僕は正義感の強いハーレム委員長。
強く差し伸べた手を彼女は黙って見つめていた。身体が少し震えている。怖いのだろう。怖くて、怖くてしょうがないんだ。これまで人に素直に悩みを打ち解ける機会を自らの手で潰してきたのだから。
ここから先は未到の地だ。
誰も踏み込まなかった心の奥底に存在する暗黒大陸。ハンターライセンスなんてありゃしない。生きるか死ぬかのサバイバルゲームである。
ずっと守ってきた鬱憤した感情。そいつを吐き出さなくては出口の見えない迷路に永久に彷徨う事になる。CUBEだぞ。
家族にも、親友にすら打ち解けられないなら、デリカシーのない僕が突き進むしかないだろう。
「菜月!!」
名前を呼びかけて凄んだせいか、海島はビクリと自分の肩を抱いて唇の内側を噛んだ。いつにもなく小さな声で動揺している。彼女の気迫は既に消え失せていた。
「わ、わかったから……。言うからちょっと待って」
詰め寄る僕と後退する彼女。二つの距離は未だに重ならない。
手は握ってはくれなかったので腕を下す。海島は乱れた息を整えていた。深呼吸をして、大きく息を吐いた後、こちらに目をやる。
「全部……話す。でも聞いたところで、何も変わらないわよ」
海島は詰まりながらも、重い口を開く。
※ ※ ※ ※ ※
(side 海島 菜月)
あたしは昔から走るのだけは得意だった。
小学生の頃はリレーでは誰にも負けなかった。生意気にからかってくる男子にもあたしは無敗だった。
どんなに自チームがビリだったとしても、アンカーのあたしがごぼう抜きしていくから、運動会ではいつも英雄だった。
『海ちゃん足速いね~』
『陸上部に入ったら絶対活躍できるよ!』
ホントはみんなと離れたくなかったけど、友達や先生、ママにもすごく後押しされて、あたしは凌空中にスポーツ推薦で入学することにした。
家から少し遠かったけど、その分足腰は鍛えられたからいいかなって。走って登校する人たちも多かったし。時々家の前で走る練習もしていたから、それの一環だと思ってね。
そしてそこでのどかに出逢ったの。
同じクラスの左隣の席。出席番号が近かったからよく覚えてる。白い肌の髪が長い女の子。昔遊んだお人形さんみたいに綺麗な肌をしてて、ちょっと羨ましかった。
まぁでも中身はお子ちゃまだったけどね。
話かけても聞いてないことはよくあるし、授業中はいつも上の空。先生には注意されてばっかり。一人っ子ってどうしてあんなにマイペースなのか疑問よ。
あたしも何度かイライラすることもあったけど、それでもなんか憎めないのよ。悪意があるわけじゃないし、少し天然(?)が入っているからかしら。
中学ではじめて出来た友達。知り合いも全然いなかったし、のどかは別に得意な事とかなさそうだったから、何気なく誘ってみた。
「陸上部に一緒に入らない?」って。
あの子は少し考えて「一緒ならいいよ」と答えてくれたわ。
×××
凌中の陸上部は全国大会常連校なだけあって、凄まじい練習量だった。毎日ずっと走らされるのは当然。でも誰も文句は言わなかった。
部員はとても多くて、新入生だけでも何十人もいた。その大半は厳しい練習に耐えられなくて、辞めてしまったけど。
のどかも辞めたい、辞めたいってずっと言ってて、よく練習をサボってた。
夏休み突然来なくなった時期があって、家まで迎えに行ったこともあった。そしたらあの子なんて言ったと思う?
「ごめん、忘れてた」って。
確かにのどかは三軍だったし、運動音痴だったから部内ではドベ争いをしてたからやる気はそこまでなかったのかもしれない。けどね、これはあたしのワガママなんだけど、辞めて欲しくはなかったのよ。
一年生で団体戦のレギュラー入りを果たした時、先輩や周囲はあまりいい顔をしてはくれなかった。競争率が激しい実力主義の世界。後輩が先輩を差し置いて出場するなんて生意気だ、って思われていたんでしょうね。
だけど、のどかだけは違った。あの子はすごく喜んでくれたわ。「なっちゃん、すごいね」って。
……嬉しかった、すっごく。
そこで決めたのよ。のどかに誇って貰えるような選手になって、あたしが今後陸上部を率いるようになろうって。
でもね、現実はそう上手くはいかなかった。
×××
学年があがって中学二年の時には、もう部内であたしに勝てるのは男子の先輩くらいしか居なくなった。ちょうどその頃かしら。変なあだ名で呼ばれだしたのは。
そう──”神速の星”。
誰が考えたのか分からないけど、ふざけた名前よね。全然好きじゃなかった。でもクラスの男子や先輩はこぞってその名を呼ぶのよ。時には顧問の先生も。
なにかの大会でMVPを取ったとき、テレビの取材を少し受けたことがあった。多分、そこからよ。弾幕とかでも二つ名みたくデカデカと吊るされたし。
別に人気なんて欲しくなかったのに。のどかが喜んでくれる、ただそれだけで良かった。
そんな時よ、事件が起きたのは。
アンタの言っていた窃盗事件、それがウチの部内で起きた。被害に遭ったのは一個上の先輩。盗まれたのは大会用のユニフォームだった。
でもね、おかしいのよ。
だって、犯人は凌中には侵入してないって言ってたから。
そいつの自宅からも犯行品は見つからなかったけど、ネットショッピングで売りさばいていた事実もあったから、犯人の供述は認められなかった。
後輩は副顧問の高橋先生が怪しいって言ってたけど、結局真相は闇の中。
……そこからよ、先輩たちの目の色が変わったのは。
警察が調査を打ち切ったから、先輩たちはある一つの仮説を立てていた。
「海島が犯人じゃないか」ってね。
勿論、あたしがそんなことをするハズがない。なのに、最後まで一人で練習してたっていう理由だけで疑われたの。普段から嫌ってるから、やり返したんだって。
確かに夜遅くまで一人で練習するから、部室の鍵は持っていた。でも閉め忘れることはなかったし、最後はちゃんと高橋先生に返していたわ。
けど、疑いの目は晴れなかった。
「うわ、神速来てるし。みんなユニフォーム取られないように気をつけてね~」
「あいつ練習最後まで残って顧問に頑張ってますアピールしてるんでしょ! きゃはは、媚とか売ってんのマジキモいんだけど」
「神速の星ちゃん早く辞めてほしいなぁ」
「調子のんなよ、ブス」
嫌がらせはずっと続いたわ。ずっと、ずっとよ。
のどかは多分この事を知らない。三軍とレギュラーメンバーは他の場所で練習してたから。クラスも離れて、大会でしか会わなくなって、あの子は補欠の後輩と仲良くなっていたわね。
陰口だけなら耐えられた。スパイクがゴミ箱に捨てられてても、無視をされても、気にしないようにって言い聞かせた。
でも、でもね。
……のどかの悪口だけは我慢できなかったのよ。
たまたま部室で聞いてしまった。アイツらがあたしの愚痴と共に、そして次の嫌がらせプランを考えているところを。
今度のターゲットは安穏、だって。
その頃あの子は楽しそうに部活をやってたから辞める心配はなかった。なのに、それを奪われてしまう。それだけは許せなかった。
だからあたしは辞めた。
大好きだった陸上を。先輩たちに言われるがまま捨てたのよ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
海島の話を僕は黙って聞いていた。アイツは話し終えると、お尻をつけてその場に座り込んだ。僕もつられて前に座禅を組む。
すっかり日は暮れていて、頭上ではカラスが寂しげに泣いていた。糞はしないでおくれよ?
酷い仕打ち、そのような言葉では解決できない類のものであろう。
これは単なるいじめだ。アイツに嫉妬した先輩たちが、一つの才能を潰す為に躍起になったのである。無関係の人間まで痛めつけようとしたのだ。
「……ずっと耐えていたのか」
陸上を辞めると口にした時、どれほど周囲と軋轢があったのか。考えたくもない。
安穏を守る為に、隠し通した真実。あまりにも深刻な状態で続きの言葉も出なかった。
「そうよ……。まさか画像まで流出してるなんて知らなかったけど……。 のどかはまたあたしに陸上をやって欲しいみたいだし。こんな状態で……出来るわけないってのにね」
流出、あぁそれも調べて見つけてしまったのか……。
海島菜月はまだトラウマを克服出来ていない。僕は過去の古傷をえぐり、救おうとした彼女を余計に追い詰めている。何気ない行動が、海島を傷つけた。
安穏に部活に入るよう勧誘したのも、僕。しつこく聞き出そうとしたのも、僕。勝手に調査して、証拠を掴んだ気になって、その軽率な行動によって、トラウマの片鱗が蘇ってしまった。
「もうあたしはっ……のどかに顔見せ出来ない……! いっそ全部を捨ててしまいたいのよ、全部!」
それ故の決断。全てから逃げ出す為の答え。これ以上、一体どのような言葉をかければいいのか。
根拠のない「大丈夫」も、自己防衛の「ごめん」も意味がない。僕に出来ること、それはなんだ?
『誰かの心に寄り添える人になりなさい』
「……間違ってるだろ、こんなの」
僕は拳を強く握っていた。怒りがふつふつと込み上げてくる。なんて理不尽なのか。ふざけるのも大概にしてほしい。
「よってたかって一人の女の子を排除して、それで満足なのか! 少しくらい菜月の気持ちを考えたらどうなんだ!!」
雑草引きちぎって、地面を叩く。これは自分への戒めでもある。嗚咽まで溢れて、腹の底が煮えくりかえってきた。本当にムカつく……。
気に食わないんだ。ウチの大切な副委員長を困らせやがって。何が神速の星だ。彼女はただのか弱い女の子、陸上が少し得意なだけの普通の高校生だ。
それを困らせる者なら、例えお天道様が許しても──この新垣 善一が許さない。
「え、ちょっ! あ、新垣……?」
気がつくと、僕は海島を抱きしめていた。普段の僕だったら絶対にそんなことはできないのに、どうしてかそのときは本能がそれを可能にさせていた。
「は、離して」
「離さない」
「なんでよ……」
「お前を逃したくないから」
彼女は逃げ足がとても速い。チーターだ。チーター。だからこうやって捕まえておくことにしよう。もう逃がさないし、離しもしないぞ。
「今は強がらなくていいよ。誰も見てないから」
肩に手を回したまま、静かに言葉をかける。そう、これ以上強がらなくてもいい。今日だけは素直になろうよ。苦しんでいる君をこれ以上は見たくはないんだ。
「……っ」
座った状態の海島は少しだけ抵抗したが、しばらくすると僕の胸の中に収まって、頭を埋めていた。
そのまま胸元を強く握りしめてくる。カッターシャツを持つ手が震えていた。
「 あ、あたしだって……グス……必死に考えてっ……!ど、どうすればよかっだとかわからなくてっ……! すっごく……怖かったしっ……!」
弱々しい嘆きの言葉。あまりに悲痛な涙声がした。どうしてこんなになるまで、みんな彼女を放置しておいたのか。いや、それは僕が言えることではないな。
ごめんな、海島 菜月。
こんなに近くにいたのに、気付けてやらなくて。
今度はちゃんとお前のことを理解するように頑張るから。
「わかってるよ、菜月。今まで辛かったもんな。苦しいことや悲しい事もいっぱいあったけど、よく一人で頑張ったと思う。こんなの普通なら出来ないことだ」
誰よりも強がりやさん。けれど、人一番負けず嫌いで友達想いな女の子。それが海島菜月、一年B組の副委員長。けっして泣き顔を見せないのが、この子の強いところだ。
「大丈夫だ。今は僕がついてる。ちゃんと味方だ。後は任せろ、必ずなんとかしてみせる」
ゆっくりと頭を撫でると、海島は僕の胸板に顔を預けて、声も出さずに泣いていた。すごい良い匂いがしたってのは、ナイショの話である。
夕暮れが抱き合う僕らを包み込む。オレンジの光がオーロラのような輝きを放っている。カラスの声が反復して、何度も何度も、鼓膜を響かせていた。
どのくらい時間が経過しただろうか。体感時間ではそんなに経っていない気もする。海島が腕の中からひょいと出てきた。猫みたいな手つきで鼻を擦りながら、半笑いを浮かべる。
「ごめん。ちょっと、鼻でちゃった……」