僕はロマンチストバカ、新垣 善一。
「こちらへどうぞ。マドモアゼル」
渚の手を取って、リビングの中へと迎え入れる。いよいよ、新垣喫茶店がオープンだ。本日は全品半額となっております。
テーブルまで案内すると、渚はキョロキョロと周りを見渡していた。急に何が始まったのか、理解が追いついていないらしい。大丈夫です。すぐに分かります。
「渚さま。本日は遠路はるばるお越し頂き、誠に有難うございます。温かいお飲み物をお出し致しますので、少々お待ち下さいませ」
「え? ……え?」
静かに頭を下げて、キッチンまで向かう。用意していた鍋に牛乳を注ぎ込んで、火をつけた。弱火でコトコトと煮込む。後はこのまま待機と。その間に準備する物もあるし。
マグカップとお皿を一枚用意して、冷蔵庫を開ける。中からアーモンドチョコレートを取り出して、お皿に入れた。
トレーにお皿とシュガーポットを置いて、一度席へと戻る。渚はその様子を興味深そうに眺めていた。
「付け合わせのチョコレートです」
「い、いいのっ……?」
「はい」
さて、そろそろ頃合いだろう。
再びキッチンへ。小さな鍋の中を確認すると、牛乳の表面に気泡が立っていた。すぐに火を止めて、木のスプーンで数回かき混ぜる。小さじ一杯のハチミツを隠し味で入れて、ようやく完成だ!
「こちら、善一特製ホットミルクでございます。お熱いのでお気をつけて。砂糖もお好みでどうぞ」
「善一くんありがとう! とってもとっても美味しそうですっ……!! ぜひ、いただきますっ……!」
渚がキラキラと目を輝かせて、ホットミルクを手に取った。湯気がムンムンと立っているカップに息を吹く。僕はその様子を真向かいの席で眺めている。ウェイターごっこはもう終わり。
「美味しい?」
「……っっ」
「熱いか」
「へ、へいきっ」
机に肘をつきながら尋ねると、渚はコクリと頷いた。どうやら、まだ飲みきれていないらしい。焦らずにゆっくりでいいぞ。
彼女がミルクと死闘を繰り広げている中、僕はプリンに食らいついていた。今更だけど、ケーキでも買ってくれば良かったかな。
「善一くん美味しい! これすっごく美味しいっ……!! しかも、いい匂いもするよ!?」
「そう、実は隠し味にハチミツを入れていたんだ。普通に飲むより温まるかなと思って」
「うんっ! 身体がポカポカして、なんかほっこりだっ……!」
「おー、そりゃ良かった」
[補足]実はホットミルクは体温を上昇させるより、かえってお腹を冷やす飲み物です。しかもホットミルクには安眠効果があるので、これから試験勉強をするのであれば、むしろ逆効果。コーヒーにしましょう。
ーー閑話休題ーー。
飲み終えると、渚がまたキョロキョロと周りを見渡していた。清掃は完了していたので、衛生面に何の問題もなかった。さっきまで空気清浄機を稼働させていたので、なんならいつもより清潔まである。
「……善一くんのお家、変わってないね」
色々と昔の事を思い出しているのだろうか。昔は良かった、なんて高校生の分際で言うのもおこがましいが、言いたくなる気持ちも分からなくはない。
続いて、渚はクンクンと匂いを嗅ぎ始めた。先程まで換気扇を稼働させていたので、生活臭に問題はないハズ。消臭剤も配置済みなので、なんならいつもより清潔まである。
「……この匂いも懐かしい」
すごく犬っぽい事を言ってる。でも、あるよな、人の家の匂いって。
きっと僕から発生する男性フェロモンとやらに酔いしれているのだろう。あはは、しょうがないなぁ、渚は。
「僕の香りが漂ってるからいい匂いだよな」
「渚さん。この人たまにおかしな事を言うけど、気にしないで下さいね」
全世界待望の新垣ジョークを潰したのは、階段から降りてきた瑠美であった。自室でヘアアイロンでも当ててきたのか、髪型がガラリと変わっている。姿勢まで正してきて、昨夜お腹を出してソファーで寝転んでいたヤツと、とても同一人物とは思えない。
「お久しぶりですっ☆ 渚さん♪ 善一お兄ちゃんがお世話になってま〜す! 今日は二人でお勉強ですかー? ↑↑↑」
急に声色まで変えてきた。レンのように演技をしているのか、ギャップがすごい。というか、さっきからずっと思っていたが『善一お兄ちゃん』ってなんだよ……。
普段から『おい、そこのクソおにぃー』なんて呼ばれ方をされていると、かなりの違和感を覚えてしまう。どこかで【クソおにぃー】を求めている自分がいた事に気付く。
もしや、この感覚って──。
「瑠美ちゃん久しぶりっ……! 大きくなったね?」
「いえいえ、渚さんほどではありませんよ♪」
挨拶を交わす二人。瑠美がチラリと渚の胸の辺りに目をやったのを僕は見逃さなかった。案ずるでない、瑠美。お前もいつかきっと大きくなれるさ。
「今日はお兄ちゃんと試験勉強ですか?♡」
「うんっ……! 善一くんが『一緒に勉強しない?』って誘ってくれて」
「へぇ、この人がねぇ……」
今度は僕の方をチラリと見てくる瑠美。見下したような視線。我々の業界では──。
と、ここで再びチャイムが鳴った。響く鐘の音が来客を告げている。おっ、どうやら次のお客様がおいでになられたらしい。
「……えっ?」
「は?」
「きたか……!!」ガタッ
何故か渚と瑠美がキョトンとして固まっていたが、気にせずにさっさと玄関へと向かう事にした。さっさとドアを開けたい。その気持ちが抑えられない。
もしかしたら、彼女が到着したかもしれないのだ。新垣家に、あの子が。
私服を拝めたり出来るだろうか。もし、そうなったら……ムフフ。
玄関には女性の人影が一つ。ついに現れたようだ。僕のいちばん星が!
眼前にあるドアノブに手を伸ばして、その扉を開く。
「き、来てあげたわよっ!?」
が、そこに立っていたのは、いちばん星ではなくて。
“神速の星”こと──海島 菜月であった。
※ ※ ※ ※ ※
「……なんだ、菜月か」
天邪鬼娘が立っている。本日は縛っていたポニーテールを変化させて、くるりんぱさせていた。この髪型を見るのはお初かな?
また変わったのは頭部だけではない。渚と同様に、足の爪先まで全てドレスアップがなされている。新垣レストランのドレスコードをきちんと把握しているとは、感心感心。
薄ベージュのトレンチコートを羽織り、インナーにはボーダーのTシャツ。下にはスキニーパンツを履いていて、そこから出た長い脚をより一層映えさせている。
菜月は世間一般でいう[美脚]なので、こういったファッションを難なくこなせるのだろう。背も結構高いし、足元の黒いショートブーツもよく似合っていた。
本当にどこかの事務所のモデルさんみたいだ。街を歩くとスカウトされそうだな。うん、その光景が眼に浮かぶ。
「……なに?」
菜月が自分の左手の肘を掴んだまま、ショルダーバッグを揺らしている。少しばかり、言葉を選んでしまう。
「いや……全部が可愛いな、と思って」
背も高い、脚も長い、腰回りも痩せていて、運動神経抜群、おまけに胸だって大きい。おいおい、どこの女子が羨やむパーフェクトヒューマンなんだ。そりゃ嫉妬の対象にだってなるぞ。
「な、なによ、ホント! アンタ最近おかしいわよっ!?」
「そ、そうか?」
おかしいだろうか。宗や瑠美には最近どころかいつもおかしいと言われるので、自分ではよくわからない。思ったことを正直に言っただけなんだけどな。
「でもその服装、本当に似合っているぞ。いつもと違うというか、とてつもない気合いを感じられるというか……」
「ま、まぁねっ! 一流のカリスマはいかなる時でも、手を抜かないって言うでしょ!?」
おぉ、流石は有名人。僕らのような庶民とは格が違うというのか。
「やるな、菜月。まるで人間国宝だ」
「……誰が人間国宝よ。よくわからない例えで褒めないでっ」
照れ隠しなのか、彼女は頬を掻いていた。人間国宝に拍手。
菜月のコートが少しだけ濡れている。手首には水色の折り畳み傘。小雨のようだ。これは確実にホットミルクの出番だな!?
「お待ちしておりました、お嬢様。どうぞ」
膝を立てて、菜月に手を差し出す。今回は紳士ではなくて、執事を意識した。
本来ならその手にキスをして『おかえり、僕のジュリエット』とかやってみたかったけど、あまりにも気持ち悪かったのでやめておいた。クソナル野郎と思われたくもない。
「ほんとっ……バカ」
菜月は眉をひそめていたが、ブーツを脱ぐのに苦労したのか、その後は手を掴んでくれた。反応は上々と。
ちなみにこれは後で安穏にもやる予定だ。
※ ※ ※ ※ ※
菜月を率いて、リビングへと入っていく。渚の姿は見えなかった。お手洗いだろうか。
「とりあえず、何か飲む? ホットミルクならあるけど」
「う、うん……じゃあ、それで」
急に態度がぎこちなくなっている。それにしても、安穏はまだなんだな。てっきり、一緒に来るものだと思っていたのに。
飲み物を出そうとキッチンに向かうと、瑠美がしゃがみ込んでいた。菜月から隠れるようにしているようだが、角度を変えれば見え見えである。……なにをやっているんだ。
「……クソおにぃー、バカじゃないの? なんで渚さんが来ているのに、他の女を呼んでるの!? クソを通り越して、クズじゃん! クズおにぃーじゃん!!」
小声でめちゃくちゃ罵倒される。そうそう、コレコレ! これでこそ瑠美さんですよ!
「え、でも、最初から勉強会をするつもりだったんだぞ? あと二人来る予定だし……」
「まだ来るの!? いやいやイヤイヤ、ないないない! それはない! あり得ない! 意味わかんない! カスおにぃー」
瑠美が韻を踏んだような口調で言ってくる。ラップセンスがありそうだ。てか、段々とクソ→クズ→カスとレベルアップしてきているな。善一だけにレベルがイチ上がりましたってか? なんだそれ!
「……うわー、もう知らない」
呆れたように首を振り続けている。とりあえず、そこ邪魔だからどいて欲しい。ホットミルクが作れない。
菜月はソファーに座って、前屈みになりながら携帯を触っていた。牛乳を入れようとした瞬間、リビングのドアがガチャリと開く。
「善一くん、お手洗いを借り……えっ?」
ハンカチを手に現れる渚。ただ一点に釘付けになっている。
音に反応して、菜月も振り向く。交差する二つの視線。張り詰めた空気。時が停止するリビングダイニングでは、誰の動きも許されていない。唯一、牛乳を注いでる僕以外は。
「葵、さん?」
「菜月ちゃんっ……」
しかし、安穏遅いな。いつ来るんだろう。