7. 薄暮。
「どうして、私と一緒に帰ろうと思ったの?」
架け橋の途中で安穏が身を翻した。お気に入りの傘を肩に置いて、両足を揃えて立ち止まる。急な問い掛けに僕は聞き返す。
「え? なんだって?」
聞こえてはいたが、念のために確認しておきかった。
安穏は「だから」と息を吐いて、穏やかな表情のまま続けた。
「一体、どうして私を誘ってくれたの?」
「どうしてって……」
考える素ぶりをして、一度視線を外す。こうも真っ直ぐと見つめられたら、思うように話をすることができない。井口くんの言葉を真似るなら、戦略的撤退といったところか。
「……えっと」
架け橋の下には河川が広がっていた。ここ最近の豪雨の影響もあってか、水位が上昇していた。泥水がスライダーを滑っている。
水底は濁っていて見えない。
「……」
どうして一緒に帰ろうと思ったのか、だって? 変な質問だな。この時の筆者の気持ちを答えろ、だなんてテストの問題みたいだ。
大体、こんなの答えは一つしかないじゃあないか。たった一つの単純な答えだ。
『てめーはおれを惚れさせた』
……なんて、言えれば良いんだけどな。長い因縁に決着をつけるように、ありのままの本心を伝えられれば、どれほど気が楽になることか。
それが言えないから、遠回りのアプローチばかりを繰り返してしまう。
倒れることを恐れて、ピースを取らなければ、ジェンガは終わらない。停滞したゲームほどスリルのないモノはない。僕は今まさにそれだ。崩れないブロックが積み上げられているのを、触れられずに見ているだけ。
「……良い機会だと思ってさ。勉強会の件もあったし、部活も休みだったから、誰かと帰りたくて。それなら安穏がいいかなあって」
終わらせたいのに、終わらせたくはない。
「ほら、僕ら……友達だろ?」
なんて酷い、矛盾だろうか。
×××
「……そっか」
お馴染みの三文字を呟いて、安穏が俯く。そのまま目を逸らされた。今の答えは、あまりお気に召さなかったようだ。問題は不合格で赤点決定。家庭教師でも雇おうか。
女心を教えてくれる、優しい先生でもいればな。この時の心情はこうで〜と解説してくれれば、相手の望む行動を起こせるのに。
「そうだよね。私たち友達だもんね」
安穏が自分の足元を見つめている。ローファーに、膝丈までの黒いソックス。スカートの間からはジャージのズボンも見える。寒さ対策なのだろう。
「おお、そうだ! 僕らは友達だ」
コツリ、コツリと地面に妙なリズムが刻まれていく。相手の発言に合わせて、わざとテンションを上げている僕は、まるでマリオネットだ。そこに自分の意思はない。からくりのサーカスである。
「友達だったら一緒に帰るのがふつうだよね」
「うん、普通だぞ。何もおかしくない。極めてノーマルだ」
微雨が水面を揺らす。
外車が中央の道路を通過していく。
「だよね」
安穏が靴音を鳴らすのをやめて、頷いた。再び視線が向けられる。目と目が合う。
「それなら、善一くん」
彼女の言葉が雨の中を飛び跳ねる。
響いて、響いて、飛んで、落ちて。
「どうして、友達になろうと思ったの?」
雨粒と共に、また消えてゆく。
※ ※ ※ ※ ※
『ねぇ、新垣くん。私と友達になってよ』
今、思い返してみると、あの子も同じような台詞を残していた。信じたくはないが、無意識に真似をしていたのかもしれない。決して、認めたくはないけれど。
友達になろうと思ったのに、理由なんてなかった。アプローチの一環とも呼べるし、衝動的で突発的な行動だったと今でも思う。
でも、もし理由をつけるとしたのならば、最初のきっかけが欲しかった、だけだったのかもしれない。
せっかく一緒のクラスになったのに、そのまま話をすることなく学年が変わって別々になっていく。そんなのは嫌だったから。
もし、教室で初対面したあの日。西田先生に邪魔をされずに、ちゃんと友達になっていたら、どうなっていたのだろうか。そこで連絡先をすぐに交換できていたのかな。
早めに仲良くなれていたら、勉強会も、オリエンの肝試しも、もしかしたら──。
……いや、やめよう。「もしもあの時」だなんて。IFを祈って何になる。
タイムマシンでも開発されない限り、今ここが現実じゃないか。パラレルワールドなんて、馬鹿げている。誰もが幸せになれる、シュタインズゲートは存在しない。
何度も何度も、言わせるなよ。新垣 善一。よく聞け。もう一度言うぞ。あぁ、そうだ、僕だ。お前に言っている。忘れないように、そのちっぽけな脳に刻み込ませておけ。
いつだって──現在が、その時だ。
腹を括れ。逃げる言い訳を探すな。また後悔してウジウジと悩むのか? 自分でもわかっているだろ、そんなのウンザリだって。
ならば、行こう。勝負をかけるんだ。
悔いのないように、生きる為に。
「……安穏が、良かったから」
「えっ?」
口に出すのは、ありったけの本心。今、僕が出来る最大限。思いのままの言葉を洗いざらい、君にぶつける。好きという二文字が出てこなくとも、別に問題はない。同義だ。
「他の誰でもない。安穏が良かったんだよ。理屈とかじゃなくて、ただ……なんとなく」
拳をギュッと握りしめる。目は合わせたままだ。全ての想いを届ける。感情をブチかまして、停滞した時間を吹き飛ばす。キング・クリムゾン発動ォォッッ!!
前に一度、二人で観覧車に乗ったよな。あの時に好きな人がいるって、告げたっけ。なら、もうわかるかもしれないな。僕の好きな人が誰なのか。
「安穏と話していてさ。すごく楽しくて、なんかこう……落ち着くな、って思えたんだ。だから、もっと話をしたり、一緒に帰ったりする仲になりたいと、そう思ったんだよ」
ふぅと息を吐いて、俯く。心臓が爆音を搔き鳴らして、お腹が痛くなってくる。身体の芯も燃えている。……ヤバい、ヤバいぞ。
自然と震える唇は、寒さのせいか。
それとも、また別のものなのか。
下を向くと、脚が産まれたての子鹿みたいにプルプル震えていた。初期微動継続時間はどのくらいだろうか。もうすぐ主要動がやって来るぞ。それまで耐えられるか!?
「桜の下で、初めて出逢った時からずっと思っていた。僕は……安穏のことを」
言葉を切る。口の中が乾燥して、舌が回らなくなっていた。顔が熱い。ふぅ、ふぅ、と呼吸が乱れてきている。動悸が激しい。死ぬ……死ぬぅ……。
いいや! 死なんさ!!
丸めていた背中を伸ばす。拳でドン! と胸を叩いて、覚悟を決める。僕がやらねば、誰がやる。諦めたらそこで試合終了だ。
やるしか、ない。
顔を上げる。再び、最愛の人──安穏 のどかに向けて、ハッキリと想いを告げる。
「すごく仲良くなれそうな人だなって!!」
ふぅ、なんとか生き延びられたぞ。
※ ※ ※ ※ ※
「……」
……って、オイィィィィィィ!! なんか無反応なんですけどォォォォ!?
安穏は何とも言えない表情で立ち尽くしていた。虚ろな目はまるで別人みたいだ。思わず、現実逃避しそうになった。
こっちを見ているのに、まるで遠くを眺めているようだ。えっと……安穏さん、僕が見えてますか? 僕の声は君に届いていますか?
もしかしたら、ドン引きされているのかもしれない。一緒に居て落ち着くだとか、どこの彼氏気取りだよ! って話だもんな。
「……」
何も語られずにいると、心が少しずつ闇に侵食されていく。
どうか、雨よ。この憂鬱を洗い流してはくれないだろうか。
「…………」「…………」
願いが届いたせいか、傘を叩く雫の音が激しさを増し出した。銃弾でもぶつかったかのように、ガンガン鳴っている。長すぎる道草だな。どこが健全な高校生なんだよ。
立ち止まったまま、お互いに動かない。
靴は中までビチョビチョだ。きっと安穏も同じことになっていることであろう。
ヘッドライトを点灯させた車が走っている。ワイパーが左右に素早く移動しているのを目で追って、また彼女へと視線を戻す。
雨雲の嘆きが、脳内を響かせた時。
沈黙は、唐突に破られた。
「……善一くんは優しいね。私も同じことを思っていたよ」
エ? オナジコトヲオモッテタ?
今、確かに言ったよな? 僕の聴覚神経が伝達ミスをしていなければ、間違いなくそう聞こえたぞ?
「ほ、本当か?」
確認すると、安穏はふらりと背を向けた。そのまま早足で歩き出す。
「え? ちょ、ちょっと! あ、安穏……?」
半分、走るような速度で彼女は逃げてゆく。僕から遠さがるように、走り去っていく。速い、流石は陸上部。菜月ほどではないけど。てか、なんで走るの!?
「ま、待ってくれよ!」
呼び掛けながら、僕も続く。霧のような飛沫が頭上には飛び掛かってきていた。
※ ※ ※ ※ ※
「はあ……はあ……」
ようやく駅前に到着した。だが、ここはいつも宗と乗っている場所とは違う。一駅先だろうか。雨のせいもあって、人が少ない。
安穏は近くの待合室にいた。六つ並べられた椅子の一番端に座って、ずぶ濡れになった髪をタオルで拭いている。中には初老の男性がひとりいて、腕を組んで眠っていた。
隣を空けていたので、僕はそこへ着席する。傘を畳んで、雫を払う。
暖房がついていたこともあってか、そこはかなり居心地が良いスペースであった。冷えた身体を癒すには丁度良い。
端に古びた時計が掛けてあったのを発見する。そこでようやく18時半を過ぎていることを知った。え、もうこんな時間なのか。やばい、今日は僕がご飯当番だったような……。
……瑠美に連絡しておくか。
スマホを開いて、操作を始める。指がシワシワになって湿っているからか、文字を打ち込むのに時間がかかってしまう。
鞄に携帯を戻す。安穏は長い髪を白いタオルですーっと撫でるように拭いている。
「……ごめん、色々と」
目を合わせずに、その場で謝罪をする。この子には申し訳ないことをした。こんな日に遅くまで外で長話をさせて、最後には濡れネズミにさせるだなんて。最低だ。
「……」
安穏は答えない。怒っているのか、呆れているのか、感情を隠したまま、口を閉じている。なぜか機嫌が悪い。どうかしたのか?
「えっと……」
「謝らなくていいよ。悪いのは全部、私のほうだから」
声を発しようとすると、即座に被せられた。タオルを離して、安穏が口にヘアゴムを咥える。そのまま、慣れた手つきでポニーテールにする。ボサボサ髪が一瞬で纏まった。
「善一くんに話があるの」
髪を縛り終えた彼女が、膝に手を置く。流し目でちらりと僕を見る。普段はよく笑みを浮かべている少女が、初めて見せる冷淡な表情であった。いつもよりも低い声で続ける。
「今日のお昼、食堂で会っていたよね? だから、もしかしたら聞いてるかもしれないけど、自分の口からちゃんと言っておきたくて。あの日のことを」
古い機種なのか、エアコンがガタガタと雑音を響かせている。電車はまだ来ない。
あの日、というのはオリエン合宿の肝試しのことだろう。それ以外にない。食堂で会っていた、人物は一人だけ。奴は女性の前ではオレ様系になる、元バスケ部のエース──源 蓮十郎。通称レン。
胸中がざわつく。アイツからは何も聞いていない。タオルを返却して貰っただけだ。聞いてない、聞いていない。何も聞かされていない。なんの情報なんだ。不吉なことは言わないでくれ。
耳を塞ぎたくとも、言葉は自然と入ってきてしまう。またエアコンがガタリと震えた。
腕の鳥肌をシャツをめくって隠すと、冷ややかな態度で、安穏のどかは述べた。
「実は私、あの人に告白されたんだ」