50 もうひとりのヒロイン1
伊藤さんの発言は、すべてが破天荒であった。
だけど、何一つ間違っていなかった。
伊藤さんは言った。
ニートとは、すなわち兵法である。
ニートを極めし者は、最高の兵法を学んだ者に等しい、と。
俺が二大凶暴モンスター、クリスタルドラゴンとシューティングスターを撃破できたことが、その真意を的確に物語っている。
・戦わずして勝つ。
・風林火山。
この二大兵法を、ニートタクティクスとして繰り出せたのだから。
さらに伊藤さんは、こう言った。
お姫様は、漫画の世界の住人だと。
これはすでに理解の範疇を超えている。
だが、これも当たっていた。
それも『スタイリッシュ悪役令嬢の逆襲』でわずか3コマしか登場していない、超モブキャラということまで知っていたのだ。
お姫様はすぐに「あーん、あーん」と泣く。
きっとコミックの作者は、お姫様の人格まで作り込んでいないのだろう。
だからどうすればいいのか分からず、まるで赤ちゃんのような反応しかできないのかもしれない。まさに白いキャンバス。
そろそろ東の空が赤く染まり出してきた。
伊藤さんが宣言した日まであと三日となった。
伊藤さんは4日以内に、1万ゴールドを手にしろと言った。つまりフロイダからエクイアルサファイアを、指定した時間以内に回収しろってことだ。
それは一体どういう意味なのだろうか。
お姫様が消えるまでの時間なのだろうか。
それとも……
もしかして、カノンさんの身に……
伊藤さんは、更に妙な事を言ったのだ。
お姫様が消えてしまうってのも、かなりヤバいことなのだが、俺の頭を支配しているのは、伊藤さんのその言葉ばかりだ。
朝が来ちまったのに、眠気なんて吹き飛んで、目がさえる一方だ。
嫌なことばかりが脳裏をよぎる。
モンスターを撃沈させた俺には、1548ゴールドもある。
伊藤さんと別れた後、街まで戻り、お姫様に宿代を渡して翌日の集合場所を決めると、俺はある場所へと急いだ。
俺の脳内には、何度もあの台詞が蘇る。
その度に、俺はゾクッと身震いをしてしまう。
伊藤さんが残した驚異的な言葉――
それは。
――このまま駒を進めると、いずれカノンさんと戦うことになる。
俺がいくらその言葉の真意を問うても、伊藤さんは「今のあなたがそれを知れば、すべてを失います」と静かに繰り返すだけだった。
別れ際に伊藤さんはこう言った。
「もしかして、エリック様は彼女のことを好きになってしまったのですか?」
カノンさん。
俺が尊敬する人。
果たしてそれだけなのだろうか。
カノンさんとはちょっと話しただけ。
時間にして30分くらい。
だけど人を好きになるのに、どれだけの時間が必要なのだろうか。
カノンさんという存在は、たった一瞬で俺の心を虜にした。
ことある度に、俺の脳髄に蘇り、彼女が俺に語り掛けてくるのだ。
最初は、道に迷った時、もしカノンさんならどうするだろうか――そういう心理だった。だが、今は果たしてそうなのだろうか。
彼女を助けたい。
彼女を守りたい。
こんなことを考えるなんて、おこがましいこと甚だしい。
俺なんかより、彼女の方がずっとずっと強い。
だけどそれは精神面であり、人間性においてだ。
彼女は女性。
レベルはたったの3。
でも悪に屈しない為に、弱者を救う為に、塀の中で戦っている。
あんなに白いのに。
あんなに華奢なのに。
もはや視力すらないというのに……
それでもあの、曲がった事が嫌いなことを連想させる口角の上がった美しい唇は、彼女の存在感を力強く引き立て、長くて優雅な黒髪は、上に立つ者の気品を感じさせられる。
まさに檻の中のジャンヌ。
俺の心を救ってくれた傷だらけ天使。
それを確かめる為に、ロングナイラの収容所を目指しているのかもしれない。
*
収容所の厚い扉は閉ざされている。
懐中時計を見た。
午前7時23分。
開門まであと7分。
彼女は目が見えない。
それなのに、俺は手鏡を出して髪型を整えていた。
徹夜をして目はやや赤目を帯びているというのに、どういう訳かいつものニートらしい死んだ目ではなかった。自分で言うのもこっ恥ずかしいのだが、なんとも勢いのあるいい顔をしているのだ。
カノンさんに会ったら何を話そうか。
今は告白なんてとてもできないだろう。
俺はまだまだ半人前だ。
まずはカノンさんに認めて貰えるような人になろう。
カノンさんの好きなタイプを聞こうかな。
そうだ、カノンさんの尊敬している人を聞こう!
その人に少しでも近づけるように頑張ろう。
そうすれば、なんか活路が見えてくるような気もする。
そう――
もう、俺は、俺自身の心に気付いていた。
偽りのない本心というヤツに。
伊藤さんは変な事を言った……
でも伊藤さんの言う事は変なことばかりだ。
嘘こそ言わないが、突拍子のないことばかり。
もしかして伊藤さんが言いたかったことは、こうじゃないのだろうか。
伊藤さんはこういう言い方をした。
運命のラスボス――
それはまさしく運命の人に違いない。
そして如何なる汚い言葉を吐いても、その絶望を飲み込む事ができず、そしてニートの腕輪に心を奪われる。だからあなたは次の試練を乗り越えなければなりません――
つまり今のままの俺だと、あっさりフラれちまう。
このまま俺が駒を進めて行けば、カノンさんと戦う――
それは恋愛という名の心の駆け引きをするってことだろ?
まさにバトルだ。
そして俺は負ける。
あくまで今のままでは。
そう言っているんだろ、伊藤さん。
だけど最後に聞こえてくるのは、別れ際に言われたあのセリフだった。
――もしかして、エリック様は彼女のことを好きになってしまったのですか?
その言葉で、俺は自分の本心がハッキリと分かった。
でも――
どうして伊藤さんは、あんなに辛そうな顔をしたんだろうか。
朝日を背にした伊藤さんのメガネは、何とも言えないくらい寂しそうだった。
なぜ?
だけど最後に小さく漏らした言葉が、俺に勇気を与えた。
伊藤さんはうつむいたままメガネの中央に指を添え「やはりそうでしたか。わたくしとしたことが、思慮が足りませんでした。まさか、まぉ……。
いえ……
わたくしは、あらゆる状況を考慮していますが、それはあくまでも絶対的な指標の上においてのみです。
最後に判断するのは、実際の受け手。
わたくしは運命を信じます。
わたくしの計算した事項など、所詮、色眼鏡を通しての仮説。
そんな仮説を覆すのは、いつも熱き心。
あなたの選択は、きっと過酷な運命を切り開くでしょう。
あなたはニート。
ニートに不可能などありません」と言ったのが聞えたからだ。
伊藤さんは俺を応援してくれている。
再び懐中時計に視線を落とした。
まだ30秒しか経っていない。
こんなに長い7分間を経験するのは、実に何年ぶりだろうか。
足で、足元の土の上に何度も落書きを描いては消した。
無意識のうちに……カノンさん……と書いていた。




