善一と渚②
「約束……」
冷蔵庫を開けたように、夜風が冷たい。例えるならば、曇りの日のプール授業のよう。山の天候とケイスケホンダの評価は変わりやすい。
「まだ覚えていたんだな」
渚の言う約束とは一つしかない。幼い頃に交わした”結婚の約束”だろう。
「忘れたことなんてないよっ……! ずっと覚えていたもん」
間髪入れずに即答される。
僕は思わず目を伏せた。
「……そうか」
実現性のない冗談だとばかり思っていた。まさか本気で覚えている、だなんて。
× × ×
一畳半ほどもあるブルーシートを広げて、そこに並んで腰掛ける。両手は後ろについた。仰向けの方が見えやすい。
上空を照らす無数の光。その中で動く物体。人工衛星なのか、はたまたUFOなのか。信じるか信じないかは貴方次第です。
「お星さまが綺麗だね! アレはどこの星座かなぁ……? 四月の下旬だから、ええっと」
彼女の指差す方向に目をやった。うむ、アレならギリギリわかるぞ。
「からす座だと思う」
「え? わかるの……?」
「ほら、近くに北斗七星があるだろ。そこから《春の大曲線》ってのが伸びているんだけど、その終点に並ぶ台形の星たちが《からす座》なんだ。見える?」
今の時期で代表的なのは「春の大曲線」と「春の大三角形」だろう。有名なのは、おとめ座のスピカかな。
渚は瞼を必死に擦って、眉を八の字にしていたが、ぱぁっと目を輝かせた。発見できたらしい。良かった良かった。
「みえたみえた! うわぁ、すごいっ……! 善一くん、お星様博士みたい!」
「いやいや、そんな」
知識を自慢する形になってしまったが、それでも褒められるとそれなりに嬉しい。えへへ、プラネタリウムとか好きなんです。博士に他の質問はないかなー?
「じゃあ、あっちのは……?」
「んー? おっ、お目が高い。アレは獅子座のデネボラだ。胸の辺りで光っているのが、一等星のレグルス。ちなみにレグルスってのはラテン語で《小さな王》って意味なんだよ」
ブルーシートに寝転がって説明する。いつの間にか、肩と肩が触れ合う範囲で話をしてしまっていた。変に意識してしまって、体勢を立て直す。危ない……危ない。
近いようで遠い、僕と渚の距離。決して、それ以上は交わることはない。
「獅子座だから《小さな王》なのかなぁ……? ライオンってキングの象徴だって言うもん。すごいねっ……! が、がおー」
身体を離したことを気にも止めず、何故か渚はライオンの真似をして吠えた。両手を口に近づけて小さく唸る。なんでもない行動なのに、頭をよぎったのは別の光景だった。
「……かもな」
《小さな王》。自尊心が高くて、誇り高き獅子。いつも強気で、堂々としていて、何事にも動じない。気高き動物界の王。
彼らは雄叫びを上げる。どんな敵が来ようとも、牙を向けて威嚇する。自らを奮い立たせて、弱みを決して見せることなく、毅然とした態度で振る舞う。そこに敗北はない。
餌を奪われるだけの弱者は必要ないのが弱肉強食の世界だ。レンが獅子なら、僕は鼠か? 這いずるだけの、醜い小動物。
「善一くん、今日はありがとねっ……! 誘ってよかった。お星さまの事もたくさん知ってて、改めてすごいなぁ……って思ったよ!」
ネズミ相手に、彼女は寝惚けているのだろうか。凄くはない。何も、何も。
「それでねっ……。最後の“お願い”があります。約束のこともあるし、これからもっとわたしは善一くんと一緒に居たいです。だから、もし良ければだけど……」
葵 渚が唐突に僕を見た。何を思ったのか、指をもじもじさせて歯切れの悪い言葉を集めている。
……おいおい、待ってくれ。今このタイミングで仕掛けるのか?
否定的な自分がいつも言っていた。お前なんかが結婚なんて出来るわけがないと。早々に離婚して、慰謝料を請求され、子供の親権を掛けて裁判で争うことになると。
しかし、彼女は覚えていた。
ずっと近くにいたのに、全然分かっていなかった。僕を肝試しのペアに誘ったのは、恐らくそういう事だった。
「えっと……えっとね……」
視線は僕だけを見て、逸らさない。
やめろ、やめてくれ。
「わたしは善一くんのことが──」
「渚!」
言い終わる前に、僕は手で制した。
これ以上、嘘をつくことは出来ない。
もし其方が踏み込むのであれば此方も仕掛けよう。いつかは終わるくらいなら早い方がいい。例え、その道が見えなくても。
心を偽るのは──もう辞めた。
「……頼む、聞いてくれ」
渚の気持ちは痛いほどわかる。そうやってずっと見てくれていたのだろう。なのに、僕はとんだ裏切り者だな。約束を守る男なんて、自称しておきながら。何も守れていないじゃないか。
震える喉が、言葉を出すのを恐れている。
「僕は、安穏が好きなんだ」
※ ※ ※ ※ ※
「のどか……ちゃん?」
「あぁ、そうだよ。僕は安穏がとても好きだ。いや、好きだった」
渚に向けて、本心を吐き出す。彼女は鳩がテーザー銃を食らったかのように身体を硬直させていた。
……早く言えば良かったな、ごめん。
中途半端にするつもりはなかった。ただ、どうしても言えなかった。言ってしまえば、この子はきっと傷つくと思ったから。
「でも、もう全部終わったんだ……。僕はレンに負けた」
そこから先はただの弱音。無様に負けた一人の男の姿を、誰かに認めて欲しかっただけ。甘えたかっただけ。
「アイツはスゴいんだよ。安穏と今日初対面なのにさ、すぐにアプローチを掛けたんだ。信じられるか? 勇気があって、漢気に溢れてて、自分に自信がないと絶対に出来ないよ」
自嘲気味に笑う。渚の顔をまともに見れなかった。もしかしたら、レンというあだ名が誰を指しているのかすらも、分かっていないかもしれない。
「ちょっとやそっとでヘコたれる僕と違って、あぁいうのが理想的な王子様って言うんだろうな……。虫に怖がって逃げ出すような奴とは、大違いで」
話し始めたら、自分語りが止まらなくなってしまった。口に出していると、ますます情け無くなってきた。はぁ、と自然とため息も出てくる。
「悔しい気持ちはあるよ。でも、反面しょうがないかなとも思う。安穏が選んだ道なんだから、僕が口出しするのはヤボだ。……今更、何も出来ないしな」
そう、全ては終わったこと。時間的にも告白して、オッケーを貰っている頃合いだ。アイツが勝利の雄叫びを上げているというのに、こっちは負け犬の遠吠えか。
「だから! 結婚のことは今は考えさせて欲しい……。気持ちが落ち着くまで、待っていてくれ。いつか時が来たらさ、また星でも見に行こうよ! な?」
顔を上げて、彼女に向き直る。渚は困惑したように唇を内側に噛んでいた。
僕は静かに頷く。この子なら大丈夫だろう。忘れた事はない、ずっと覚えていると言ってくれたのだから。
勿論、これはあくまで予想だ。もしかしたら渚が愛想を尽かして、僕の事なんて眼中にもないようになるかもしれない。
けれど、それでも別に良かった。
葵 渚は家族と同じくらい大切な存在。宗と共に過ごしたかけがえのない仲間だ。
だからこそ、今はまだ幼馴染みとしか見れずにいる。
これはとても自分勝手な決断なのかもしれないけれど。
いつか僕が彼女のことを幼なじみではなく、一人の女性として見れる日が来たら。
その時にまた、約束を守りに行こう。
今度は自分の口からちゃんと告げて。
偽りのない、想いを届けるんだ。
彼女が本気で守ってきたみたいに。
僕もまた、同じように。
※ ※ ※ ※ ※
「善一くん……」
足音の途絶えた深山では、星の瞬きすら聴こえてきそうだ。散らばった星空の静寂の中で、一滴の雫が垂れた。
渚は感情を絵の具でグチャグチャにされて、どの色を取り出せばいいのかを考えているようだった。僕が告白を真っ黒に塗り潰してしまったからだろう。
「本当に、それでいいのっ……?」
「うん、後悔はないよ」
「辛くない……?」
水を含んだ筆で寒色系の色を塗っていく。端から端へ。はみ出さないように。
「辛くはない。吹っ切れたさ。安穏が幸せなら、それでいい」
「ウソだよ……。なら、どうしてそんなに悲しそうなのっ……?」
色は徐々に濃くなってきた。黒と青が混ざった、僅かに赤っぽいネイビーブルーへと変色してゆく。
「そりゃ……悲しいよ。好きな人が誰かと結ばれるのを、見なくちゃいけないんだから。でも、それが敗者の末路で」
「善一くんはっ……負けてなんかいないよ!」
渚の声が、言葉が、胸の奥を的確に抉ってきた。赤く、紅く、色が力を増してくる。……あぁ、なんだ。僕のパレットの方がもっと乱雑してるじゃないか。
「負けてないって、渚に一体なにが──」
「わかるもんっ……! だって、ずっと見てきたから! その人なんかスゴくない。善一くんの方が、もっともっとスゴいもんっ……!」
強い意思のある瞳で睨まれる。
……違う、こんなの渚の思い違いだ。なにもわかっちゃいない。いつだってこの子は、僕に理想を抱いているだけ。
唾をゴクリと飲み込む。感情が爆発する寸前まで来ていた。
「違う。僕の方から負けを認めたんだ……! レンに『好きだから応援する』と言って、勝負することから逃げた……。戦う事を放棄したんだ。呆れるだろ?」
「呆れない! 普通はできないことだもんっ……!」
「一体、どこがだよ!?」
我慢の限界だった。擦り切れるような声で叫ぶ。溜まりに溜まった黒い癇癪玉が、一気に破裂した。
「こんなの凄くなんかない! 僕は最低なんだ! 宗にも言われたよ。『嘘をつくな』って。あぁ、わかっているさ!? 本当は応援なんて、微塵もしていない! 僕があの子の側に居てあげたかった! でも、それはもう叶わないんだよ……!!」
醜い。汚い。最悪な感情。
源 蓮十郎に対しての悍ましい劣等感が、心を蝕んでいく。
勝てない。勝てない。勝てない。何をしたって、姉貴の代用品でしかない。代わりなんていくらでもいる。僕でなくてもいい。
「僕じゃダメなんだ……。安穏を幸せにはできない」
レンも姉貴も宗も菜月も、みんなみんな天才だ。周囲の人と比べて、僕だけが劣っている。自分の存在なんて大したことはない。
……ああ、今にも消えてしまえ。
蛾なんぞにビビる最高の間抜け。凄腕の姉貴にはいつになっても追いつかない。
こんな己に、価値なんて無い。
「……ッ……ごめんな。女々しいよな。こんなのいつもの僕じゃないよな……。全部、忘れてくれたら嬉しい……」
顔を掌で覆う。涙がとめどなく溢れてきてしまった。悔しい、悔しくてしょうがない。女性の前で泣くなんて、クソッタレだ。
その時だった。渚が僕の両手をギュッと握りしめて、立ち上がったのは。
「大丈夫。星は暗くても輝いている。どんな闇でも、いつかは必ず明けるから」
彼女の声はもう震えてはいなかった。
「覚えてる? 初めて会った日のこと。私は善一くんのお陰で、変われたんだよ。貴方が受け入れてくれたから、現在の私がいるの」
その瞳に嘘、偽りなどなくて。
「私の好きな善一くんは──逃げたりなんかしないよ」