魔女とぼく。
十年前──。
物心ついたときから、僕という人間は存在していた。
いつの間にか生まれていて、いつの間にか歩けるようになっていて、いつの間にか言葉を発していて、いつの間にか、家族の一員になっていた。
頭はそれほど良くはなかったので、ときどき他人の言ってる言葉を取り違えて捉えたりしていた。会話があまり好きではなくて、口下手でどうやって話せばいいのかわからなかったので、父さんが好んで見ていた映画の字幕を会話の勉強に活用していた。父さんは寡黙な人だったから、そこもちょっと受け継いでいるんだと思う。
「僕」という第一人称を使用しているのだって特別な理由なんてない。
ただ「俺」という言葉を使用するのが、妙に恥ずかしかっただけである。
昔から、僕は、僕っ子だった。
「警察になんて好んでなるものではないな。見たくもない世間の“穢れ”を見るハメになる」
僕の父さん、新垣 善次郎は警察のお偉いさんだった。役職もかなり上の方でいつも仕事に追われていた。幼い頃から、家にいたところをほとんど見たことがない。
「そないなこと、子供らに言わんでもええやんか。アンタそういうとこ、なおさなあきまへんよぉー」
僕の母さん、新垣 恵美子は元弁護士で父さんと違って、お喋りな人であった。父さんが挙動がゆっくりしている人なら、母さんはその反対でがちゃがちゃと動く人だった。
二人は35歳と28歳の頃に結婚して、二年後に子供を授かった。最初に産まれたのが長女である新垣 奈々美だった。
彼女こそ、二歳年上の僕の姉貴だった。
それからしばらくして僕が産まれて、また二年後に妹の瑠美が産まれた。
子供の頃の瑠美は人見知りで基本的に母さんか姉貴の後ろばかりに付いて動いていた。
親指を口に咥えて「やだ!やだ!」とよく駄々をこねていた。
僕のことは昔からあんまり好きじゃなかったようで、そこまで懐いてはくれなかった。
産まれた順番というのがあったから別にそこまでの優越を気にしてはいなかったけれど、それでもやっぱり姉貴や瑠美ばかりが特別扱いされるのが妙に気に入らなかった。
瑠美が頼めばお父さんとお母さんはなんでも買ってくれるし、与えてくれるし、甘えさしてくれるのに、僕が頼めば「男の子だから〜」と断られる。そこが少しだけ、イヤだった。
別に両親からの愛情を独り占めしたかったわけではない。でも、僕よりも瑠美に母さんは付きっきりだし、大人しい僕より、活発的な姉貴の方が家庭内では目立っていた。
僕が姉貴のおもちゃを勝手に遊んでいれば、姉貴はすぐに暴力を駆使して、おもちゃを全力で取り返しにきた。
昔の姉貴は喧嘩っ早くて、腕っ節もあったから、一度たりとも勝てた試しなんてなかった。
だから僕は姉貴に大人しく従うしかなかった。
「善一。おまえ、男の子のクセに私より弱いな?」
背中に乗られて、そんな言葉を浴びせられた。
男のクセに〜とかそういうことを言われて、文字通りマウントを取られていた。
僕は泣き虫だったから、悔し涙を浮かべながら、静かに息を殺すことしかできなかった。
昔の姉貴は男の子とつるんでばかりだったのもあってか、本当に男のようだった。
服装だって女の子らしくはないし、男の子の中に混ざってもなんの違和感もないようだった。
子供だというのもあるのだろうけど、どこか女性らしさというものを感じさせられなかった。
「……おねえちゃん、重いよ」
「重くない。男の子だろ?」
「……おもいから」
「いまの私の体重は30キロもない。テレビでは100キロのダンベルをラクラクに持ち上げている人を見たぞ。大人の男ならできるようになるらしい。じゃあ、今から善一もがんばらないとだな」
「……そんなの、できないから」
「さっき私はおまえを乗せたまま腕立てできたぞ。私ができて、なんでおまえができないのだ?」
よく姉貴は僕を四つん這いにさせて、背中の上で胡座をかいていた。
姉貴は人の上に立つことを好んでいた。
人に命令することを好んでいた。
「おねーちゃん……やめて」
「男の子が『おねーちゃん』だなんて、女の子みたいな呼び方をするな。男の子なら、もっとカッコよく呼べ。そうだな、たとえばーー」
腕がプルプルと震えている。
上ではまだ胡座を続けている。
「姉貴ってのはどうだ? この前みた任侠映画でそんな呼び方をしていたし。うん、いいかも。よーし、善一。今度から私のことは“姉貴”と呼びなさい」
「……おねーちゃんはダメなの?」
「ダメ。ダサい」
頭をポカンと殴られる。
「うわっ」と体勢が崩れる。
「弱いなー。情けない」
地面にぐったりしてるのに、僕の背中に乗ったまま、姉貴は動こうともしなかった。
彼女はそのまま、続ける。
「この前、何かの本で読んだけど、ピラミッドってのは奴隷が作ったそうだ。圧倒的な支配者が奴隷を好きに動かした結果が、あの建造物らしい。パパも言ってたけど、奴隷根性ってのは染み付いたら負けなんだとか。上に立てなきゃ、ピラミッドを作るだけで人生を終えることになる。善一、おまえ“奴隷”で終わりたいか?」
「……どれいでいいから。はやくどいて」
「むっ? 奴隷でいいだと? そんな根性でどうする。いいのか、奴隷で。私の命令どおりに動く下僕でいいのか? このままの姿勢で、外を歩かせるぞ」
「……べつにそれでいいよ、おねえちゃん」
「姉貴だ」
頭をポカンとまた殴られて、姉貴は寝転がっている僕の上に立った。
背中の上に乗ったまま、頭を踏みつけた。
姉貴はドSだったから、よくこういう行動をしてきていた。
「いつかおまえも大人の男になるんだろ? 私の方が強いのはいまだけだ。力では大人の男には勝てなくなるしな。強くならねば、強くならねば。そうじゃなきゃ、女の子を守れないぞ。善一」
僕は立派に姉貴の奴隷をしていた。
「──女の子に好き放題されてどうする? 強くなれ、善一。上に立つんだ。誰よりも上にな」
僕は生まれ落ちたそのときから、姉貴の奴隷だった。
上昇志向が強い彼女の、立派な下僕だった。
※ ※ ※
日常的に僕は姉貴に「強くなれ」と命令されていた。
彼女自身が持つストイックな性格もあってか、僕はかなり厳しく姉貴に当られていた。もちろん他人に厳しくするだけでなく、彼女自身も誰よりも上を目指すように鍛錬を積んでいた。
そろばん塾やピアノ教室、スイミングスクールなどの様々な習い事を掛け持ちしていた。
小学校低学年にして、これである。
幼少期の頃から、姉貴の才能が開花していくのを僕は間近で見ていた。
「……おなかへった」
そんな姉貴のことを僕が好きになるわけがなくて。でも、姉貴の言ってることに反論できるほどの脳はなくて、だからこそ鵜呑みにしなくてはいけなくて、ぼんやりとイヤだなぁと休日にとぼとぼと外を歩いていた。
ご近所の桜を見ている。
今年も一段と美しく咲いている。
ボーッと眺めながら歩く。
そのまま足は自然と吸い込まれるように公園の中へと向かってゆく。
公園内ではサッカーが行われていた。
ここでは週末によくサッカークラブが練習をしている。
興味はないが、見かけるたびに足を止めていた。
だからと言って、サッカーは別に好きでも嫌いでもないのだが。
「……うげっ」
男性用のユニフォームを着用した姉貴がチームに混ざっているのが見えた。
荒々しく駆け出して、周りの連中をなぎ倒し、シュートを決める。
ゴールの笛が鳴り、姉貴が天高々とガッツポーズをしてみせた。
素人目から見ても、とんでもなく上手いのはすぐに理解できた。
もう完全に初心者を凌駕していた。
「……帰ろっと」
そんな凄まじい光景を目の当たりにして、僕が劣等感を覚えないわけがなかった。
姉貴という存在が、姉貴という怪物が、すぐ近くにいるのがとてもイヤになってきて、即座にその場から離れようとした。
そんなとき、だった。
不意に声をかけられたのは。
「なあ、おまえもみにきたの?」
「え?」
あたりを見渡すも声の主は見えない。だが、確実に僕個人に向けて声をかけてきたのは明確だった。しかし、姿は映らない。サッカークラブのみんなは公園のベンチで休憩している。
あれ、一体じゃあこの声はどこから……?
も、もしかして宇宙人!?
「おまえもまじょを見学しにきたのか?」
ふと上空から声がする。視線を上げて、首を捻ると、5メートルはある木の上に男の子が座っているのが見えた。
手にはサッカーボールを持っている。
「えっと……君は、だれ?」
魔女とは姉貴のことであった。姉貴はこの頃、その得体の知れなさから、魔女とあだ名されていた。
「そうだな。まじょ討伐部隊のゆうしゃかな」
「??」
少年はそう言って、手を広げる。
腕から落ちたボールを器用に足ですくって、そのままリフティングを始めだす。
木の上で座ったまま、リフティングをしている。
「おれは玉櫛ってんだ。おまえだろ? まじょの弟ってのは」
謎の少年が、不気味な笑みを浮かべて、僕にそう告げてきた。




