときの、くすぐったそうな、恥ずかしそうな、うきうきと飛んでいきそうな、はしゃいだ雰囲気が好きじゃない。
だって、わたしにはわからないから。恋する気持ちが。
わたしは、今まで一度もだれかを好きになったことがない。
小学校の修学旅行の夜、グループの子たちが「好きな人暴露合戦」をしていた時も、わたしは寝たふりをしてごまかしていた。
親友の由真も、わたしと同じだった。ふたりして、「男子なんてバカだしガキだし、好きになるとか絶対にありえない」なんて、こっそり笑いあっていた。
恋愛より、友情のほうが大事。由真とわいわいふざけているほうが断然楽しい。
まわりのみんながどんどん新しいステージにうつっていっても、大丈夫。取り残されたなんて思わない。由真がいるから。
そう、思っていたのに。
帰りのホームルームが終わったばかりの、ざわめく教室。新学期特有の浮ついた空気の中、由真がわたしの肩をぽんと叩いた。
「じゃあね、はるか。また明日」
ほんのりとほおを桃色に染めて、由真はいそいそと教室を出て行った。
となりのクラスの佐野が廊下で待っている。ふたり仲よく一緒に帰るんだろう。
2年生に進級してからすぐ、由真は佐野とつきあい始めた。
ちょっとどういうこと? って、問い詰めたら。
「実はずっと気になってたんだ。だから、告白されたときは信じられなかった」
なんて言って、由真は恥ずかしそうにうつむいたんだ。
聞いてないし。気になるひとがいたとか、聞いてないし。
仲間だと思っていたのに、ちがったんだ。
男子を好きになるとかありえないって言ってたのに。うそだったんだ。
今日から家庭訪問期間だから、すべての部活が休みになる。わたしと由真の所属する合唱部ももちろん休み。
由真は佐野くんと一緒だし、他の友だちと遊ぶ気にもなれない。
あーあ。つまんない。わたしはひとり。
川沿いの遊歩道を、ぶらぶらと歩く。多くの生徒がこの道を通学路として使っている。車も通らないし、公道を行くより近道なのだ。
川面は春の午後の光をはね返してきらきら光っている。
土手のそこかしこにたんぽぽやハルジオンが咲き、やわらかい風にゆれていた。
「あっ……。由真」
思わず、つぶやきがこぼれ出た。川をはさんだ向こう側、橋の下の近く。
由真と佐野くんが、ふたりして、土手に座っているのが見えたのだ。
寄り添いあって、何かおしゃべりしている。ふたりのいる場所だけ、あたたかい光に包まれているみたい……。
気づいたら、わたしは駆け出していた。そして、道のくぼみに足をとられて、派手に転んでしまった。
「……っ、たあ……っ」
膝に、うっすら血がにじんでいる。痛い。膝も痛いし、胸も痛い……。
しゃがみこんで動けないでいると、背後で、自転車のブレーキ音がした。
「おまえ、なにしてんの?」
ふり返ると野村匠がいた。
小4の二学期に席が隣になって以来、しょっちゅう口ゲンカをしている腐れ縁。
今年もまた同じクラスになってしまった。
「なにしてんの? って、見てわかんない?」
ぎろっとにらみつける。
匠は道の脇に自転車を止めると、わたしのそばに寄ってかがんだ。
「コケたんだろ? どんくせーな。ガッコ戻って手当してもらうか?」
「どんくさくて悪かったね。手当してもらうほどのケガでもないし大丈夫」
立ち上がってスカートについた砂を払う。
中学生になってから、匠の背はタケノコみたいにぐんぐん伸びて、となりでしゃべっていると見上げなくちゃいけなくて首が痛い。むかつく。
「そのわりには、涙ぐんでるじゃん」
冷静な声でつっこまれて、わたしは匠の脇腹にグーパンチをかました。
「いってえ。何だよ急に。マジで凶暴だなおまえ」
「泣いてないから。これしきのことで泣くわけないじゃん」
そこは訂正しておかないと。転んで泣くとかダサすぎる。
「それじゃ、なんで泣いてんの」
匠はきょとんとしている。
「だから泣いてないって」
由真を佐野にとられた気がして、さびしくて涙ぐんでしまったとか、転んで泣くよりもっともっとダサい。ダサいというかガキっぽすぎる。
ちがう、さびしいとかそういうんじゃない、ちょっと感傷的になってしまっただけだ。わたしらしくもなく。
「あっ、あれ」
匠は川向こうの土手を指差した。
「伊藤と佐野じゃん。あいつら、つきあってたんだ。知らなかった」
わたしは黙って、自分のかばんを拾いあげて砂を払った。
「そうか……。それで、おまえ……」
匠は小さくつぶやくと、なぜか、うつむいた。
「おまえ、佐野のこと好きだったんだな」
って、ちょっと待って! どうしてそうなる!
「ち、ちがう! それはちがうから! 佐野のことなんて、一ミリも、一ミクロンも、なんとも思ってないから!」
あさってな方向に誤解されてしまって、わたしは大慌てで否定した。
匠はまだ怪訝そうに眉を寄せている。わたしはため息をつくと、
「由真を佐野にとられて拗ねてました! どうぞ笑ってください! ガキくさいわたしを笑ってください!」
ひと息に言いはなった。もうヤケだ。
「拗ねてたっていうか。さびしいっていうか。由真に置いて行かれたみたいでさ。わたし、まだわかんないし、キャラでもないから。好きなひととか、そういうの」
だからヘンな勘違いだけはしないでほしい。万が一、わたしが佐野を好きだとかいう話が由真の耳に入って、誤解されたら大変だ。
「キャラじゃない、って……」
匠は少し首をかしげた。
とにかく、一刻も早くこの場を立ち去りたい。
「じゃあね!」と言い捨てて走り去ろうとしたら。
「待てって。はるか!」
匠がわたしの腕をつかんだ。
「な、なに? 痛いんだけど!」
「ご、ごめん」
慌てて匠は手を離すと、わたしのかばんをひったくって自転車のかごにのせた。
「ちょ、返して」
「家まで送る。おまえケガしてるし」
「たいしたケガじゃないって言ってんじゃん」
「いいから」
匠は赤い顔してわたしから目をそらして、だまって自転車のスタンドを上げた。
匠、なんだか、へんだ。
そのまま、なんとなく、流されるようにしてわたしは匠と一緒に帰った。
自転車を押して歩く匠はなにもしゃべらない。ますますおかしい。
結局、ひとことも言葉を交わすことなく、わたしの住むマンションの目の前まで来てしまった。
「ど、どうもありがと。じゃ、また」
「はるか。……あの」
「なに?」
「おまえ、好きなやつとか、そういうの、まだわかんないっつってたよな」
「? ……うん」
「だったら、おれとつき合ってみる?」
時が止まった。
匠とわたしが、つきあう? ど、どうして……?
匠は真っ赤になっている。顔だけじゃない。首も。耳たぶも。
「その。ためしに、でもいいから。そうすれば、何かわかるようになるかも……」
匠はわたしの目を見ない。しきりに、自分の耳の後ろを掻いている。
わかるようになるって、何を?
「冗談、だよね……?」
「ガチだよ」
沈黙が降りた。
「と、とにかく考えといて! じゃ!」
匠はひらりとサドルにまたがると、すごい勢いで自転車をこいでいった。
いきなり、何? 匠までへんなこと言わないでよ。
心臓止まるかと思った。息をするのも忘れていた。
真っ赤にそまっていた匠の耳たぶを思い出すと、自分の耳も熱くなって、わたしは心の中で、やめて、やめて! と叫んでいた。
一度止まりかけた心臓は、いまや猛スピードで拍動していて、わたしは自分がへんになったんだと思った。
女子の間で「恋バナトーク」が始まると、わたしは決まってだれかに「はるかは野村でしょ?」と言われていた。そのたびに思いっきり否定していて、ほんとうにめんどくさかったんだ。
いわく、匠はいつもわたしにだけちょっかいを出すんだと。
他人から見れば仲がいいように見えるのかもしれないけど、それは絶対に、恋とか愛とかそういう類のものじゃない。
あいつは小学生の頃から足が速いことだけがとりえで、中学では陸上部に入って毎日気がすむまで走りまくっている。ようするに陸上バカなわけで、恋愛なんかには目もくれないはずなんだ。百歩ゆずって興味はあるとしても、相手はわたしじゃない。
わたしじゃ、ない。断じて。そう思っていたのに。
その日の夜は眠れなかった。
翌日。
目はしょぼしょぼするのに頭の芯のほうは冴えていて、教室でぼんやりしていても、クラスメイトたちの話し声や足音が、いやにクリアに響いてくる。
とりわけ、匠の声が。妙に大きく聞こえる。
わたしはへんになったのかもしれない。
匠のほうは普段通りに見えた。午前中も変わったところはなかったし、昼休みの今も、平常運転で男子たちとふざけ合っている。
「はるかっ!」
いきなり、由真に背中をぽんっと叩かれた。わたしは驚いて「うわっ」とへんな声を漏らしてしまった。
「どうしたの? 今日、ずっとぼんやりしてるじゃん」
「そ、そうかな」
「野村がどうかしたの?」
「えっ」
「さっきからずっと見てるし」
「みっ……! 見てない見てない見てない!」
「ふうーん」
由真は腕組みしてにやにやしている。
「ムキになるところがあやしいなあ。はるか、ひょっとして野村のこと好きになった?」
「ばっ、ばかなこと言わないでよ! 絶対ちがうし!」
わたしはがたんと派手な音をたてて立ちあがった。その勢いで椅子が後ろに倒れかけた。
教室のみんながいっせいにこっちを見たのがわかる。でも、止められない。
「自分に彼氏ができたからって、わたしのことまでそんな目で見るのやめてよ!」
言い捨てると、わたしは教室から出た。
勢いにまかせて階段を駆け下りて、一階まで来たところで、少し冷静になった。
そして、……自己嫌悪。
いくらカッとしてしまったからって、あんな言い方はなかった。
外の空気に当たって頭を冷やそう。そう思って靴を履きかえて中庭に出た。
花壇にはビオラやパンジーやデイジーが咲き乱れ、花たちの間をぬってモンシロチョウがひらひら飛んでいる。
ため息しか出ない。
「……はるか」
声がして、わたしはぴくりと震えた。心臓が早鐘をうつ。
ふり返れない。どんな顔して匠と話せばいいのかわからない。
「さっき。その、伊藤と派手に言い合ってたろ? 大丈夫か?」
「い、言い合ってないし。匠には関係ないし」
「ごめん。なんか、気になって。ほっとけなくて」
目の前をモンシロチョウがひらひらと通り過ぎていく。自分の心臓の音がうるさくて、うざったくて。わたしはさっとふり返ると、匠をにらみつけた。
「そんなことで追いかけてきたりしないで。ほっといてよ」
「無理だよ。気にするよ。きのう、言ったろ?」
――つき合ってみる?
――ガチだよ。
一気に脳内によみがえって、とたんに、かあっと顔に熱がのぼった。
「おまえ、恋愛とかキャラじゃないって言ってたけど、そんなことないと思う。少なくとも、おれは。前からずっといいなって思ってた。はるかのこと」
匠はまっすぐにわたしを見つめた。
ふざけてバカやってる時の顔と、ぜんぜんちがう。わたしの知らない匠。
「返事は、いつでもいいから。ゆっくり待つから。だから……」
「ま、待たなくていい」
息が苦しくて、耐えられなくて、匠のことばをさえぎった。
「つき合うとか、できるわけないじゃん。無理だよ。わたし、ぜったい無理。た、匠なんて好きじゃないし」
ぬるい春風が吹く。匠のみじかい前髪がゆれる。
わたしは目をそらした。
「この先何があっても、匠とだけは、無理だから! だからもう、二度と、へんなこと言わないで」
息が苦しい。
「迷惑だから、こういうの」
長い沈黙。空気が、重い。
「……そっか」
やがて、匠がぽつりとつぶやいた。
「そこまで嫌がられてると思わなかった。おれ、まじでバカみてえ」
わたしはずっと匠の顔を見れないまま。
匠の声はいつもより低くて、さびしげで。
胸がぎゅっと痛い。
匠は何も言わず、わたしの前から走り去った。
それから、匠はわたしを避けはじめた。
いっさい、話しかけてこなくなった。休み時間も、放課後も。
目が合ってもそらされる。
廊下ですれちがっても何も言わない。以前なら、かならず「おす」と言ってにっかり笑いかけてくれていた。
わたしは匠のことが嫌いなわけじゃない。まさか告白されるなんて思ってなかったから、混乱してしまったんだ。
どうすればいいかわからなかったし、いまもわからない。
でも……。あの時は言いすぎた。
わたしはいつもそうだ。言ってしまったあとでわれに返って後悔する。
絶対無理とか、迷惑だとか、ひどすぎるよね。
明日からゴールデンウイーク。しばらく学校で顔を合わせることもなくなる。
あやまるなら、今日しかない。
帰りのホームルームが終わって、匠が友だちに手を振って教室を出て行く。
あわてて追いかける。けれど、匠は、わたしに気づくと、逃げるように走っていってしまった。
わたしはのろのろと自分の席に戻って、力なくつっぷした。
匠はわたしのことを嫌いになったんだ。
そりゃそうだよね。あんなに無神経なこと言ったんだもん。
前みたいにしゃべりたい。どうでもいいことで笑い合ったり、おたがい文句を言い合ったりしたいよ。
わたしはずっと匠のことばかり考えている。匠のすがたを探してしまうし、目を閉じてもあいつの顔が浮かんでくる。
わたしは本格的にへんになってしまった。
家庭訪問期間も終わり、部活が再開した。
なのに、合唱部の練習に、ぜんぜん身が入らない。新一年生が入部して、わたしも先輩になったのに、ふがいない。
去年の今頃、わたしは由真をさそって合唱部に入った。
由真、驚いていたっけ。「はるかが、合唱?」って。
歌うことがずっと好きだった。だけど、みんなには隠していた。ひねくれもののわたしは、音楽の時間も、とくに興味ないふりをしていた。
ただ、あいつだけが知っていた。
偶然、知られてしまったんだ。あの時、匠は、わたしに……。
「はるか。はるかっ!」
呼ばれて、われに返る。由真だ。
「早く帰ろう」
由真がわたしの腕をとった。
校舎を出ると、空はもう透き通ったオレンジ色に染まっている。春の夕暮れは、どこかやわらかい、やさしい色合い。見つめていると涙が出そうになる。
わたしは、由真と並んで歩き出した。
グラウンドからは、まだ練習をしている運動部のかけ声が聞こえてくる。
思わず足を止めて、フェンス越しに、ぼんやりと見つめた。
「はるか。最近元気ないけど……。どうしたの」
「そうかな。そんなことないけど……」
由真は、やれやれ、と、ため息をついた。
「ほんっとに、素直じゃないよね。悩んでることがあるなら、話してくれればいいのに」
素直じゃない……か。
由真はわたしの肩に、そっと手を置いた。
「明日、さ。部活休みだし、どっか遊びにいこっか」
「わたしと? 由真、明日、佐野と約束とかないの?」
「ん。あるけど……。また今度にしてもらう」
由真は、にこっと笑う。
「はるかと遊びたいし、いろいろ話したい」
由真。わたしの気分が明るくなるように、連れ出そうとしてくれてるんだ。佐野とのデートをキャンセルしてまで。
「由真。ごめんね。わたしは由真にキツいこと言ったのに。なのに由真はわたしを心配してくれてる」
「そりゃ、友達だからね!」
へへっ、と由真は笑った。
「わたしのほうこそ。調子にのって、からかうみたいなこと言っちゃって、ごめんね」
「由真……」
彼氏ができても、恋をしても、由真は由真のまま。ちっとも変わっていない。わたしを置いてけぼりになんてしない。
鼻の奥がつんとする。うつむいてしまったわたしの頭を、由真は、ぽんぽんと撫でた。
「わたしね。最近、へんなんだよ。自分のことを嫌いになりそう」
うん、うん、と、由真はうなずく。
「わたし、匠に告白された」
思い出すだけで胸の中が熱くなって、そして、きゅうっと縮まる。
だって。だってわたしは。
「迷惑って言っちゃったんだ。匠に」
だめだ。泣いてしまいそう。こんなの、ぜんぜんわたしらしくない。
由真の肩に、こつん、と、自分の頭をぶつける。
由真はわたしの背中に手をまわして、とんとんと撫でた。
「バカだね、はるかは。あまのじゃく。迷惑なんかじゃないくせに」
「でも言っちゃったんだもん。好きじゃないって。迷惑だって」
「ほんとはどうなの?」
「……ん」
「ほんとの、気持ち」
「わ……かんない」
ずずっ、と鼻をすすった。
「こわい。匠のことでいっぱいになっちゃうの、こわい」
つき合わない? って言われた瞬間に。
くるりと世界が反転して。わたしの目は勝手に匠を探すようになってしまった。
今まで、たんなる友達だと思ってたのに。
もう戻れない。
「ほんっとに、バカだね。はるかは」
「バカだと思う」
ひどく恥ずかしかった。由真に、こんなに弱いところを見せたのははじめてだ。
涙を拭こうとポケットを探ったけど、今日は忘れてきたみたいで、ない。
由真がため息をつきながら、自分のハンカチを差しだしてくれた。
「ほんと、ごめん。こんなわたしなんかのどこがいいんだろう、あいつ」
「それは本人に聞いてみればいいんじゃない?」
ほら、と、由真はフェンスの向こうがわを指差した。
「練習終わったみたいだよ。野村」
見ると、陸上部の部員たちが、ハードルを片づけたり、トンボでグラウンドをきれいに均したりしている。
「はるか、行きなよ」
「でも」
「傷つけたままでいいの? ホントの気持ち、言わなくていいの?」
「だって、自分でもわかんないのに。ホントの気持ちなんて」
由真はにっこり笑う。
「さっき、あたしに話してくれたこと。そのまま野村に伝えればいいんだよ」
そう言って、わたしの背中を、とん、と押した。
わたしはゆっくりうなずくと、駆けだした。
ありがとう、由真。
正門をくぐって、学校の敷地へ戻り、グラウンドへと駆けていく。
さっきまで片づけをしていた陸上部の生徒たちは、もうだれもいなかった。
きっと着替えをしているんだろう。わたしはクラブハウスのそばで、匠が出てくるのを待った。
どきどきする胸を押さえて、深呼吸をくり返す。
やがて匠はあらわれた。仲間たちと楽しそうにじゃれあいながら。
「匠!」
わたしは叫んだ。わたしを見たとたん、匠の顔から笑みが消えた。
ぎゅっとくちびるを固く引き結ぶと、わたしから目をそらす。
そして、そのまま通り過ぎようとしたから。わたしは急いで追いかけて匠の前に立ちはだかった。
「待ってよ! 匠!」
匠は立ち止ると、決まり悪そうに、うつむいた。
匠といっしょにいた男子たちが、「先帰るわ」と言って匠の肩をたたく。
そしてわたしたちはふたりになった。
夕暮れの空は、どこまでも澄んだオレンジ色。
「匠。わたし……」
「ごめんっ!」
わたしが言いかけてすぐに、匠の声がかぶさって、わたしのせりふはさえぎられてしまた。
「ごめん、はるか。おれ、まだ無理だ」
「む、無理って、何が」
「前みたいな友だちに戻りたいって思うけど。でも、きつくて。おまえの顔見てらんなくて。避けてた」
「た、たく……」
「平気になるまで、時間をくれ。おれ、がんばるから」
「待って。わたしにも話をさせてよ」
匠の髪が西日にふちどられて光っている。わたしは匠の目をまっすぐに見つめた。
なにから話せばいい。
ほんとの気持ち。由真に話したことを、そのまま……。
「あ。あのね。わたし。匠につき合おうって言われてから、その」
すうっと、息を吸いこむ。
「匠のことが頭から離れなくなった!」
ひといきに、言い放った。
「わたし、どうすればいいの!」
匠はぱちりと目をしばたたいた。ぽかんと口を開けて、あっけにとられている。
「匠のことばっかり考えて眠れないし、口きいてくれなくなってからは、さびしくて。……さびしくて」
自分の顔が熱い。耳たぶも、指先も、胸の中も。ぜんぶ。
「はるか。おれ、てっきり、嫌われたんだと……」
「あまのじゃくでごめん。ごめんなさい。わたし、匠といっしょにいたい」
言えた。
素直な、気持ち。すとんと、降りてきた。
匠といっしょにいたい。
「それって。……彼女になってくれるってこと?」
こくりと、うなずいた。
そういうこと……だよね。
「わたし、匠のことが好きなんだと思う。……たぶん」
「たぶん?」
「だ、だって! まだ、ほんとに」
芽生えたばかりの気持ちだから。
はじめて出会った気持ちだから。
匠は苦笑した。
「たぶん、でもいいよ。すげーうれしい。地獄から天国って感じ」
「な、なに? それ」
恥ずかしくて、もぞもぞと落ち着かなくて。わたしはふいっとそっぽを向く。
「おれは、はるかのことが好きだから」
だから、恥ずかしいんだってば!
匠のほおも赤い。夕陽のように赤い。
匠はだいぶ変わってる。わたしなんかがいいだなんて。わたしって、素直じゃないし、ひねくれものだし、つき合うの、すっごくめんどくさいと思う。
ふと、由真に言われたことを思い出した。
本人に聞けば? って。
「あの、さ」
思いきって口をひらく。聞くなら今しかない。
「わたしなんかの、どこがいいわけ」
「それ、聞く?」
「知りたい」
匠は首のうしろを掻いた。
「6年生のとき。おまえ、ひとりで歌ってたことあったじゃん。あの時から」
あの時……。
春だった。わたしだけ課題の作文を出せてなくて、ひとり教室に居残りして書いていた。
だれもいないと油断して、授業で習った「おぼろ月夜」を、口ずさみながら。
そのうち気分がのってきて……。気づいたら、けっこう大きな声で歌っていたんだ。
まさか、廊下に匠がいたとも知らずに。
「めちゃくちゃきれいな声だって思ったんだ。ふだんとのギャップすごくて。おれが教室に入ってきたとき、すげー真っ赤になったのも、『ぜったいだれにも言わないでよ!』っつって怒ったのも。その」
匠はそこで言葉を区切って。
「か、かわいかった。から……」
消え入りそうな声でつぶやいた。
わたしの、歌。歌が好きだってことが匠にばれた、あの時。
「ば、ばかっ!」
「な、なんだよ! おまえが言えっつったんじゃん! なんで逆ギレすんだよ!」
だって想像以上に恥ずかしかったんだよ。
ふわあっと、羽毛で背中を撫でられている感じ。もぞもぞとくすぐったくて、耐えられない!
「もう無理! 帰る!」
わたしは走り出した。
「ちょ。いっしょに帰ろうってば」
匠は追いかけてくる。
わたしもほんとはよく覚えている。あの時、匠、わたしに、
「知らなかった。歌、すげーうまいんだな」
って言ったんだ。目をきらきら輝かせて。
それでわたしは、中学生になったら合唱部に入ろうって決めた。
なんて単純。わたしって、ひねくれてるわりには、そういうとこ、単純。
ほめられて、やる気になったり。
告白されて、急に気になりだしたり。
でも、それはきっと、匠だったから。匠に言われたことばだったから……なんだ。
匠はあっという間にわたしに追いついた。
「逃げんなよ。おれ、これでも短距離のエースだし、おまえごときが逃げ切れるわけねーんだからな」
匠はわたしの手をとった。
どきんと心臓が跳ねる。
「ばか! 調子にのんな!」
あわてて振り払った。
「おまえ、そんな怒ってばっかだと体に悪いぞ」
「だったら怒らせないように気をつかってくれる?」
「無理。怒りのポイントが多すぎる」
ぎゃあぎゃあ騒ぎながら、ふたりで駐輪場まで歩いた。
なーんだ。いつも通りじゃん、わたしたち。
つきあいはじめたわけだけど。彼氏と彼女になったけど。一応。
気が抜けるぐらい、変わらない。
空にはいつの間にか、白い月がのぼって、一番星が光っている。
「はるか。これから、毎日、一緒に帰ろう」
匠が笑った。
わたしも。うん、と、うなずいて。
そして、笑った。