表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

短編

愛は永遠に (短編13)

作者: keikato

 小川健二は女性に縁がない。

 三十五歳になるこのかた、カノジョはおろかガールフレンドと呼べる者さえいなかった。

 姉と妹は早々と結婚し、それぞれ子供もいる。二人とも近くに住んでいるので、たびたび我が家に来ては健二にのたまうのだった。

「健二、あなたなんで結婚しないのよ?」

「お兄ちゃん、そろそろ結婚して落ち着けば」

 この二人に母親が乗っかかるものだから、健二としてはいいかげんうんざりしてくる。

 むろん健二も恋人は欲しいし、早いとこ結婚して身をかためたいと思っている。

 けれども……。

 そうした女性に恵まれないというか、ようはそのような縁のある出会いが一度もなかっただけである。

 そんなとき。

 笹山から誘いの電話があった。

 笹山は学生時代からの親友で、今も健二と同じチョンガーである。

「これから、オレんちに来ないか。オマエにいいものがあるんだ」

「なんだ、いいものって?」

「とにかく来てからだ。話すと長くなるんでな」

 笹山は思わせぶりに言って電話を切った。


 笹山のアパート。

「話す前に、こいつを見てくれ」

 親友が小ビンをコタツの上に置く。

「なんだ、それ?」

「薬だ、愛の秘薬が入ってる」

「じゃあ、いいものって」

「そうだ、これだよ。オマエ、女にまったく縁がねえだろ。なのでこれをやろうと思ってな」

「まさか変なもんじゃねえだろうな」

「疑うのもわかるけどさ、こいつは正真正銘の縁結びの愛の秘薬なんだぜ。ほらオレ、半年ほど前、仕事で東南アジアに出張しただろ。そのとき行った、山奥の村で手に入れたんだよ。それも原住民のシャーマンからだ」

「ほんとかよ?」

「ウソなもんか。オレはこいつで、今のカノジョを射止めたんだからな」

 笹山は自信ありげに話した。

 そうなのだ。

 三カ月ほどのちに、笹山は結婚することが決まっている。健二はその披露宴に招かれていた。

「五万円もしたんだぞ。現地じゃ、半年分の現金収入だそうだ」

「そんなに……」

「まあ、だまされた思って使ってみたらどうだ」

 笹山は薬ビンのフタを開け、それから中の秘薬を手の平にこぼした。

 秘薬は黒い粒で三粒あり、色も形も胃腸薬の正露丸に似ていた。

「全部で十錠あったんだが、うち七錠をオレが使ったんで、あと三錠しかねえけど」

「で、飲んだらどうなる?」

「女から誘いがかかる。でもな、効くのは一錠で女一人に限られるんだ。オレは七錠飲んだので、七人の女に声をかけられた」

「じゃあその七人目が、オマエの奥さんになる女性ってことだな」

「まあそうなんだけど、初めのうちはつまらん失敗ばかりしてな」

「つまらんって?」

「うかつな場所にいると、だれかれとなく声をかけられるだろ」

「男だったら意味ないもんな」

「いや、その点はまったく心配せんでいい。男が飲めば女に、女が飲めば男にと、こいつは異性にしか効き目がないんでな」

「なら、どんな?」

「だってさ、女といっても子供から年寄りまでいるだろ。オレ、はじめて飲んだとき、とんでもねえばあさんに声をかけられたもんな」

「で、どうした?」

「とうぜん無視したよ。返事をしないで、呼吸を三回したらスルーしたことになって、それ以上は発展しないんだ。でも、秘薬もそれでおじゃんさ」

「使い方、なんかむずかしそうだな」

「とくに、こっちが返事をするタイミングがな」

「呼吸、三回のうちだもんな」

「そうなんだよ。だって若い女にしたって、自分の好みじゃない女もいるだろ」

「そりゃ、美人の方がいいしな」

「それでオレ、ブスのときはスルーしたんだ。でも秘薬は十錠しかねえし、なくなる前のどこかで折り合わなきゃなんねえし、迷ってる時間はねえんだ」

「それで七錠も使ったのか」

「まあオレの場合、七回目に今の彼女にめぐり会えたんで、ほんとラッキーだったよ。オマエも知ってのとおり、なかなかいい女だろ」

 笹山がのろける。

「残りは三錠か……。じゃあ、オレはより慎重にならなきゃな」

「そういうことだ」

「それで気にいった女がいてよ。そのあと発展させたいとき、オレはどんな返事を?」

「はいでも、うんでもなんでもいい。でもな、さっきも言ったように、呼吸を三回するうちにだぞ」

「で、返事をしたら?」

「その女がオマエにアタックしてくるんだ」

「ほんとにそれだけで?」

「シャーマンはそう話してた。それに、今の彼女のときもそうだったんでな」

「ならオレも……」

「で、オマエにもと思ってな」

「うれしいけど、そんな貴重なもん、ほんとにみんないただいていいのか?」

「ああ。オレはこのとおり、もう使うことがなくなったんで」

「でもよ、今の彼女と別れたら、また使うってことにならねえか」

「そいつはまったく心配ねえ。薬の効果、長いこと続くそうなんだ」

「長いってどのくらい?」

「シャーマンの話じゃ、その女に永遠に愛されるってよ」

「すげえな」

「愛は永遠にだ。健二にも幸あれだな」

「恩にきるよ」

 秘薬の入った小ビンをポケットに、健二は意気揚々とにぎやかな街中に向かった。


 街の繁華街に着く。

 健二はさっそくコンビニに入り、ミネラルウォーターのペットボトルを買った。それからトイレに入って秘薬を飲んだ。

 ハラハラドキドキである。ばあさんやオバンに、いきなり声をかけられることだってあるのだ。

 ドアをわずかに開けてのぞいてみた。

 年増の女は見えない。

 健二は胸をなでおろした。ただ店内には、目当ての若い女性もいないようだ。

 レジカウンターに視線を向けると、三十代後半とおぼしき女性店員が見えた。その店員と目が合わないよう、健二は一直線に出口へと向かった。

 自動ドアが開く。

 店の外に一歩踏み出したところで、健二はよく見知った女に声をかけられた。

「あら、健二じゃない」

 姉である。

――なんで!

 健二は呼吸を素早く三回して、この憎き姉をすぐさまスルーした。

 だが、これで……。

 秘薬の一錠がムダになってしまった。

 健二は振り向きもせず、コンビニの前から走り去ったのだった。

――クソー。

 毒づいても、すでにあとの祭りである。

 まさかあんなところで、それも姉に出くわすとは思いもしなかった。

――気をつけなきゃあ。

 いったん薬を飲んだら、自分の居場所のなんと制約の多いことか。

 年増女の多い場所は歩けない。

 若いからといって未婚者とは限らない。

 それにさっきのように、思いがけない者に声をかけられることだってある。

――そうだ、あそこなら……。

 健二はデパートに向かった。

 デパートの中なら、若くてきれいな客が盛りだくさんいる。店内の売り場にも、従業員やバイトの子がいてよりどりみどりである。

 それにだ。

 好みの女性を見つけてから秘薬を飲み、それから余裕をもって近づけばよい。

 これなどいかがです? きっとお似合いだと思いますよ……。なんて、きれいな店員に声をかけられるかもしれないのだ。

――ウヒヒヒ……。

 つい、口元がにやけてしまう。

 健二はデパートに入ると、秘薬を飲む前に、まず女性の下見をしてまわった。

――おっ!

 二階にある靴売り場に、まさに自分好みの女性店員がいて、にこやかに客の相手をしている。スタイル抜群の美人で、年齢は二十代なかばに見えた。

 ただ……。

 いくら若いからといって、彼女が必ずしも独身とは限らない。秘薬を飲む前に、それだけは見極めておかなければならない。

――本人には聞けねえしな。

 健二は彼女をうかがい見つつ、何度か靴売り場の前の通路を往復した。

 けれども……。

 年齢はおよそ見当がつくものの、未婚なのか既婚なのかまったくわからない。

 と、そんなとき。

「おじちゃあーん」

 幼い声がして、妹の娘――姪っ子が健二のもとにかけ寄ってきた。

――てっ、ことは……。

 姪っ子はまだ幼稚園生。当然そこには保護者である妹もいた。

――秘薬を飲む前でよかったよ。けどなんで、姉妹そろって邪魔をしやがるんだ。

 健二は妹を見て毒づいた。

 妹がいぶかしげに問うてくる。

「お兄ちゃん、こんなとこでなにしてんの?」

「べつに……。で、オマエこそなんで?」

「ここに、ちょっと用があってね」

「ここ?」

「そう、ここの靴屋さん」

 妹が店内をのぞき見る。

「ちょうどいいわ。ちょっとの間、この子をここでみててくれる?」

 姪っ子を健二に押しつけ、妹はそのまま店内に進み入った。それから、さきほどの美人店員に向かって手を振った。

 彼女も手を上げて、妹に満面の笑みを返している。

――知り合いなんだな。

 健二は姪っ子を抱いて、妹と店員のようすをじっと見守った。

 三分ほどで妹が店から出てくる。

「お待たせ」

「あの店員、オマエ知ってんのか?」

「うん、高校のときの友だち」

「高校のとき?」

「彼女、若く見えるでしょ。でも結婚して、子供も二人いるんだよ」

「そうなんだ」

 秘薬を飲んで接近していたらと思うと心底ゾッとした。もしかしたら子持ちの人妻から、求愛の猛アタックを受けることになっていたかもしれないのだ。

 健二はそっと胸をなでおろした。

「じゃあね、お兄ちゃん」

 妹は我が子の手を引き、その場から足早に立ち去っていった。


 健二は早々にデパートを出た。

 反省しながら歩く。

 デパートはたしかに、若い女性が数え切れないほどいる。美人もたくさんいる。

 けれど……。

 相手の確かな情報がなければ、先ほどのように薬を飲むべきか判断がつかない。だが前もって情報があれば、薬をムダにするリスクがぐっと減る。

 それに同じ呼吸三回のうちでも、余裕をもって返事をすることができる。

 そうした考えに至ったところで、

――美紀だ!

 幼なじみの顔が思い浮かんだ。

 彼女とは家が近く、学校も幼稚園から高校まで同じだった。美人で気立てがよく、中学の一時期、健二は彼女に思いを寄せていたことがある。

 その美紀なら情報が多い。

「ねえ、美紀ちゃんはどう? あんな子がお嫁さんに来てくれたらいいのにね」

 母親が美紀のことをたびたび口にするのである。

 彼女は今も独身で、商店街にある父親のお好み焼き屋を手伝っている。

――よし、美紀なら。

 健二はさっそく商店街に向かった。


 秘薬はあと二錠。

 健二は一錠を手の中に持ち隠し、美紀が働いているお好み焼き屋に足を踏み入れた。

「よう、健ちゃんじゃないか」

 美紀の父親が健二を見ておどろいた顔をする。

「おひさしぶりです」

「美紀、小川さんとこの健二君だぞ」

 その声に、

「まあ! おひさしぶりね」

厨房から出てきた美紀が、昔ながらの愛想のいい笑顔を向けてくる。

「前を通りかかったら、なんだかお好み焼きが食いたくなってな」

 健二はとっさに言いつくろい、空いているカウンターの席を陣取った。

「お母さんとは、いつもここで会ってるのよ」

「オフクロさん、うちのおとくい様でな。それで健ちゃんのことも、よく話に出るんだ」

 美紀とオヤジさんが口をそろえて言う。

――それでだな。

 母親の美紀に関する情報は、ここで仕入れていたことだったのだ。さらに自分のことについても、余計なことをしゃべっているようだ。

「イカ玉ね」

 健二はとりあえず注文をすませ、秘薬を飲むタイミングをうかがった。

「ビールがよかったかな?」

 美紀がカウンター越しに、お冷の入ったコップを健二の前に置く。

――今だ!

 とっさに薬を口の中に放り込こみ、健二はコップの水を飲んだ。それから返事を促すようにもったいぶって言った。

「どうしようかな」

 息を止めて美紀の返事を待つ。

――うん?

 美紀の目は、なぜか店の入り口に向いていた。それから元気のいい声を出す。

「いらっしゃいませ!」

 声をかけた相手は健二ではなかった。店に入ってきたばかりの客に対してであった。

 健二も振り向いて見た。

「あんた来てたの?」

 なんと母親ではないか。

――うわっ!

 健二はおもわず腰を浮かせていた。

 実の母親に声をかけられたのだ。

――ひとつ、ふたつ、みっつ。

 ゆっくりと呼吸をする。

 念のためにさらに三度した。

 母親をスルー。

 また一錠、大事な大事な秘薬を失った。

――なんでなんだ!

 なんで我が家の女どもは、こうまでして自分の恋路を邪魔しなきゃならんのだ。早く結婚しろとのたまいながら、こんな非情なことをやるとは不条理このかたないではないか。

「健二、ここに来るの、ひさしぶりだよね」

 隣に座る母親が鬼に思える。

――しるか!

 健二は心で毒づいた。

「イカ玉だったな」

「ビールは?」

 美紀たちの声もうわのそらである。

 イカ玉を口にかき込み、ビールで胃袋に流しこんだのだった。


 健二はあてもなく商店街を歩いていた。

――あんなに気をつけていたのにな。

 そうなのだ。

 自分は情報をもとに計画どおり、しかも慎重にやった。

 なのに鬼が割り込んできた。

 笹山は十錠あって、それも七度目にやっと成功。

 自分には、はなから三錠しかない。それもすでに二錠は失っており、残りはあと一錠。

 もう一度の失敗も許されない。

――どうすりゃ……。

 健二は足を止めて天をあおいだ。

 と、そのとき。

 ドスン!

 だれかとぶつかったはずみで、健二はおもわず歩道に尻もちをついてしまった。

「すみません」

 頭上で女性の声がした。

 健二が顔を上げると、目の前にロングヘアーの若い女が立っていた。

 スタイル抜群の美人である。

「だいじょうぶですか?」

 女が手をさしのべてくる。

「い、いえ」

 健二は手を借りずに立ち上がった。

 実際、どこも痛くない。それに女性に手を借りるなど、そんな女々しいことはできない。

「どこか、お怪我は?」

「だいじょうぶです」

「ごめんなさいね。わたし、ちょっとボーとしてたものだから」

 女があらためて頭を下げる。

「いえ、こっちこそ」

「なにかお詫びを」

「とんでもない」

「でも、やっぱり……」

「気にしないでください」

「ううん。もしよかったら、なにかごちそうさせてくださいませんか」

 女が誘ってくる。

――えっ?

 健二にとってはまったくもって意外な展開。しかも女は、ふるいつきたるようなお色気美人。

「じゃあ、そこの喫茶店でコーヒーでも。ボクはさっき食べたばかりなもんで」

 健二は近くに見える喫茶店を指さした。

「ええ」

 女が笑顔でうなずく。


 二人は連れ添って喫茶店に入った。

 まるで恋人同士のように、窓際のテーブルに向かい合って座った。

「ほんとにごめんなさいね」

「い、いえ」

「佐藤沙織と申します。よろしければ、お名前を教えていただけませんか」

「小川、小川健二です」

「これ、わたしのアドレスなんです。あとでどこか痛くなったら、すぐに連絡してくださいね」

 彼女が名刺をくれる。

「あっ、はい」

 健二は名刺に目を落とした。

 この商店街の一画にある、紳士服専門店の名前が記されてあった。どうやら、そこの従業員をしているようだ。

「もしよろしければ、アドレスも」

「ええ、もちろんです」

 健二は財布から名刺をあわてて取り出し、これですと言って、女に渡した。

 彼女が名刺を見つめる。

――どういうこと?

 健二は頭の中が混乱してきた。

 若い女性とメール交換だなんて、こんなことはかつて一度もなかったことだ。しかも秘薬は、まだ飲んでいないのである。

――まさか当たり屋で、あとで怖いお兄さんが登場だなんてことは……。

 そんなことまで頭をよぎり、ついまわりの席を見まわしてしまう。

 だが、それらしき怪しい者はいなかった。

 ウェイトレスがやってきて、水の入ったコップを二人の前に置いた。

「ホットをふたつ」

 彼女が笑顔で注文する。

――こんなかわいい顔で、そんなひどいことができるわけがない。

 健二は先ほどの邪推を振り払った。

 そして思った。

 今なのだ。

 今こそチャンスなのだ。

 今の彼女の気持ちを不動のもの――永遠の愛に変えるんだと……。

 健二はポケットに手を入れ、小ビンの中の最後の一錠を指でつまんだ。それから水を飲むふりをして、秘薬もいっしょに飲んだ。

 とたんに、

「健二さん」

 彼女が声をかけてきた。

「はい」

 健二もすぐさま返事を返した。

 なんというタイミングの良さ。返事をするまでひと呼吸もなかった。

「わたしったら、つい健二さんって。まだ出会ったばかりなのに」

 彼女が頬を赤らめてうつむく。

――健二さんか……。

 笹山が話していたアタックというヤツが、すでに彼女の中で始まっているようだ。

「わたし……」

 彼女がいきなり涙ぐむ。

「えっ?」

「コーヒーを飲み終わったら、もう健二さんとお別れに。そう思ったら悲しくなって」

「お別れだなんて。このまま、ずっといっしょにいていいんだから」

 秘薬の効果を知っているだけに、健二も歯の浮くような言葉がスラスラと出てくる。

「じゃあ、また会ってくれます?」

「もちろんだよ」

「うれしい!」

 彼女の目が輝く。

――やったぞ!

 健二は心の内で雄叫びをあげた。

 ついに恋人ができたのだ。この女性を妻として、しかも愛されて、死ぬまで幸福な人生が送れる。

 秘薬による愛は永遠なのだ。

「実はわたし、こう見えて……」

 彼女がもじもじとする。

「うん?」

「健二さん、わたしのことを認めてくれたから。いっしょにいていいって言ってくれたから。それで正直に話さなくちゃって」

「なに?」

「わたし、実は男なんです」

 彼女の言葉が、目の前の現実が、健二はすぐには呑み込めなかった。

――まさか!

 当然のことである。どこからどう見たって、彼女は女にしか見えないのだ。

「戸籍は男なんです」

 いきなりのカミングアウト。

――そっ、そんなあ!

 健二の頭の中は混乱しまくった。

 脳の神経がショートし、火花がバチバチとはじけまくる。

「こんなわたしでよければ……ううん、ずっといっしょにいてください」

 彼女がうっとりした目で語りかけてくる。

 美しい顔を近づけてくる。

「オ、オレ、悪いけど……。オレ、帰るから」

 健二は口走ってから、あわてて席を立ち、足早に出口に向かった。

「健二さん、待って!」

 戸籍が男の女が追ってくる。


 健二は走っていた。

 あの女は、いや、女にしか見えない男は振り切ったが、それでも足を止めることはなかった。

――一生、オレは……。

 もうカノジョはできない。

 もう恋人はできない。

 もう結婚できない。

 もう、もう、もう……自分はこの先ずっと、淋しい淋しい人生を送ることになる。

――すまん、笹山。

 愛の秘薬は、三錠みんなムダに使ってしまった。

 友人の好意をドブに捨ててしまった。

――愛は永遠に……。

 笹山の言葉を思い出す。

 そうなのだ。

 今後ずっと、戸籍が男の女から求愛の猛アタックを受けるのだ。

――最悪だ! 最悪だ!

 何度も何度も心の中で叫ぶ。

 あの男の女には名刺を渡している。いつまた連絡があるやしれない。

――ヤバイ、職場にも?

 渡した名刺には勤め先の会社名も入っている。電話やメールどころじゃない。もしかして、職場にまで押しかけてくるかもしれない。

――いや、そのうち必ず……。

 秘薬の効き目は永遠なのだ。

「そのケがあったとはなあ」

「小川君って、そんな趣味があったんだ」

「どうりで結婚しないはずよね」

 職場の先輩、同僚、部下らのニタニタする顔がありありと思い浮かぶ。

――最悪だ!

 オカマ?

 おネエ?

 ニューハーフ?

 ヤツがどれだかわからないが、いずれにしろ野郎であることにはちがいない。自分はそんな者から、この先ずっと追いまくられることになった。

――待てよ。

 健二は思いとどまった。

 笹山はこうも話していたのだ。秘薬は男は女に、女は男に。そう、異性にしか効かないと。

 それがまちがいないのなら……。

――なら、なんで?

 アイツは本物の女だったのか?

 秘薬が女の部分に効いたのか?

 それとも、そもそも秘薬とは関係なく、自分は男の女にほれられてしまったのか?

――そういえば!

 今になって思えば……。

 アイツに誘われたのは秘薬を飲む前だった。それもたわいもないことから始まり、さらにその後も予期せぬ展開であった。

――でも、オレがモテるとは思えねえし。

 アイツは女だったのか?

 秘薬が男の女の部分に効いたのか?

 自分がただたんに、あの男の女の好みのタイプだったのか?

 なにがなんだかわからない。

 女がなんだ。

 愛がなんだ。

 なにもかもクソくらえだ。

 もうまっぴらだ。

 もうこりごりだ。

 もう、もう、もう……。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] オカマ関連の話ですが、単純にオカマ落ちではなく、謎めいた終わらせ方で新味を感じました。 母親、姉、妹で三錠なのかなとも思い、それもちがったので、作品への集中力が途切れることなく読ませてくれ…
2018/02/22 07:19 退会済み
管理
[一言] 歩かれないは、方言だそうです。国語科教師より。
[良い点] 珍しく長く感じる作品でしたが読み応えがありました。逆の立場だったら…などとつい想像してしまいましたが私なら有名人の楽屋を訪ねてみたいですね。人のモノでも奪えるなら美味しい話なのに勿体無いな…
2017/05/23 17:01 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ