善一と渚③
<side:葵 渚>
初夏。窓から入ってくる陽気な風に癒されながら、椅子に深々と座り直します。
机の上には白紙の作文用紙が置いてあって、まだ手付かずのままでした。夏休みの宿題《読書感想文》なのですが……実はまだ一行も書けていません。
お本を読むのは好きなんですけど、どうしても文章を書くという作業は不得意でした。自分の気持ちをどう伝えればいいのかを考えてしまって、いつも膨大な時間を浪費させてしまいます。
何度も読み返した一冊を片手に、作文とにらめっこしていると、セミの鳴く声が聴こえてきました。
耳を傾けていると、ふと思い出してしまいます。転校する前、ずっと三人で一緒に過ごしていたあの日々を。
わたしが善一くん達とはじめて出会ったのも、こんな夏の日でした。
× × ×
当時のわたしは学校に上手く溶け込めていなくて、クラスでも浮いた存在でした。基本的な会話が下手で、相手の言うことに全て賛同してしまうクセがあるからなのかもしれません。
そのせいで、夏休みの大半を一人で過ごしていました。仲間に加えてくれるグループや、遊びに誘ってくれるお友達もいなかったのです。
『なぎさー! ちょっと外に来てー!』
その日もいつものように自室にこもって本を読んでいたのですが、突然下の階からママに呼びかけられました。
仕方なく階段を降りて外に出ると、ママは誰かとお話をしているようでした。スラリとした背の高い、綺麗な女の人です。
その人はわたしを見るなり、すぐに話しかけてきました。
『あら、葵さんところの娘さん? めんこい子やなぁ』
聞いたことのない口調でした。
『クラスは何年何組ですのん?』
『……』
『お名前はなんて言いますのん?』
『……っ』
グイグイと距離を詰めてきます。
質問責めで近づいて来るのがとても怖くて、わたしは咄嗟にママの後ろに隠れました。二人の表情が少し曇ります。
『ごめんなさい。この子、恥ずかしがり屋みたいで……。もうっ! 渚。クラスとお名前を聞かれているでしょ?』
『いやー、えらいすいまへんなぁ。急やったから、怖がらせてしもうたみたいで』
指をもじもじとさせていると、綺麗なお姉さんは膝を曲げて目線を合わせてきました。不意に手が伸びてきて、わたしの頭を強く撫でてきます。
『こわない、こわないでー!』
なんだか、とっても柔らかな感触でした。
『ところで、新垣さん。息子さん達は?』
『あら? さっきまでおったんやけど……。ぜんいちー!』
ママとその人が辺りを見渡します。わたしもつられて顔をだすと、路地の電柱付近に誰かが歩いているのが見えました。
『なあ、いっちーはさ。“カレー味のうんこ”と“うんこ味のカレー”どっちをくう?』
『僕はカレーなら何でも食べるぞ』
『うわー、うんこもくうんだー! きもちわりぃー。ぷーくすくす』
こちらに向かってきたのは二人の男の子です。一人は半袖半ズボンに虫網を持って、ポケットに手を突っ込んでいる子。もう一人はサンダルを履いたパーカー姿の少年でした。
『あ、おったおった。ぜんいちー! 宗くんー! ちょっと来てやー』
『あ、母さんが呼んでる』
『ん? だれ、あの小さいの』
駆け出してくるこの二人こそ、幼馴染みである玉櫛 宗くんと新垣 善一くんでした。当時から仲良しだったみたいです。
今でも、この日のことは忘れていません。
もし、二人に出会っていなければ、わたしはきっと今でも、部屋に閉じこもっていたことでしょう。誰かに心を開くこともなく、空想の世界へ入り浸って。
善一くんたちが、外の世界に連れ出してくれたんです。世の中にはこんな楽しいことが沢山あるんだよと、教えてくれたんです。
『はじめまして、新垣 善一です。こっちが友達の玉櫛 宗。君は?』
『えっと、その……わ、わたしは』
『あ、葵 渚ですっ……!』
※ ※ ※ ※ ※
「私の好きな善一くんは──逃げたりなんかしないよ」
僕の知らない彼女が、そこには居た。
迷いのない澄んだ瞳は、まるで星の欠片を拾って集めたようで。
緊張も、不安も、恐れも、何一つとして感じられない。
この子は知らない間に大人になっていた。昔は泣き虫で、怖がりで、誰かの後ろを付いて回るだけの少女だったのに。女性の精神成熟は早いものだ。
人を子供扱いして、大人びた振りをする僕の方が、ずっと子供のままだった。
「ほら、一緒にお星さまでもみよっ? 嫌なこと全部、忘れられるかも」
「あっ……」
手を引かれて、立ち上がる。ぼやけた視界に映る点と光。安穏たちも同じ景色を見ているのだろうと考えると、胸がギューッと張り裂けそうなくらいに苦しくなる。アイアンマンみたく心臓をコアにしておけば良かった。
「……ッ……」
頭に巻いていたタオルがずれてきて、タイミングよく目元を覆った。借りてたタオルが功を奏するとはな。人目を気にしなくていいのだろうか。
「ひぐっ……」
鼻水が溢れ出てきたけれど、決して泣いてなどいない。これは花粉症だ。薬を飲み忘れただけ。もしくは鼻炎。大体、好きな異性が他の人といい感じになってるくらいで泣くわけないだろ? ……笑えよ、ベジータ。
協力してくれた菜月、相談を聞いてくれた柳葉、本気で叱ってくれた宗、迷子の僕を見つけてくれた桜さん、チームが一緒の井口くん。色んな人に自分は助けられている。
「……月が綺麗だね」
「あぁ……確かに……」
指を絡めて、隣に寄り添ってくれる渚。体温が通じ合う。ごめんよ……。なにも見えないや。
初めて会った日から、十年近くは経っているのに、ずっと好きだと言ってくれた。凹んで惨めに泣いてる情けない僕を、凄いと認めてくれた。なんて素敵な女の子なのだろう。
友達とも、恋人とも違う、かけがえのない存在。大好きな幼なじみ。
今、一つの恋が終わりを迎える。でも、傷はいつかは癒える。星は変わらず輝いているし、どんな夜もそのうち明ける。
──さようなら、我が恋心。
惑星が交差する山林の下。僕と渚は手を繋いだまま、暫くその場に立ち尽くしていた。
※ ※ ※ ※ ※
「小学生の頃、田辺くんって居ただろ? よくお腹を下していた」
「あ、いたねっ……! いつも半ズボン履いてた子?」
「そうそう。アイツがなんであんな格好をしていたのか知ってる? 宗から聞いたんだけどさ」
ブルーシートに並んで座って、想い出トークに華を咲かせる。渚は疲れているのか、僕の肩に頭を預けてきた。朝から動きっぱなしで疲れたのだろう。仕方あるまい。
豪華絢爛なオリエン合宿一日目が終わろうとしている。心身共に消耗したので、さっさと寝て忘れてしまおう。明日もあるのだから。
「宗くんが『良い景色が見れるところがある!』って言ったのがきっかけで、よく裏山に行くようになったんだよねっ……!」
「そうそう、懐かしいな。秘密基地とか作ってさ。《自由研究》に励んだりして」
「あったあった! 宗くんっていっつも昆虫採集してたよね? 毎年昆虫の標本を作って、担任の先生に不気味がられていたのを覚えているよっ……!」
そう楽しそうに笑って、肩にトントンと頭をぶつけてくる。トントントントンヒノノニトン。
「《自由研究》かぁ……。わたしはひまわりの日記をつけてたよっ。あれ、善一くんはなにしていたっけ……? あんまり覚えてない」
「うーーむ」
正直、覚えてはいたが、思い出してくれないように惚けておく。昆虫採集も植物の観察日記も書いていない。そんな僕が熱中していた事と言えば……。
「あ、思い出した……!」
渚がポンと手を叩いて、意味深な微笑を浮かべる。なんだその「計画通り(キリッ」みたいな笑みは。言うなよ……言うなって。
「ふふ、えっとね。【忍者の生態調査】だったかなぁ……? 忍者になりきる為に調べ物をして、木を蹴飛ばして『修行だぁー!』って叫んでた!」
「……はは」
だから、言うなよもう……!
思わず頭を抱えたくなる。こんにゃろう……黒歴史の一ページだというのに。クッ、煙玉でドロンしたい!
あの頃は絶賛忍者ブームだった時代。ぶっちゃけ本気で忍者を目指していた。火影ェ……。
「な、なんか今思うと恥ずかしいことしていたよな……僕は」
「あ、ごめん……! そんなつもりじゃなくて。で、でも善一くんのそういう変なところも良いところだと思うよっ……?」
自虐的に笑うと、地味にフォローされてしまった。変な所も良い所って、変な話である。だらしない変人ですまない……。
「それにしても、懐かしいな。こうやって渚とこんな話をするの」
「うんっ……久しぶりだね。五年ぶりくらい?」
「え、そんなになるのか!?」
頷く彼女に、僕は苦笑する。ノスタルジックな雰囲気に、なんだかちょっぴり切なくなってしまう。
小学生の頃は特に大きな悩みなんてなくて、はしゃいでいるだけで楽しかったのに。今は小さな事でクヨクヨ悩むようになってしまった。
みんなで遊んだ裏山も、既に閉鎖されて中には入れない。数年後には高層マンションが建つらしいので、無くなるのは時間の問題なのだろう。
鳥も虫も植物でさえも、触れるもの全てが新鮮だった、あの頃には戻れない。
「早いね」「……早いな」
時間の流れは残酷だ。なにもかもが変わってゆく。しかし、その中で変わらないモノもある。
それは想い出だ。
秘密基地を作ったこと、裏山で遊んだこと、三人で過ごしたこと。それら過去の出来事を全て、変えることなどできない。記憶に焼き付いたまま、消えずに残っている。
「……」「……」
銀河が落ちてきそうな光景を眺めながら、僕らはお互いの頭をくっつけた。戻れないのなら、進み続けるしかないだろう。忘れてしまわぬように。
「すいませーん! 皆さんお揃いですか!?」
「ん?」「えっ……?」
沈黙を破ったのは、そんな呼び声だった。辺りを見渡すと、ライトセーバーみたいな棒を手に持つ人が、眼前を通り過ぎていった。
あの人なら知っている。さっき受付で会った生徒会の方だ。名前の確認をしていた気が。
「一体、どうかしたんですか?」
立ち止まったので、気になって尋ねてみるが、緊急事態らしく無視された。インカムで誰かと通話を行なっている。非常事態宣言か? どうする? Jアラート鳴らす?
耳をすませる。会話内容はこうだ。
「は、はい……会長。まだこちらには来ていません! 該当者の名前ですか? ちょっと待ってください!」
名簿をめくり、その名前を読み上げる。
「クラスは一年B組。源 蓮十郎、そして安穏 のどかです! 以上の二名が行方不明に!!」
え?