6. 日没。
気まずくない。気まずくない。気まずくないのだ。全然気まずくない。全くもって気まずくない。これっぽっちも気まずくない。
シャッターの閉じられたお店が立ち並ぶ路地を抜ける。古びた看板の前を通りながら、僕は自らの脳に暗示をかけていた。この沈黙は心地良い物なんだと、己に言い聞かせて。
隣をチラリと確認する。
彼女と僕の距離は人一人が入れるほどに開いていた。歩幅を合わせて、同じ間隔を空けながら、縮まることもなければ、遠ざかることもなく歩き続けている。
会話は弾んでいない。
弾んでいるのは傘の上の雫くらいだ。
飛び跳ねた雨粒が、露先から手の甲へと落下する。降りかかった飛沫を払う。ビニール越しに頭上を見上げると、背の高い街路樹が僕を見下ろしているのがわかった。『カップル、ヒューヒュー!』とでも言いたげである。
道幅の狭い曲がり角を超え、歩道に差し掛かる。足元に排水溝があるのを発見したので、歩きながら中を覗き込んだ。
奥には落ち葉の山が積み重なっているだけで、残念ながらペニーワイズの姿を拝むことはできなかった。ITは一体どこに潜んでいるのだろうか。
歩き慣れているハズの通学路が、どこかいつもと違って見える。
河川を覆う鉄の柵も、地面の白線も、近くの石段も、小さな水溜りも、学校指定の紐靴でさえも、普段とは全く異なって、水晶体のスクリーンに映し出されている。
濡れたアスファルトの反対側で、ふわりとした髪が揺れた。彼女の顔は傘に隠れて見えない。困っているだろうか。ウンザリしているのだろうか。……それとも怒ってる?
雨に支配された空間を無言で進む。
不思議と近くで、耳鳴りがした。
※ ※ ※ ※ ※
雨の音がやけにうるさい。いつになればこの状況を打破することができるのか。
そんなことを思いながら歩いていると、前方の歩道橋を誰かが歩いているのが見えた。
マスカット色のリボンを髪に付けた短髪の女の子。間違いない、彼女は僕と同じサッカー部に所属している──柳葉 明希である。
「あ、明希ちゃんだ」
「おぉ、柳葉か」
沈黙に耐えかねていたのか、安穏が即座にその子の名前を呼んだ。当の本人はこちらに気が付いていないのか、水玉模様の傘を振りながら、車道を挟んだ反対側へと向かっている。子供みたいにスキップまでしていた。
呼び掛けようとしたが、やめておいた。僕と一緒に歩いているところを、安穏は見られたくないのかもしれない。じゃないと、わざわざ放課後過ぎに校門で待ち合わせるだなんて、人目を避ける行動なんてしないから。
「行っちゃった」
「行ってしまったな」
同じ台詞を繰り返しながら、ゆるく相槌を打つ。柳葉の姿はすぐに見えなくなった。
「実はね、さっき待っていた時に偶然会ったんだ。ちょっとだけ喋ったよ」
「あっ、喋ったんだ」
「うん、傘が可愛かった」
「カサ?」
安穏が視線を前方に向ける。そこにはスーパーがあった。エコバッグを手に持った主婦さん達が中へ入っていく。
「そう。水玉模様の」
「あぁ、アレか」
柳葉の傘は以前勉強会をした時に見たことがあった。あのお気に入りだという折り畳みだろう。前は濡れるのがイヤだから差したくないと言っていたのに、今日は差したのか。基準がよくわからない。
「僕は、安穏のそれも可愛いと思うけどな」
紅色の傘が動く。個人的にはこっちの方がずっと魅力的だと感じていた。アマリリスの花のようで。
「……ほんとに?」
「ほんとほんと。僕のなんか見てみろよ」
腕を上げてアピールする。こんな安物を持っている自分が恥ずかしい。あのスーパーで誰でも買えるぞ。400円くらいでな。
「赤って和風っぽい感じがするから好きなんだよなぁ。コレ、お気に入りなのか?」
「うん……」
「おおー、いいな! 雨の日が楽しめそうだ」
ちなみに僕は女子力が53万と極めて高めなので、人にはあまり言わないが雑貨屋巡りなどが割と好きであった。だから女性の小物品なんかについ興味を示してしまうのである。
個人的に最近一番気になってるのは、彼女もいま腕に巻いてる黒いヘアゴムである。女性陣はよく身につけているけど、アレって髪を縛る以外に何か用途があるのだろうか。私、気になります!!
「……ありがと」
髪を耳にかけて、安穏が気恥ずかしそうに笑っている。頬を紅潮させて顔を背ける彼女の仕草に、悶え死にそうになる僕であった。
※ ※ ※ ※ ※
「善一くんはお休みの日はなにしてるの?」
「休日はクラブチームの子供たちにサッカーを教えてるよ」
緊張がほぐれる。肩の力を抜いて、リラックスした状態でお喋りができていた。さっきまでの気まずさは何処へやらである。
全ては柳葉を目撃したことで、状況が一変したな。まさかあの子に救われるとは……。今度会った時には、なにかお礼をしよう。
「どういうこと?」
興味津々の彼女が傘の隙間から顔を出す。いつの間にか距離が近くなっていた。
「えっと、地元のサッカーチームのコーチと交流があってさ、たまに生徒たちに教えてくれないかってお願いをされるんだよ」
「あ、それで教えてあげているんだね」
「そうそう」
「えー、すごい!」
とは言ったものの、単にお手伝いをしているだけである。やっている事と言っても、キーパーとか審判だとかそんなのばかりだ。
今はそんな事よりも、安穏との【会話のボール回し】を楽しみたいモノである。安穏との【会話のボール回し】を。大事なことなので二回言いました。
「善一くん、サッカー上手だもんね」
りんと、風に吹かれて風鈴が鳴ったみたいに、彼女が笑う。この笑顔を見ているだけで、お腹がいっぱいになりそうだった。
二人で肩を並べて歩行している。
勿論、僕が車道側だ。もしも中央の道路を車が走ってきて、水跳ねや泥かけなんかをされたらたまったものじゃない。最大限、警戒だけはしておくぞ。
紅色の華と、透明な傘が寄り添い合う。
小さなノックが頭上で響く。
……あぁ、この瞬間を、どれほど待ち侘びていたことか。
※ ※ ※ ※ ※
それから二人で沢山のお話をした。お互いの興味のあること、好きなもの、菜月のテストの話、桜さんの【別荘】の件、LINEを登録したこと等々。歩く速度を落としてまで、会話を継続させた。
面接形式で質問をして解答するというのを繰り返していたので、ほとんどは僕が会話をリードしていた。あれだけどんな話題を振ればいいのかと悩んでいた自分が、短時間でここまで成長できるなんて、伸び代ですねぇ!
僕自身が聞いていて一番驚いた話は、菜月が10位を取っていたということであった。成績が良いとは思っていたけれど、まさか僕より上だったなんて……。彼女の努力の賜物だろう。次は絶対に勝つけどな!
【別荘】の件に関しては、安穏も何かを聞かされていた訳ではないようで、柳葉からの連絡を待っていると述べていた。あの子からまた聞くとするか。
「でね。なっちゃんがその時に言ったんだけど……」
「うんうん、それで?」
「こういう事があったの。で、顧問の先生が……」
「あぁ、わかる。そういうのあるよな!」
相槌を打ちながら、会話を展開させる。今は中学時代の部活動の話をしているところであった。運動部あるあるというヤツだ。
そうやって話を聞きながら、ふと思った事がある。
彼女が基本的に自分の話をしたがらないという点だ。
テストの話もそうだったし、安穏が興味があると言っても[桜]や[春]の話ばかり。[散歩好き]というのも、どこかで聞いたことのある情報だった。
僕は知りたかった。もっと彼女のことを。
何を考えているのか、過去にどんな悩みを抱えてきたのか、そんなことを。色々と。
だけど、きっとそこまでは打ち解けられていないのだろう。会話は盛り上がっているけれど、心の内を全て曝け出している訳ではない。大事なことを必死に隠そうとしている。
安穏のLINEに見つけた『隠し事』という欄。謎の文字列が羅列してあったメモも、気付かぬ内に消去されていた。いつの間にか、跡形もなく、証拠すらも残さないで。
【s,Andonoka,1231】
……アレはなんだったのだろうか。
結局、僕は何も聞けずじまいなのだ。レンのことも、隠し事のことも、僕のことをどう思っているのかさえも。
彼女が話したがらないのならば、無理に聞くことはできない。ならば、もっと深い仲になった時でいい。それまで待ち続けよう。
「ところで、善一くんはさ」
数歩先にいた彼女が、ふと振り返った。お気に入りだという傘をくるりと回す。
僕に向けて、こんな質問を投げかけてくる。
「どうして、私と一緒に帰ろうと思ったの?」