僕は二面性があるハーレム高校生。
「オ゛ラァァア!!」
擬音で表現するとしたら「ドゴン‼︎」または「ボコン‼︎」だろうか。
奇声を発した西先輩の拳が、僕の鼻先を強烈にノックした。
思わず「バタン‼︎」と倒れる。
「……っ!」
体勢を崩したので、右手で身体を支える。
鼻炎になったかのように鼻が詰まっている。
ヒクヒクと動かすと、液体が出てきた。
左手で溝の辺りを擦る。
手の甲には赤い絵の具が付着していた。
もしも僕が芸術家だったならば、この“赤”を使用して、鮮麗な薔薇を描いていたことであろう。
勿体ない。
こんなことで貴重な鉄分を失うなんて。
低血圧だというのに、ヒドいや……。
またレバーやマグロの赤身をきちんと食さないといけなくなったぞ。
「新ちゃん! 大丈夫かいな!?」
「……あぁ」
駆け寄ってきた安田くんに応答する。
再び、左手で鼻を擦ると、一滴の雫が「ポタン‼︎」とグラウンドに落下した。
雨が降ったように砂がまとまっている。
血でも砂は固まるだろう。
前方を見つめる。
僕を殴った張本人は、他の先輩方に肩を抑えられていた。
まだ怒りは収まっていないようで、「ゴラァアッ!」と怒声を荒げている。
闘争本能の塊みたいな人だな。
「このッ──クソ生意気な一年坊主がァアッ……!! ブッ殺してやるッ……!! ここでブッ殺してやるッ……!! テメェ、いつまでもチョーシこいてんじゃねェぞゴラァ!?」
「よせ、西! 停学になりたいのか!?」
「──うるせェよ、上等だボケナス! 留置所だろうが、監獄だろうが、好きなだけ入ってやるよォ……! オラ、クソガキ! テメェが始めた喧嘩だろうが!? 買ってやるから、かかってこいよオラァ!!」
「おいやめろって! 西!」
完全に頭に血がのぼっている西先輩。
アドレナリンがドバドバだ。
目を見開いて、人差し指を挑発的に前後に振っている。
「……」
不思議と怖くはなかった。
グラウンドに座禅を組みながら、心の平穏を保ちながら、様子を見守っている。
今すぐかかってこいだと?
そんなの、行くわけがないだろう。
暴力を行使するだなんて、弱い人間がするべき行為である。
腕っぷし自慢がしたいだけなら他所でやってくれ。
あーあ、無駄血を流してしまったかな。
「黙ってんじゃねェぞ、糞ガキィ!? さっきまでの威勢はどうしたァ! 一発殴られたくらいで、腰が抜けたっつーのかァ!? ビビってんじゃねェぞ! チンカス野郎! テメェのその整ったツラをすぐさま粉々にしてやっから、素直に顔面を差し出せェ! 殺される覚悟は出来ているんだよなァ!?」
「だから、落ち着けよ!」
「聞いてんのかァ!? 天才野郎!!」
遠い目で見つめる。
口には出さなかったが「哀れだなぁ……この人」と呆れかえっていた。
怒ったところで何も問題は解決しないというのに。
きっと、西先輩がこれだけ激情しているのは、僕の言っていることを正しいと認めているからなのだろう。
正しいと思っているからこそ、怒っているのだ。
暴力を行使したのが、何よりの証拠である。
反論ができないから、暴力に頼る。
こんなもの、僕に降参しているのと同義だ。
これはアルミン・アルレルトも同じことを言っていた。
「……聞いていますよ。よくも殴ってくれましたね。痛いじゃないですか」
父さんにも殴られたことはないというのに。
姉貴にはあるけど。
「殴られたら痛いんですよ。肌は傷つくし、血は出るし、自然と涙だって出てくる。確かにその方法が手っ取り早いですよ。強い言動を使用すればムカつく相手を即座に黙らせられる。……正しいですよ。本当に正しい。正しすぎて吐きそうなくらいに」
僕だって、マックドで明希がやられっぱなしになっているのを見ていられなくなって「二度と関わるな」なんて脅しを使ったくらいだ。
あれも言葉の暴力に過ぎない。
阿呆らしい権力争いだ。
名誉の負傷だなんて言うつもりもない。
自業自得である。
殴られて当然だ。
先輩たちの夢を愚弄して、コケにして、横暴な態度を取ったのだから。わざわざ怒られにいったようなものだ。
「喧嘩が弱く、力に頼れない人間は、いつだって強靭な力の前に屈します。同様に知恵のない人間も、頭の良い相手にはヘコヘコと従います。不満を抱え、文句を言いながらも、そうすることでしか自分の身を守れませんから。僕のように弱い人間はいつも西先輩のような強者の前では、静かにやり過ごすことしか出来ないんですよ……」
弱々しく述べる。
視線を落として、鼻呼吸ができるかを確認する。
二本の指を穴に入れると、血の塊が出てきた。
鼻血は止まったようだ。
「──オイオイ、一発殴られたくらいで心が折れたのかァ……? 随分と貧弱じゃねェか〜天才野郎ッ!! ケッ、口先だけの腑抜けがァ……。弱ェクセに、チョーシに乗るからそうなるんだよォ……馬鹿が」
弱々しくなった僕の姿を西先輩は嘲り笑ってから「ペッ」と神聖なグラウンドにタンを吐いた。
ツバでも砂は固まる。
ここまでやればもう充分だろうか。
目を伏せて、大人しく息を吐く。
新垣 悪一の悪ノリも──ここまでだ。
「もう、殴らないでほしいです。お願いします」
「ハァ〜? 散々好き勝手に振る舞っておいて、なんだその態度ァ!? なら、謝罪が先だろうがァ!」
「……無礼な態度を取ってしまい、申し訳ございませんでした」
「声が小ィせェなァ……? よく聞こえなかった」
目を瞑って、腹から声を出す。
「先輩達を挑発して、不快な思いをさせてしまい、本当に申し訳ございませんでした!」
「もう一回」
「本当に申し訳ございませんでした!!」
「よし。土下座をしろォ……」
言われた通りに素直に従う。
僕の背後で誰かが息を呑む音が聞こえた。
両手を前に付き、膝を地につける。
頭をゆっくりと下げる。
やり終えると、西先輩は満足気に笑った。
「ハッハッハ! コイツ、プライドもねェのかァ!? 天才のクセにダセェなァ……! ──オイ、一年坊主ども! これでよーくわかったなァ……! 俺に逆らうとどうなるか、身に染みてわかったよなァ!? テメェらの希望の星も、たった一発殴られたくらいで心が折れちまったらしい。写真を撮りてェ奴は撮れよ。今なら、スマホを取りに部室に戻るのを許可してやる!」
西先輩以外、誰も声を上げなかった。
空気が凍りついている。
頭を地面に引っつけたまま、僕はジッと砂の揺れ動く気配だけを感じていた。
「興醒めだなァ……。所詮、喧嘩の一つもできねェヘタチン野郎だったかァ……。くだらねェ。まァ、敵わねェ相手もいると理解したのは賢い選択だがなァ! だからと言って──俺の気が晴れるわけではねェが」
曇り空、まだ陽は出ていない。
「よォ〜し、せっかくだからテメェ──そのままの体勢で、手を後ろにやり、地面に頭をつけェ。顔面をボールでブッ飛ばしてやる。前歯が何本か折れるかもしれんが、まァ事故ってことにしておけばいいかァ。オイ、誰かソイツを抑えろ。あとボールを持ってこい。拷問ショーの始まりだ」
西先輩のスパイクが地面を削るのが見えた。
誰も、動く様子がない。
「──オイ、一年坊主ども。聞いてんのかァ!?」
「……おい、西。流石にやり過ぎだ」
「お前らァ! ボールを持ってこいって言ってんだよォ……!!」
「西!」
誰かが、西先輩の肩を叩いた。
「もうやめろ! お前、気が狂ったのか!? 流石にやり過ぎだ! こんなの、おかしいぞ!」
「あァ?」
まだ顔は上げない。
「復讐のつもりか!? 過去に自分がやられたことをコイツらにやり返してるのか!? やめてくれ! 確かに昔のことは辛かったのかもしれない! でも、こんなやり方は間違っている! 千尋だって、お前のことを心配していたぞ!?」
「……アイツは関係ねェだろうがァ」
「悔しかったんだろ!? そりゃそうだよな! お前の好きだった千尋は、あの浮気野郎の荒木と付き合ったんだしな!? 知らないと思ったか? みんな知っているさ! お前は傷心だった千尋を助けたくて『辞めろ』だなんて、言って部活から追い出したんだろ! 違うのか!?」
「その話は関係ねェだろうがァ!?」
名もわからぬ先輩が叫んでいる。
取っ組み合いが起きようとしている。
少しだけ、顔を上げる。
相手は二年生の南先輩だった。
「いい加減にしろよ! 俺はお前を尊敬していたんだ! あのクソどもに虐げられたときに、唯一立ち上がってくれたのはお前だったからな!? ……そのせいでああなってしまったけど、あの時助けられなかったって、今でも後悔している! でも、お前の今の暴走には目も当てられない! 新垣の顔面にボールをぶつけて、事故に仕立て上げるだなんて、完全にアイツらの真似じゃないか!? 私怨以外の何物でもない!」
「──さっきまで黙って見ていたクセに、今更英雄気取りかよォ……。南ィ、テメェから先にブッ殺してやろうかァ……?」
「やれるもんなら、やってみろよ! 言っておくが、俺だってコイツのことは嫌いだ! さっきの新垣の言葉にはかなり苛立っている! わかるぜ? 俺たちが一年のときはボール拾いばかりでまともに練習に参加すらさせてもらえなかったのに、コイツらときたら、練習はサボるわ、やる気はないわ、監督の贔屓で大会には出場できるわで、ぬるま湯に浸かっているんだからなぁ! お前がムカつく気持ちはよーくわかる! でも、これは流石にやり過ぎだろ!?」
「──黙れェ! 俺の邪魔をするなァ!! 俺がキャプテンだ。俺が主将なんだよ!? これは俺のチームだ。俺が動かすんだよ! だから、俺の、俺だけの言うことを、お前らは聞いてればいいんだよォ!! それで今まで上手くいってきただろうがァ……!!」
首を上げる。
西先輩と南先輩が喧嘩しそうな勢いで本音をぶつけあっていた。
僕はただジッと黙って、その様子を眺めている。
「オイ、一年坊主ども……。とっととボールを持ってこい! あのクソガキを痛めつけなけりゃ、俺の気が晴れないからなァ……!?」
「聞く耳を持たないのかお前は!!」
「安田ァ!! そういやテメェも副キャプテンになるとかほざいていたなァ!? 俺の前で言ってみろよォ! ──オイ、サボり野郎!!」
名前を呼ばれた男が、僕の隣でグッと拳を固めた。
静かに息を殺していた坊主頭の少年の瞳に、生気が灯る。
「ええ加減にしてくれや!? なんやねんこれ! もう無茶苦茶やんけ……。ワイはただサッカーが好きやから部活に入ったのに……好きなサッカーで試合に出場して勝ちたいだけやのに、なんでこんなゴタゴタに巻き込まれなあかんねん! やめてくれや!? こんなん、もう、ウンザリじゃっっ!! ボケェ!!!!」
困惑したような表情のまま、お得意の関西弁で彼はーー叫ぶ。




