物真似師(三十と一夜の短篇第19回)
これまでずっと、他人さまの物真似を生業としてまいりました。さも卑しい職業と、さんざん言われてまいりました。みなさまがたのおっしゃられるとおりでございます。わたくしは由緒ただしい河原乞食の家系。幼いころより芸をしこまれ、これ以外に生きる術を知りませぬ。
物真似するかたを好きになる。そのかたになりきるためには、そのかたへの愛がなければなりません。父祖代々伝えられてきた基礎で、物真似師の矜持であります。わたくしはこれまで、いろいろなかたになりきってまいりました。芸能人、俳優。歌手、政治家。ありがたいことにわたくしの芸が世間さまに認められ、テレビに出させていただくようになりました。父母はそれはもう、わたくしの活躍をよろこんでくれました。
テレビで物真似を披露する以上、ご本人さまのゆるしを得なければなりません。ほかの物真似をやられるかたがたはどうかわかりませんが、それがわたくしのプロ意識と申しましょうか。ご本人さまのゆるしもなくそれをやるのは、プロとしてどうかと思うのです。わたくしどもの芸は、みなさまがたにたのしんでいただくためのものでございます。不快に思われるかたがあってはならないのです。ご本人さまに不快な思いをさせてしまったら、もう意義はなくなるのです。
わたくしの芸はまづ、ご本人さまとの交友関係を築くことから始まります。ご本人さまとじかに接し、研鑽研究いたします。モニターごしに見るより、生の感触が必要なのです。肉感を伴わないものは、紛いものでしかありません。それはわたくしの志向するものではありません。ご本人さまの友誼を得て研鑽を積み、ゆるしを得てようやく披露できるのです。この行程だけは、惜しむことができません。
ご本人さまのゆるしが得られなかった物真似は、そのまま封印いたします。外に出すことはありません。それは外に出さないというだけのことで、わたくしの蓄積としてストックされるのです。無駄になるということはありません。わたくしの血肉となって、あたらしい芸に繋がってゆくのです。
ご本人さまのゆるしを得た物真似を披露し、金銭をいただいております。わたくしの手帖は、千にとどこうとするかたがたの名鑑となっております。テレビで披露させていただく芸と、おゆるしをいただけずに封印した芸。どちらも隔てなく記録し、箪笥にしまってあります。
手帖の中身はすべて、わたくしの脳のうち......いいえ、血肉となっております。備忘のために見かえすのではなく、書くという行為によって定着させたわたくしの血肉でございます。だから箪笥をあけて、中身をたしかめるまでもございません。わたくしが積みあげてきたレパートリーは、即座に引きだして再生することができます。
わたくしはいったい、何者なのでしょうか? 親からもらった名と顔があって、みなさまがたに周知していただいております。わたくしはわたくしであって「わたくし」以外の何者でもありませんが、わたくしには「わたくし」というものがちっともわかっていないのです。
幼時より物真似をしこまれ、物真似とともにありつづけた三十余年でございます。寝ても醒めても、物真似物真似......他人さまを演じつづけるうちに、わけがわからなくなってしまいました。「わたくし」だけ、レパートリーにないのです。千ちかい引きだしのなかで、それだけがすっぽり欠落しているのです。わたくしはいったい、何者であるのか......そんなことを考える暇もなく、三十余年を生きてまいりました。いまこうしてこの疑問に、わたくしは憑かれてしまいました。寝ても醒めても、埒もない自問自答......こたえはいっこうに出てまいりません。懊悩は混迷を窮め、深まるばかりでございます。
いまこうしてお話させていただいているわたくしは、「わたくし」ではないのか......そうおっしゃられるのは、わかります。苦悩するわたくし自身が、「わたくし」そのものなのではないかと。ちがうのです。わたくしの素と言いましょうか、ベースと言いましょうか......これすらも最初に真似た父の特徴でありまして、「わたくし」ではないのです。代々受けつがれてきたペルソナなのでございます。虚無であるのです。
わたくしはどなたにも擬態できるのです。虚無だからこそと言うべきなのでしょうか。苦悩するさまもまた、ポーズにすぎません。ほんとうは、なにも感じておりません。ただ物真似をつづけ、飯を食って糞をひりだす。ただそれだけの、虚体なのでございます。