善一と瑠美。
片付けを済ませて、ソファーに座り込む。安穏への謝罪メッセージはまだ送られずにいた。疲れたので後日にしようと思う……。
携帯を抱きながら、ぼんやりと時間が過ぎるのを待つ。姉貴が風呂を上がったら次に入ろう。長風呂だから、当面は先だろうけど。
「ふぁぁ……」
肩を伸ばして、欠伸をすると、キッチンに瑠美が立っているのが見えた。冷蔵庫からお皿を取り出して、レンジでチンしている。今から晩ご飯か。
「さも “勉強して疲れた感” 出しているけど、女の子とイチャイチャしてただけだよね。落第すればいいのに」
嫌味なことを言ってくる。失礼な、これでもきちんと学習活動には励んでいたぞ。
言い返そうとしたが、大した事でもなかったのでやめた。暴言・皮肉には慣れている。
瑠美がミトンを身につけて、お皿と共にキッチンから出てきた。ナイフとフォーク、飲み物が用意されてるテーブルに並べて置く。
「でさ、今日はどうだったの。狙っている人と進展あった?」
「僕は別に誰も狙ってなんかいないぞ」
コップに麦茶を入れていた彼女にそう答える。狙っているという言い方があまり好きではなかった。
「三人共、ただの友達だ」
手元のスマホが音を立てた。Siriでも間違って押したのかと思ったが、そうではなかった。通知が一件、届いている。相手は渚だろう。彼女とはよくやり取りを交わしていた。
今日だけで追加された友達二人。入学初日はゼロに近かったのに、こうしてみると感慨深いな。
「ふーん、友達ね」
椅子を引いて、妹が食事を開始させた。お兄ちゃんのエッグベネディクトはさぞ美味しかろう。
瑠美の反応が良くない理由もわかる。
僕も最近[友達]というものがわからなくなってきていた。自ら友達申請をして、オッケーを貰った安穏は別として、他の人を勝手に友達だと言ってもいいのだろうか。
こちらが友達だと思っていても、相手が友達だと感じていなければ、それは真の友情関係を築けているとも言い難い。どこからが“友達”なんだろう。連絡先を交換したら?
LINEには《友達リスト》というものがある。では、ここに入っている人たちが友達なのか? ブロックされるだけで終わる関係なんて、なんだか薄っぺらいな。
「……ん、美味しい。やるじゃん」
一口サイズに切り分けたトロトロの黄身を頬張っている。そのような感想を仰ってくれると、素直に嬉しかった。お褒め頂き、どうもありがとう。
「あー、でも胡椒がちょっとうるさいかな」
なら、自分で作りなさい!!
自信作を貶されると、流石に腹が立つ。でも、瑠美にはいつも晩飯を作って貰っているから、文句は言えない。きーー!!今後はより一層精進して参りますよぉー!!!???
「まあでも、いいんじゃない? 変にぃーがそれでよければ」
麦茶で料理を流し込んでいる。料理の話かと思いきや、またしても話題は戻っていた。
「瑠美的には上っ面の関係なんて、チョーキモいと思うけど」
「……キモい?」
棘のある言葉に反応してしまう。所詮は戯言だと理解しているつもりなのに。
僕とあの子達は上っ面なのか? というか、
「どこが、気持ち悪いんだよ?」
時計の針がカチカチと動く。おっ、19時か。姉貴はまだ上がらないな。
「一番は本音を押し殺して、人の顔色を伺っているところかな。浅ましくて、薄っぺらくて、それでいて無様」
「お前がそれを言うのか」
「は?」
ガシャガシャと食器をぶつけ合っていた手が停止する。火の玉ストレートを投げてしまったからか、睨まれた。
今日一日中、偽りの仮面を被っていたのはどこのどいつだろうか。他人の上っ面の関係を否定しておいて、自分はそれを実践しているだなんて、それこそブーメランだろう。
「ホットビューティなんて呼ばれ方をされているのは、普段からあぁやって《良い子ちゃん》ぶっているからじゃないのか? 僕と接する時とは、随分と態度が違うんだな。驚いたよ」
携帯から目を離して、告げる。ずっと気になっていたのである。なんであんな真似をしているのか、が。
「……っ」
瑠美は心底ムカついたのか、舌打ちを何度も連発して、膝を揺らし始めていた。赤い目をして怒鳴る。喚く。喚き散らす。
「当たり前じゃん! 変態下衆カスゴミ屑クソおにぃーと同じ対応をすると思う!? こっちがどれだけ気を遣ったか!」
残っていたエッグの塊に乱暴にフォークを突き刺した。そのままかぶり付くように口へと運ぶ。野獣みたいな食い方してんな。
「瑠美だってわかってるしっ……。性格が悪いってことぐらい。でも、偽らなきゃやってられないの!面倒くさいことを我慢して馴れ合わないと、排除されるから。大体さぁ、瑠美が好きでやってると思う!?」
地団駄を踏みつけて、お皿をひっくり返しそうな勢いでテーブルを叩いてヒステリックに暴れ出す。どうやら地雷だったようだ。……言い過ぎたな、謝ろう。
「……悪い。お前なりの処世術だったんだな」
携帯を置いて、頭を下げる。女性の世界にルールがあったことを忘れてしまっていた。上っ面が嫌いというのは、普段から上っ面のぬるま湯の中で生活しているからこそ、出てきた言葉なのだろう。
「大人っぽい考え方、すごいと思うよ」
「変にぃーが幼稚すぎるだけだから!」
瑠美がまだプンスカと怒っていたので、反省の気持ちから、紅茶を入れることにした。
×××
紅茶だけじゃ足りない気がして、デザートのホットケーキも作った。これは僕も食べる。
洗面所から鼻歌が聞こえてきた。姉貴が歌い出すのは決まって浴槽に浸かっている時である。ということは、あと20分ほどか。
「シロップはお好みでどうぞ」
「……」
皿を持っていき、中央に置くが、スマホに集中しているのか答えない。誰かとしきりに連絡を取り合っているようだった。早く食べないと冷めるぞ。
「善にぃーの行動ってさぁ、全部ご機嫌取りのように見えちゃうんだよね。だからウザいと思うのかも」
「……ほっとけ(ホットケーキだけに)」
ナイフでバターを切る。そのままホカホカのケーキに乗せると、樹油は熱により溶けて、パンの上を滑っていた。
彼女が抱いた感情をきっと同族嫌悪と呼ぶのだろう。これでも兄妹なのだ。似ている部分があるのは仕方ない。ウチでイレギュラーなのは姉貴だけさ。あの人は特別だ。
「ねぇ、善にぃーは疲れないの。そういうことしてて」
携帯を置き、ナイフに持ち替える。テーブルを挟んだ反対側、真向かいの席で、瑠美は皿を凝視している。
「疲れはしないな。僕は好きでやっているから。サービス精神旺盛なんだよ」
フォークで突き刺して、一口。旨い。ちょっと焦げているけど。いつかグレープにも挑戦してみたい。
「……羨ましい。瑠美は毎日毎日、面白くないことで笑っているのに」
入れたばかりの紅茶からは湯気が出ていた。煙は天井に昇り、やがて見えなくなる。
妹の前だから多少の見栄を張った。疲れるときもある。でも、誰かを無闇に嫌って傷つけるくらいなら、相手の良いところを見つけて、好きになる努力をした方がよっぽど良心的だろう。
「旨い……」
ハーブの香りを楽しつつ、胃の中へ垂れ流す。これを飲むと、気持ちが徐々に落ち着いてくる。
「善にぃーはさぁ、恋人を作りたいと思わないの?」
シロップから、僕に目を転じる。こんな事を質問してくるなんて、珍しい。
「恋人か……」
戸惑ってしまう。現在進行形の悩みのタネであった。このまま放置していると、悪臭漂わせるラフレシアへと育ちそうだ。
昔と違って、恋人を作りたいとは思っている。でも、そこまで作りたいとは思っていない。だって、恋というものがなんなのか、未だによくわかっていないから。
絶対に必要ないと思ってきたものが、ある程度許容できる段階になれただけの話である。心に少し余裕が出てきたのだろう。
「付き合いたい、とまではいかないけど、一緒の時間を過ごしたい人はいるな。その子とはもっと仲良くなりたいと思っているよ」
「さっき来てた“友達”の誰か?」
「いいや、また別だ。彼女はトラブルがあって、来れなくなった。本当はその子の為に、勉強会を開催したんだけどな」
淡々と答える。洗面所からはドライヤーの起動音がした。
「……」
瑠美は黙ったまま、僕の瞳に注目していた。しばらく硬直して、なにかを言いたそうに口を開いたが、首を振って、諦めた様子で苦笑する。
「……善にぃーの好きな気持ちを否定するわけじゃないし、どうせ何を言っても無駄なのはわかっているけどさ、それって本当に大丈夫なの? 自分の首を自分で絞めてない?」
カップの飲み口を人差し指で触れる。生温かい感触は、どこか心地良く感じられた。
瑠美の言葉を一つ一つ整理して、飲み込んでいく。喉の奥に詰まるような感覚はしたけれど、胸の底までは辿り着かなかった。彼女は賢い子だ。まさにその通りである。
心配してくれているのは嬉しい。だけど、こちらとしても意地がある。
そもそも、なぜ一方を捨てなければならないのか。両方を手に入れるという道はないのだろうか。諦めないという選択を自然に排除していないか?
ふと、オリエン合宿のことを回想する。
自分自身の心の脆さが招いた結果がアレだ。見えないものに怯えて、信念すらも捨て去った。あんな事にはなりたくない。
関係を壊すのは嫌だ。
でも、諦めるのはもっと嫌だ。
たとえ、その先が茨の道だったとしても。
後悔するような生き方は、もうしない。
「大丈夫じゃないだろうな。世間的には理解して貰えないだろうし、共感だってされないと思う」
カップから指を離す。俯きながら、苦笑する。多分これは単なる正当化に過ぎないのだろう。
「……でも、良いんだよ。ダメならダメで」
「え?」
聞き返す瑠美に、僕は続ける。
「上っ面だろうが、なんだろうが、この生き方を変えるつもりはない。これが僕だ。これこそが新垣 善一だ。幼馴染みも、友達も、そして好きな人のことも。失いたくない。大切なモノだから」
両指を絡めて、顔を上げる。
首を傾げる瑠美の方を真っ直ぐと見る。最大限に格好をつけて、告げる。
「───純粋に、好きだから」
ただ、それだけだ。
「…………」
沈黙の時間が長い。ホットケーキを完食するまで、お互いに会話はなかった。
無謀なのは自覚している。気持ちだけ伝わればそれで良い。
「うわー……。なにその、自分勝手な理由! 意味わかんない上に、瑠美的にはチョーあり得ないんですけど! あーあー、聞いて損した。やっぱ善にぃーって、変にぃーだね」
「えぇ……」
……ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、 『お兄ちゃん、素敵っ!(きらりん』的なことを言われるかと期待していた。 流石は我が妹である。全くブレていない。
僕の予想に反して、瑠美の猛攻撃は止まらない。やはり共感を得るのは難しいか。
「なんの執着心かは知らないけど、周りの人に迷惑をかけるのはやめなよね! 大体、変にぃーは人の言うことを聞かないし、大バカ者なんだから。痛い目見ても知らないからね。ま、くれぐれも犯罪だけは引き起こさないよーに。瑠美が迷惑を被るから!」
「は、はい」
う、うぅ……。やめてくれ、その攻撃は僕に効く。
瑠美が立ち上がる。自分のと僕の食器とカップを持った。食洗機へと突っ込む。丁度、ドライヤーも鳴り止んだところだ。
「後悔したくないなら、好きにすれば? ご勝手にどうぞ」
洗い物を瞬殺で片付け、そこまで言って満足したのか、そそくさとキッチンから出た。二階への階段に足をかける。冷たいな……。レンジでチンしたい。
「そうだな。足掻いてみるよ……」
凹む僕に対して、瑠美は自室へと歩き出す。だが、途中で歩を止めて、一度だけ振り返った。
慈愛に満ちた、微笑を浮かべている。
「ま、応援はしといてあげるっ♡」
「え?」
一瞬だけ、本来の姿と重なって映った。声色を変えて自分を偽っているのだが、どこか違う。
柳葉たちに見せていた、能面を貼り付けたような笑みではない。今までとは異なる、小悪魔じみた表情だった。
「せいぜい頑張りなよ? お兄ちゃん♪」
目配せをして、ベーっと舌をだす。なんとあざとい生き物なのか。
「き、急になんだよ。不気味だぞ」
多分、照れ隠しなのだろう。普段ツンケンしてるクセして、こういうときに限ってデレるだなんて。ったく、素直じゃないな。僕の愛すべきマイシスターは。
「……ありがとな、瑠美」
見えなくなった後ろ姿に、そっとお礼を告げる。言葉は届いてはいなかったけど、ただ言いたかった。
後悔したくないから。諦めたくないから。僕はまた歩み続ける。
この物語がどのような結末を迎えるのか、自分にはまだわからない。
でも。
もう少し頑張ってみようと、そう思えた。