愛は永遠に (短編13)
小川健二は女性に縁がない。
三十五歳になるこのかた、カノジョはおろかガールフレンドと呼べる者さえいなかった。
姉と妹は早々と結婚し、それぞれ子供もいる。二人とも近くに住んでいるので、たびたび我が家に来ては健二にのたまうのだった。
「健二、あなたなんで結婚しないのよ?」
「お兄ちゃん、そろそろ結婚して落ち着けば」
この二人に母親が乗っかかるものだから、健二としてはいいかげんうんざりしてくる。
むろん健二も恋人は欲しいし、早いとこ結婚して身をかためたいと思っている。
けれども……。
そうした女性に恵まれないというか、ようはそのような縁のある出会いが一度もなかっただけである。
そんなとき。
笹山から誘いの電話があった。
笹山は学生時代からの親友で、今も健二と同じチョンガーである。
「これから、オレんちに来ないか。オマエにいいものがあるんだ」
「なんだ、いいものって?」
「とにかく来てからだ。話すと長くなるんでな」
笹山は思わせぶりに言って電話を切った。
笹山のアパート。
「話す前に、こいつを見てくれ」
親友が小ビンをコタツの上に置く。
「なんだ、それ?」
「薬だ、愛の秘薬が入ってる」
「じゃあ、いいものって」
「そうだ、これだよ。オマエ、女にまったく縁がねえだろ。なのでこれをやろうと思ってな」
「まさか変なもんじゃねえだろうな」
「疑うのもわかるけどさ、こいつは正真正銘の縁結びの愛の秘薬なんだぜ。ほらオレ、半年ほど前、仕事で東南アジアに出張しただろ。そのとき行った、山奥の村で手に入れたんだよ。それも原住民のシャーマンからだ」
「ほんとかよ?」
「ウソなもんか。オレはこいつで、今のカノジョを射止めたんだからな」
笹山は自信ありげに話した。
そうなのだ。
三カ月ほどのちに、笹山は結婚することが決まっている。健二はその披露宴に招かれていた。
「五万円もしたんだぞ。現地じゃ、半年分の現金収入だそうだ」
「そんなに……」
「まあ、だまされた思って使ってみたらどうだ」
笹山は薬ビンのフタを開け、それから中の秘薬を手の平にこぼした。
秘薬は黒い粒で三粒あり、色も形も胃腸薬の正露丸に似ていた。
「全部で十錠あったんだが、うち七錠をオレが使ったんで、あと三錠しかねえけど」
「で、飲んだらどうなる?」
「女から誘いがかかる。でもな、効くのは一錠で女一人に限られるんだ。オレは七錠飲んだので、七人の女に声をかけられた」
「じゃあその七人目が、オマエの奥さんになる女性ってことだな」
「まあそうなんだけど、初めのうちはつまらん失敗ばかりしてな」
「つまらんって?」
「うかつな場所にいると、だれかれとなく声をかけられるだろ」
「男だったら意味ないもんな」
「いや、その点はまったく心配せんでいい。男が飲めば女に、女が飲めば男にと、こいつは異性にしか効き目がないんでな」
「なら、どんな?」
「だってさ、女といっても子供から年寄りまでいるだろ。オレ、はじめて飲んだとき、とんでもねえばあさんに声をかけられたもんな」
「で、どうした?」
「とうぜん無視したよ。返事をしないで、呼吸を三回したらスルーしたことになって、それ以上は発展しないんだ。でも、秘薬もそれでおじゃんさ」
「使い方、なんかむずかしそうだな」
「とくに、こっちが返事をするタイミングがな」
「呼吸、三回のうちだもんな」
「そうなんだよ。だって若い女にしたって、自分の好みじゃない女もいるだろ」
「そりゃ、美人の方がいいしな」
「それでオレ、ブスのときはスルーしたんだ。でも秘薬は十錠しかねえし、なくなる前のどこかで折り合わなきゃなんねえし、迷ってる時間はねえんだ」
「それで七錠も使ったのか」
「まあオレの場合、七回目に今の彼女にめぐり会えたんで、ほんとラッキーだったよ。オマエも知ってのとおり、なかなかいい女だろ」
笹山がのろける。
「残りは三錠か……。じゃあ、オレはより慎重にならなきゃな」
「そういうことだ」
「それで気にいった女がいてよ。そのあと発展させたいとき、オレはどんな返事を?」
「はいでも、うんでもなんでもいい。でもな、さっきも言ったように、呼吸を三回するうちにだぞ」
「で、返事をしたら?」
「その女がオマエにアタックしてくるんだ」
「ほんとにそれだけで?」
「シャーマンはそう話してた。それに、今の彼女のときもそうだったんでな」
「ならオレも……」
「で、オマエにもと思ってな」
「うれしいけど、そんな貴重なもん、ほんとにみんないただいていいのか?」
「ああ。オレはこのとおり、もう使うことがなくなったんで」
「でもよ、今の彼女と別れたら、また使うってことにならねえか」
「そいつはまったく心配ねえ。薬の効果、長いこと続くそうなんだ」
「長いってどのくらい?」
「シャーマンの話じゃ、その女に永遠に愛されるってよ」
「すげえな」
「愛は永遠にだ。健二にも幸あれだな」
「恩にきるよ」
秘薬の入った小ビンをポケットに、健二は意気揚々とにぎやかな街中に向かった。
街の繁華街に着く。
健二はさっそくコンビニに入り、ミネラルウォーターのペットボトルを買った。それからトイレに入って秘薬を飲んだ。
ハラハラドキドキである。ばあさんやオバンに、いきなり声をかけられることだってあるのだ。
ドアをわずかに開けてのぞいてみた。
年増の女は見えない。
健二は胸をなでおろした。ただ店内には、目当ての若い女性もいないようだ。
レジカウンターに視線を向けると、三十代後半とおぼしき女性店員が見えた。その店員と目が合わないよう、健二は一直線に出口へと向かった。
自動ドアが開く。
店の外に一歩踏み出したところで、健二はよく見知った女に声をかけられた。
「あら、健二じゃない」
姉である。
――なんで!
健二は呼吸を素早く三回して、この憎き姉をすぐさまスルーした。
だが、これで……。
秘薬の一錠がムダになってしまった。
健二は振り向きもせず、コンビニの前から走り去ったのだった。
――クソー。
毒づいても、すでにあとの祭りである。
まさかあんなところで、それも姉に出くわすとは思いもしなかった。
――気をつけなきゃあ。
いったん薬を飲んだら、自分の居場所のなんと制約の多いことか。
年増女の多い場所は歩けない。
若いからといって未婚者とは限らない。
それにさっきのように、思いがけない者に声をかけられることだってある。
――そうだ、あそこなら……。
健二はデパートに向かった。
デパートの中なら、若くてきれいな客が盛りだくさんいる。店内の売り場にも、従業員やバイトの子がいてよりどりみどりである。
それにだ。
好みの女性を見つけてから秘薬を飲み、それから余裕をもって近づけばよい。
これなどいかがです? きっとお似合いだと思いますよ……。なんて、きれいな店員に声をかけられるかもしれないのだ。
――ウヒヒヒ……。
つい、口元がにやけてしまう。
健二はデパートに入ると、秘薬を飲む前に、まず女性の下見をしてまわった。
――おっ!
二階にある靴売り場に、まさに自分好みの女性店員がいて、にこやかに客の相手をしている。スタイル抜群の美人で、年齢は二十代なかばに見えた。
ただ……。
いくら若いからといって、彼女が必ずしも独身とは限らない。秘薬を飲む前に、それだけは見極めておかなければならない。
――本人には聞けねえしな。
健二は彼女をうかがい見つつ、何度か靴売り場の前の通路を往復した。
けれども……。
年齢はおよそ見当がつくものの、未婚なのか既婚なのかまったくわからない。
と、そんなとき。
「おじちゃあーん」
幼い声がして、妹の娘――姪っ子が健二のもとにかけ寄ってきた。
――てっ、ことは……。
姪っ子はまだ幼稚園生。当然そこには保護者である妹もいた。
――秘薬を飲む前でよかったよ。けどなんで、姉妹そろって邪魔をしやがるんだ。
健二は妹を見て毒づいた。
妹がいぶかしげに問うてくる。
「お兄ちゃん、こんなとこでなにしてんの?」
「べつに……。で、オマエこそなんで?」
「ここに、ちょっと用があってね」
「ここ?」
「そう、ここの靴屋さん」
妹が店内をのぞき見る。
「ちょうどいいわ。ちょっとの間、この子をここでみててくれる?」
姪っ子を健二に押しつけ、妹はそのまま店内に進み入った。それから、さきほどの美人店員に向かって手を振った。
彼女も手を上げて、妹に満面の笑みを返している。
――知り合いなんだな。
健二は姪っ子を抱いて、妹と店員のようすをじっと見守った。
三分ほどで妹が店から出てくる。
「お待たせ」
「あの店員、オマエ知ってんのか?」
「うん、高校のときの友だち」
「高校のとき?」
「彼女、若く見えるでしょ。でも結婚して、子供も二人いるんだよ」
「そうなんだ」
秘薬を飲んで接近していたらと思うと心底ゾッとした。もしかしたら子持ちの人妻から、求愛の猛アタックを受けることになっていたかもしれないのだ。
健二はそっと胸をなでおろした。
「じゃあね、お兄ちゃん」
妹は我が子の手を引き、その場から足早に立ち去っていった。
健二は早々にデパートを出た。
反省しながら歩く。
デパートはたしかに、若い女性が数え切れないほどいる。美人もたくさんいる。
けれど……。
相手の確かな情報がなければ、先ほどのように薬を飲むべきか判断がつかない。だが前もって情報があれば、薬をムダにするリスクがぐっと減る。
それに同じ呼吸三回のうちでも、余裕をもって返事をすることができる。
そうした考えに至ったところで、
――美紀だ!
幼なじみの顔が思い浮かんだ。
彼女とは家が近く、学校も幼稚園から高校まで同じだった。美人で気立てがよく、中学の一時期、健二は彼女に思いを寄せていたことがある。
その美紀なら情報が多い。
「ねえ、美紀ちゃんはどう? あんな子がお嫁さんに来てくれたらいいのにね」
母親が美紀のことをたびたび口にするのである。
彼女は今も独身で、商店街にある父親のお好み焼き屋を手伝っている。
――よし、美紀なら。
健二はさっそく商店街に向かった。
秘薬はあと二錠。
健二は一錠を手の中に持ち隠し、美紀が働いているお好み焼き屋に足を踏み入れた。
「よう、健ちゃんじゃないか」
美紀の父親が健二を見ておどろいた顔をする。
「おひさしぶりです」
「美紀、小川さんとこの健二君だぞ」
その声に、
「まあ! おひさしぶりね」
厨房から出てきた美紀が、昔ながらの愛想のいい笑顔を向けてくる。
「前を通りかかったら、なんだかお好み焼きが食いたくなってな」
健二はとっさに言いつくろい、空いているカウンターの席を陣取った。
「お母さんとは、いつもここで会ってるのよ」
「オフクロさん、うちのおとくい様でな。それで健ちゃんのことも、よく話に出るんだ」
美紀とオヤジさんが口をそろえて言う。
――それでだな。
母親の美紀に関する情報は、ここで仕入れていたことだったのだ。さらに自分のことについても、余計なことをしゃべっているようだ。
「イカ玉ね」
健二はとりあえず注文をすませ、秘薬を飲むタイミングをうかがった。
「ビールがよかったかな?」
美紀がカウンター越しに、お冷の入ったコップを健二の前に置く。
――今だ!
とっさに薬を口の中に放り込こみ、健二はコップの水を飲んだ。それから返事を促すようにもったいぶって言った。
「どうしようかな」
息を止めて美紀の返事を待つ。
――うん?
美紀の目は、なぜか店の入り口に向いていた。それから元気のいい声を出す。
「いらっしゃいませ!」
声をかけた相手は健二ではなかった。店に入ってきたばかりの客に対してであった。
健二も振り向いて見た。
「あんた来てたの?」
なんと母親ではないか。
――うわっ!
健二はおもわず腰を浮かせていた。
実の母親に声をかけられたのだ。
――ひとつ、ふたつ、みっつ。
ゆっくりと呼吸をする。
念のためにさらに三度した。
母親をスルー。
また一錠、大事な大事な秘薬を失った。
――なんでなんだ!
なんで我が家の女どもは、こうまでして自分の恋路を邪魔しなきゃならんのだ。早く結婚しろとのたまいながら、こんな非情なことをやるとは不条理このかたないではないか。
「健二、ここに来るの、ひさしぶりだよね」
隣に座る母親が鬼に思える。
――しるか!
健二は心で毒づいた。
「イカ玉だったな」
「ビールは?」
美紀たちの声もうわのそらである。
イカ玉を口にかき込み、ビールで胃袋に流しこんだのだった。
健二はあてもなく商店街を歩いていた。
――あんなに気をつけていたのにな。
そうなのだ。
自分は情報をもとに計画どおり、しかも慎重にやった。
なのに鬼が割り込んできた。
笹山は十錠あって、それも七度目にやっと成功。
自分には、はなから三錠しかない。それもすでに二錠は失っており、残りはあと一錠。
もう一度の失敗も許されない。
――どうすりゃ……。
健二は足を止めて天をあおいだ。
と、そのとき。
ドスン!
だれかとぶつかったはずみで、健二はおもわず歩道に尻もちをついてしまった。
「すみません」
頭上で女性の声がした。
健二が顔を上げると、目の前にロングヘアーの若い女が立っていた。
スタイル抜群の美人である。
「だいじょうぶですか?」
女が手をさしのべてくる。
「い、いえ」
健二は手を借りずに立ち上がった。
実際、どこも痛くない。それに女性に手を借りるなど、そんな女々しいことはできない。
「どこか、お怪我は?」
「だいじょうぶです」
「ごめんなさいね。わたし、ちょっとボーとしてたものだから」
女があらためて頭を下げる。
「いえ、こっちこそ」
「なにかお詫びを」
「とんでもない」
「でも、やっぱり……」
「気にしないでください」
「ううん。もしよかったら、なにかごちそうさせてくださいませんか」
女が誘ってくる。
――えっ?
健二にとってはまったくもって意外な展開。しかも女は、ふるいつきたるようなお色気美人。
「じゃあ、そこの喫茶店でコーヒーでも。ボクはさっき食べたばかりなもんで」
健二は近くに見える喫茶店を指さした。
「ええ」
女が笑顔でうなずく。
二人は連れ添って喫茶店に入った。
まるで恋人同士のように、窓際のテーブルに向かい合って座った。
「ほんとにごめんなさいね」
「い、いえ」
「佐藤沙織と申します。よろしければ、お名前を教えていただけませんか」
「小川、小川健二です」
「これ、わたしのアドレスなんです。あとでどこか痛くなったら、すぐに連絡してくださいね」
彼女が名刺をくれる。
「あっ、はい」
健二は名刺に目を落とした。
この商店街の一画にある、紳士服専門店の名前が記されてあった。どうやら、そこの従業員をしているようだ。
「もしよろしければ、アドレスも」
「ええ、もちろんです」
健二は財布から名刺をあわてて取り出し、これですと言って、女に渡した。
彼女が名刺を見つめる。
――どういうこと?
健二は頭の中が混乱してきた。
若い女性とメール交換だなんて、こんなことはかつて一度もなかったことだ。しかも秘薬は、まだ飲んでいないのである。
――まさか当たり屋で、あとで怖いお兄さんが登場だなんてことは……。
そんなことまで頭をよぎり、ついまわりの席を見まわしてしまう。
だが、それらしき怪しい者はいなかった。
ウェイトレスがやってきて、水の入ったコップを二人の前に置いた。
「ホットをふたつ」
彼女が笑顔で注文する。
――こんなかわいい顔で、そんなひどいことができるわけがない。
健二は先ほどの邪推を振り払った。
そして思った。
今なのだ。
今こそチャンスなのだ。
今の彼女の気持ちを不動のもの――永遠の愛に変えるんだと……。
健二はポケットに手を入れ、小ビンの中の最後の一錠を指でつまんだ。それから水を飲むふりをして、秘薬もいっしょに飲んだ。
とたんに、
「健二さん」
彼女が声をかけてきた。
「はい」
健二もすぐさま返事を返した。
なんというタイミングの良さ。返事をするまでひと呼吸もなかった。
「わたしったら、つい健二さんって。まだ出会ったばかりなのに」
彼女が頬を赤らめてうつむく。
――健二さんか……。
笹山が話していたアタックというヤツが、すでに彼女の中で始まっているようだ。
「わたし……」
彼女がいきなり涙ぐむ。
「えっ?」
「コーヒーを飲み終わったら、もう健二さんとお別れに。そう思ったら悲しくなって」
「お別れだなんて。このまま、ずっといっしょにいていいんだから」
秘薬の効果を知っているだけに、健二も歯の浮くような言葉がスラスラと出てくる。
「じゃあ、また会ってくれます?」
「もちろんだよ」
「うれしい!」
彼女の目が輝く。
――やったぞ!
健二は心の内で雄叫びをあげた。
ついに恋人ができたのだ。この女性を妻として、しかも愛されて、死ぬまで幸福な人生が送れる。
秘薬による愛は永遠なのだ。
「実はわたし、こう見えて……」
彼女がもじもじとする。
「うん?」
「健二さん、わたしのことを認めてくれたから。いっしょにいていいって言ってくれたから。それで正直に話さなくちゃって」
「なに?」
「わたし、実は男なんです」
彼女の言葉が、目の前の現実が、健二はすぐには呑み込めなかった。
――まさか!
当然のことである。どこからどう見たって、彼女は女にしか見えないのだ。
「戸籍は男なんです」
いきなりのカミングアウト。
――そっ、そんなあ!
健二の頭の中は混乱しまくった。
脳の神経がショートし、火花がバチバチとはじけまくる。
「こんなわたしでよければ……ううん、ずっといっしょにいてください」
彼女がうっとりした目で語りかけてくる。
美しい顔を近づけてくる。
「オ、オレ、悪いけど……。オレ、帰るから」
健二は口走ってから、あわてて席を立ち、足早に出口に向かった。
「健二さん、待って!」
戸籍が男の女が追ってくる。
健二は走っていた。
あの女は、いや、女にしか見えない男は振り切ったが、それでも足を止めることはなかった。
――一生、オレは……。
もうカノジョはできない。
もう恋人はできない。
もう結婚できない。
もう、もう、もう……自分はこの先ずっと、淋しい淋しい人生を送ることになる。
――すまん、笹山。
愛の秘薬は、三錠みんなムダに使ってしまった。
友人の好意をドブに捨ててしまった。
――愛は永遠に……。
笹山の言葉を思い出す。
そうなのだ。
今後ずっと、戸籍が男の女から求愛の猛アタックを受けるのだ。
――最悪だ! 最悪だ!
何度も何度も心の中で叫ぶ。
あの男の女には名刺を渡している。いつまた連絡があるやしれない。
――ヤバイ、職場にも?
渡した名刺には勤め先の会社名も入っている。電話やメールどころじゃない。もしかして、職場にまで押しかけてくるかもしれない。
――いや、そのうち必ず……。
秘薬の効き目は永遠なのだ。
「そのケがあったとはなあ」
「小川君って、そんな趣味があったんだ」
「どうりで結婚しないはずよね」
職場の先輩、同僚、部下らのニタニタする顔がありありと思い浮かぶ。
――最悪だ!
オカマ?
おネエ?
ニューハーフ?
ヤツがどれだかわからないが、いずれにしろ野郎であることにはちがいない。自分はそんな者から、この先ずっと追いまくられることになった。
――待てよ。
健二は思いとどまった。
笹山はこうも話していたのだ。秘薬は男は女に、女は男に。そう、異性にしか効かないと。
それがまちがいないのなら……。
――なら、なんで?
アイツは本物の女だったのか?
秘薬が女の部分に効いたのか?
それとも、そもそも秘薬とは関係なく、自分は男の女にほれられてしまったのか?
――そういえば!
今になって思えば……。
アイツに誘われたのは秘薬を飲む前だった。それもたわいもないことから始まり、さらにその後も予期せぬ展開であった。
――でも、オレがモテるとは思えねえし。
アイツは女だったのか?
秘薬が男の女の部分に効いたのか?
自分がただたんに、あの男の女の好みのタイプだったのか?
なにがなんだかわからない。
女がなんだ。
愛がなんだ。
なにもかもクソくらえだ。
もうまっぴらだ。
もうこりごりだ。
もう、もう、もう……。